生存本能は執着たり得るか矢野葵は執着心というものとおおよそ縁のない男だと思う。それは坂井がここ数年……もちろん途切れ途切れではあるのだが、それでも幾度となく同じ釜の飯を食ったりして彼を観察し、得た結論だった。物を捨てろと言えば容赦なく捨てる。一口欲しいと言われれば一切の迷いなく差し出すし、挙句の果てにそれは人間関係にまで適応されるのだから世話ない。好意を向けられればそれに応え、かと思えばそれが反転してしまっても何の感慨もなく距離を置ける。今まで坂井と矢野との縁が切れなかったのも、偏に坂井側が拒絶を示さなかったから、の一点に尽きるような気がする。何時だって適当に、流されるままにへらへらと。その軽薄な様子の下に隠されているものを坂井は垣間見たこともあるのだが、だからといって理解できるわけでもないのだから困りものだった。揺蕩うまま、身じろぎ一つせずに、流され沈もうとしている姿は、執着心の人一倍強い坂井には理解しえないものでしかない。
(もし、死へと繋がるような状況におかれたとして)
矢野はそれでも何もしないのだろうか。目の前で頬杖を突きながらテレビを眺めている彼は驚くほどに無表情で、坂井はそれをもう珍しいとも思えなくなっていた。ある日を境に、坂井の目の前で気だるげな顔をする頻度がじんわりと増えていったのだ。恐らく素はそちらなのだろう。多分根は自分と似ていて、陰鬱で屈折したものを抱えている男なのだと坂井は踏んでいる。うまく隠してしまう分、自分よりよっぽど質が悪いとも。なぜ、そんなどうしようもない男の面倒を見ているのか、坂井はよくわからないまま、彼を側に置く選択を取り続けている。
(……もし、彼が死へとつながるような状況に置かれていたとして)
多分自分は、それを止めようとするのだろうなと思う。結局失うのが怖いだけだと言ってしまえばそれだけだけれど。執着でいっぱいの坂井には、他人について慮る余裕だなんて存在していない。坂井は坂井でしかありえないのだし、主観を脱することだなんて絶対にできないのだからそれでいいとすら思っている。エゴイストなのだ、自分は。突き詰めれば全て自己への執着に帰結してしまうような世界に坂井は生きていて、けれども、矢野にはそういったものが感じられないから、坂井はそれがそら恐ろしく、そして少しだけ憎らしく見える。羨ましいとも、妬ましいとも、腹立たしいとも、そのどれともつくようなつかないようなどうしようもない感情を引きずって、でもそれは普段は別の柵に隠されてしまって顕在化しないまま。自分でもどうしようもないと思うのだが、坂井はうまく折り合いをつけられるほど器用な人間でもなかった。だから、落ちてきてほしいと思う。自分と同じ程度の、どうしようもない人間に。
「君は」
「……へ? 何すか藪から棒に」
「君は、いつも事も無げな顔をしているが」
色のなかった顔に、途端に当惑が浮かぶ。ああそうだ。そういう顔が見たくて、自分は。坂井は徐々に自分の体の主導権が、無意識下にある何かへと移っていくのを感じる。そういう顔が見たくて、なんならその先の、もっと、人間的な。
「え、あの、先生。怖いんすけど……?」
その首筋に、指先が触れる。自身の不健康な白い指に、彼の皮膚から色が移ればいいのにと思った。そのまま、ぐっと力を籠めれば、あるいは。指先にとくとくと何かが脈打っている感覚が伝わる。これは本当に血の流れなのだろうか。彼の皮膚の下には自分と同じように血液が、血管が、内臓が、確かにその命を全うしているのだろうか。それなのになぜ、彼はいつもあんなに、何でもないような顔で、何にも興味なんてないような顔で。その奥を確かめたくて、力はさらに強くなっていく。喉仏が苦しそうに揺れて、苦しそうな呼吸音が部屋に灯るまで、坂井の瞳は矢野の表情を確かに映していたはずなのに、まるで認識できていなかった。
「……ど、して」
泣いているのか、と瞬間的に思う。冷静に考えれば当たり前のことである。首を絞めれば苦しい思いをするのだから、そりゃあ生理的に涙も出よう。それなのに、坂井は紅をさした目元と、苦し気に歪められたその整った顔と、何より緩く突き出された拒絶の腕に、確かに安堵を覚えたのだ。しかしそれも一瞬にして跳ねのけられる。矢野が流石にこれ以上はまずいと思ったのか、本気で抵抗を始めたのだ。はっとする。自分は、今とんでもないことをしてしまったのではないのか。
「え……うわあっ! 」
細指に通っていた緊張が一気に弛緩して、矢野の体はぐらりと崩れる。そのままの勢いで咳に喘ぎながら、文字通りに息も絶え絶えになっている背中を、坂井は慌ててさすった。どの面下げてそんなことをしているのか、と思わないでもないが、何もしないよりはマシである。お茶飲むかい、と震える手でコップを差し出せば、矢野はぜえぜえ言いながらも「先生が動揺するのはお門違いもいいとこでしょ」と呆れたように呟いた。その細い首が何かを嚥下するような動きをするのを、そこに確かに自分の加害の跡が残っているのを、坂井は半ば夢でも見ているような心地で眺めていた。あー、危なかった。矢野は緩く口元をぬぐって力なく笑う。
「シンプルに怖かったんですけど、何?」
「あ、いや……その、本当にすまない」
「いや別にいいんですけど。え、もしかして本気で殺す気でした?」
「ち、違う……! そんなつもりは」
無かった? 本当にそうだろうか。坂井はもう自分自身に自信が持てなくなっていた。坂井は主観でしかものを見れない。なら主観の外から自分を操るものがいたとしたら、どうすればいいのだろう。主観の外にも、自分がいたら、それは。押し黙ってしまった坂井の様子に気づくことなく、否、本当は気づいているのかもしれないが、矢野は「ですよねー」と息を漏らす。小説のネタにするのかなんだか知りませんが、せめて一声かけてから絞めてもらえると。そう締めくくってその場を後にしようとするのは、おそらく彼なりの気づかいだ。けれども、坂井は結局それすらも無碍にしてしまった。
「……もし。もし僕に、本当に殺意があったとしたら」
君は、大人しく殺されていたのか。震える声で坂井は問う。答えを聞くのを怖いと思うなら、初めから聞かなければいいのに。主観の外から自分が囁いてくる。ひどい気分だった。矢野はわずかにその丸い目を見開いて、それから呆れたように力を抜く。そんなわけないでしょ、と嘲笑のように与えられるその解に坂井はひどく、ひどく心の底の何かが掻き立てられるような気がした。先生は知らないかもしれませんが、人間には生存本能っていうのがあるんですよ。首を竦めてつまらなさそうに吐き捨てる矢野は、まるでそれをひどく疎ましがっているように見える。生存本能。本当に、それだけだったのだろうか。あの、弱弱しくも確かに存在していた死への抵抗は、本当に。
「ま、それに先生には俺は殺せないですよ」
「……そんなことないさ」
「いいえ、殺せません。……殺せるような人だったら、俺はとっくにあんたに俺を」
そこまで口走ってから、はっとしたように口をつぐむ。口を滑らせました、と早口で予防線を張る矢野に、坂井は少し迷ってからただ一言「次はもっと本気で抵抗してくれ」とだけ告げた。変態みたいっすよ、と笑う矢野には相も変わらず表情がない。けれど、その皮膚の下には、確かに希死念慮が張り巡らされていて、それは同時に生への執着が内在されていることの証明だと。そう捉えてしまうのは、些か都合が良すぎるだろうか。坂井は自分に都合のいいものの見方しかできない。いつだって、正しいことを決めるのは、この世界を見ている、主観である自分でしかないからだ。