矢野
dentyuyade
DONE坂井克樹には大人の相手の方がまだ幸せの道があるような気がします。矢野くん相手にはまったくそういう気持ちはないけど、彼にはちょっとあってもいいな、と思いながら書きました。ライターの底「よお」
「……なんでいるんだ」
坂井克樹の家は、生業としている古書店の二階部分にあたる。古臭く、人間の出入りがない部分には埃すら立ち込めていることも少なくないそこは、坂井ともう一人、今はおらぬ同居人の住処としての機能を持っていた。だから、坂井は終業後の買い出しから戻ったその時、覚えのない灯りがともっているのを見て、ああようやく帰ってきたのかと、そう安堵したにもかかわらず、である。ストーブの前に丸まっているのは男にしては華奢な、かの後ろ姿ではなく、くしゃくしゃになったワイシャツにくるまれた、まさしく年上の男と言わんばかりの背中なのだから、世の中は思うようにならない。坂井は一つ溜息をついて、座布団を投げつけた。
3099「……なんでいるんだ」
坂井克樹の家は、生業としている古書店の二階部分にあたる。古臭く、人間の出入りがない部分には埃すら立ち込めていることも少なくないそこは、坂井ともう一人、今はおらぬ同居人の住処としての機能を持っていた。だから、坂井は終業後の買い出しから戻ったその時、覚えのない灯りがともっているのを見て、ああようやく帰ってきたのかと、そう安堵したにもかかわらず、である。ストーブの前に丸まっているのは男にしては華奢な、かの後ろ姿ではなく、くしゃくしゃになったワイシャツにくるまれた、まさしく年上の男と言わんばかりの背中なのだから、世の中は思うようにならない。坂井は一つ溜息をついて、座布団を投げつけた。
dentyuyade
DONE死を感じることは同時に生を感じることだと思います。首締めが好きです。坂井くんと矢野くんの話。生存本能は執着たり得るか矢野葵は執着心というものとおおよそ縁のない男だと思う。それは坂井がここ数年……もちろん途切れ途切れではあるのだが、それでも幾度となく同じ釜の飯を食ったりして彼を観察し、得た結論だった。物を捨てろと言えば容赦なく捨てる。一口欲しいと言われれば一切の迷いなく差し出すし、挙句の果てにそれは人間関係にまで適応されるのだから世話ない。好意を向けられればそれに応え、かと思えばそれが反転してしまっても何の感慨もなく距離を置ける。今まで坂井と矢野との縁が切れなかったのも、偏に坂井側が拒絶を示さなかったから、の一点に尽きるような気がする。何時だって適当に、流されるままにへらへらと。その軽薄な様子の下に隠されているものを坂井は垣間見たこともあるのだが、だからといって理解できるわけでもないのだから困りものだった。揺蕩うまま、身じろぎ一つせずに、流され沈もうとしている姿は、執着心の人一倍強い坂井には理解しえないものでしかない。
3157dentyuyade
DONE矢野くんと坂井くんのちょっと先の話。坂井克樹、矢野葵に負けないでほしい。世界心中願望にさよならを息をすることは容易いことだと、生きとし生けるものすべてが思っている。それは今を生きる存在は皆等しく呼吸をしているからであり、それが難しくなるというのは即ち、死に近づいているという事実を意味するからだ。だから、肺というのは実のところ心臓よりもずっと生に密接した器官であり、それを損なわんとする行為は自殺と呼ぶに等しいのである。そう、それは例えば煙草であったりだとか。
「あー、まっず……」
一度たりともこの人生において煙草の煙を美味いと思ったことは、矢野にはなかった。ではなぜそれを欲するのか。ニコチンへの依存と言ってしまえばそこまでかもしれないが、あえて言うならば、そこに安心を覚えるからと表現するほかない。肺を汚染することは緩やかな自死で、希死念慮を満たすにはもってこいの小道具なのである。それを思うたび矢野は、大人になってよかったと唯一感じるのだ。フェンスに寄りかかり、マンションの一室から街並みを眺める。知らぬ街からそれなりに知った街になったそこには、いくつもの光が息づいては湛えられていた。いつまでここにいるべきか。そんな答えのない問答に、静かに火蓋が切られたのを矢野は肌で感じ取る。
4743「あー、まっず……」
一度たりともこの人生において煙草の煙を美味いと思ったことは、矢野にはなかった。ではなぜそれを欲するのか。ニコチンへの依存と言ってしまえばそこまでかもしれないが、あえて言うならば、そこに安心を覚えるからと表現するほかない。肺を汚染することは緩やかな自死で、希死念慮を満たすにはもってこいの小道具なのである。それを思うたび矢野は、大人になってよかったと唯一感じるのだ。フェンスに寄りかかり、マンションの一室から街並みを眺める。知らぬ街からそれなりに知った街になったそこには、いくつもの光が息づいては湛えられていた。いつまでここにいるべきか。そんな答えのない問答に、静かに火蓋が切られたのを矢野は肌で感じ取る。
dentyuyade
DONE矢野くんの過去の話とあれそれ。とても短い。もう一個書きたいやつあるからまた後であげる。墓前で笑う小学生のころ、近所に住んでいた年上の男と仲が良かった。お菓子をくれたり、ゲームをさせてくれたり、それなりによくしてもらっていたから、それなりに好きだった。
「……あおいくん」
日の巡りが悪かった。女みたいな顔が悪かった。油断したのが悪かった。腐った果実みたいな声で己の名を呼ぶ男の声を、理解できるほど大人じゃなかった。理解できないように、作られていた。その日泣きながら扉を蹴破って見た世界は、恐ろしいほどに敵だらけになっていた。
「あおいくんは綺麗な顔だからねぇ」
己のことをよく知らぬ他人がそんなことを宣う。理解ができなかった。自分の身は自分で守らなきゃダメなんだと笑うそいつらが、同じ人間だとは到底思えなかったのだ。気づけば町から姿を消していた男も、心配しているような顔をして優しい言葉で己のことを責め立てる人々も、全てがただただ恐ろしい世界に、矢野は気づけば一人で立たされていた。顔が綺麗なことが加害を正当化する世界は、どうしようもなく、怖い。
3024「……あおいくん」
日の巡りが悪かった。女みたいな顔が悪かった。油断したのが悪かった。腐った果実みたいな声で己の名を呼ぶ男の声を、理解できるほど大人じゃなかった。理解できないように、作られていた。その日泣きながら扉を蹴破って見た世界は、恐ろしいほどに敵だらけになっていた。
「あおいくんは綺麗な顔だからねぇ」
己のことをよく知らぬ他人がそんなことを宣う。理解ができなかった。自分の身は自分で守らなきゃダメなんだと笑うそいつらが、同じ人間だとは到底思えなかったのだ。気づけば町から姿を消していた男も、心配しているような顔をして優しい言葉で己のことを責め立てる人々も、全てがただただ恐ろしい世界に、矢野は気づけば一人で立たされていた。顔が綺麗なことが加害を正当化する世界は、どうしようもなく、怖い。