ライターの底「よお」
「……なんでいるんだ」
坂井克樹の家は、生業としている古書店の二階部分にあたる。古臭く、人間の出入りがない部分には埃すら立ち込めていることも少なくないそこは、坂井ともう一人、今はおらぬ同居人の住処としての機能を持っていた。だから、坂井は終業後の買い出しから戻ったその時、覚えのない灯りがともっているのを見て、ああようやく帰ってきたのかと、そう安堵したにもかかわらず、である。ストーブの前に丸まっているのは男にしては華奢な、かの後ろ姿ではなく、くしゃくしゃになったワイシャツにくるまれた、まさしく年上の男と言わんばかりの背中なのだから、世の中は思うようにならない。坂井は一つ溜息をついて、座布団を投げつけた。
「鍵はかけていたはずですが」
「ああ、しっかりかかってたね」
「……不法侵入ですか?」
「馬鹿ガキ、合鍵だよ」
男は粗忽にポケットに手を突っ込んだかと思うと、坂井の前にそれをずいと突き出して揺らす。叔父も余計なことをしてくれたものだ。せめてこの家を出る前に回収しておいてくれればよかったものを。揺れるその銀色をすっと取り上げようとすれば、揶揄うようにしてその手は逃げ回った。食えない男だ。やり場のなくなった腕をやるせなさから下げた瞬間した勝ち誇ったような鼻を鳴らす音に、留飲を下げられる人間がいるというのなら是非とも会ってみたいものである。しかし反抗すれば痛い目に遭うのもまた自分だ。まあいいじゃねえか。何がまあで、何がいいのかよくわからない坂井は、しかしよくわからないままに「はあ」とだけ呟いた。
「愛想憑かされたんだろ? 囲ってた男に」
「かこっ……! 違いますよアンタじゃないんだから。愛想もつかされていません」
「どうだか」
百円ライターを幾度となくカチカチ鳴らしながら、何とか煙草に火をつけようとする姿に呆れる。オイルはあと少ししか残っていないのに、無理やりにでも使い続ける、その姿勢がなんだかひどく馬鹿馬鹿しく見えたのだ。手の内のものに随分執着する。この男の、どうしようもない悪癖だと思った。彼が自分に構うのだって、その一環だと坂井はよく知っている。
「なんですか。じゃあ僕が一人なのを見かねて慰めにでも来たんですか。とんだ間男的発想ですね」
「気色悪いこと言ってんじゃねえよガキ。てめえみたいな乳臭い子供に間男なんてできるか」
「乳臭いだなんだと言いますが、僕ももう二十はとっくに超えているんですよ」
「いくつになったってガキはガキだね」
そう言われてしまっては反論も何もあったものじゃない。端から筋など通すつもりのない相手に議論はできないのだ。坂井は怒るのも馬鹿らしくなって、それで結局何の用で来たんですか、とだけ問うた。ついでにせっかくなら炬燵を出すからとストーブを消してやれば、静かな舌打ちと共に煙草を口にねじ込まれる。咽るかと思い身構えたが、その苦みはいつまで経っても訪れなかった。この期に及んでまだライターは使い物にならなかったのか。キャンディーのようにしゃぶるわけにも行かず、どうにもできなくなった坂井がシケモクとすら呼べないそれを捨てようとした瞬間、背中をドンと蹴られた。値上がりしてから貴重なんだから捨てようとしてんじゃねえ。金にはほとほと困っていないはずの男の口から出たそれに「はいはい」とおざなりに返事をして、結局坂井はまたそれを咥え直す。変な気分だった。
「乳臭いガキに火もついてない煙草持たせて、何がしたいんですかアンタは」
「ぴーぴー喋りやがるお前へのおしゃぶり代わりだよ」
「人のことを何だと思って……」
「ずっと辛気臭く泣きそうな顔してんのが悪いんだろうが」
炬燵布団を出さんとしていた押し入れはひどく埃臭い。叔父の匂いなんて微塵もしないのだから不思議だった。叔父の匂いも、自分の匂いも、もう一人の匂いもしない。年月は人の記憶をいともたやすく奪ってしまうのだと思った。もっともそれは、自分の背後のこの男のほうが良く知っていることなのだろうが。炬燵布団を持ち上げるはずみでぎりと噛み締めた煙草が苦い。本当はこの部分にも名称があるのだろうが、そんなことは坂井には知りようのないことだった。
「……末島さん」
坂井はその日、初めて彼の名を呼んだ。叔父のためにこの建物を見繕い、軍資金と称し決して少なくはない金を無利子で貸し、それでもなお最後まで何の見返りを求めなかった男だ。否、本当は一つや二つ求めていたのかもしれない。そうであっても責められる謂れはないだけのことをしているだろう。慈善活動と言われたほうが気色が悪いとすら坂井は思う。……末島は多分、叔父に。少しだけ感傷的な気分になってしまった坂井は、忌々しげな顔で埃臭いその奥を睨んでいる末島の横へ、手にしていた炬燵布団を下ろしてにじり寄る。寒いからさっさとするぞガキ。地を這うようなその声に苦笑して、それから思い出したように坂井は口に含んでいたそれを、おもむろに目の前の口に移した。
「……坊やのおしゃぶりを返されてもねぇ」
「随分と辛気臭い顔をされていたので」
「……」
露骨に眉を顰めて不機嫌を極めている姿は中々に滑稽だ。少し勝った気分になる。もっともこれで対等に渡り合えるほどには大勝ちというわけでもないのだけれど。坂井は末島に、カチカチとライターを鳴らし始めるのを早々に止めて、炬燵のセットを手伝うように言った。黙って重そうに腰を上げていそいそと炬燵布団を広げ始める姿はどうにも所帯じみていて似合わない。変な男だ。何をしていても様にならない。生きるのが、不器用なのだろうと坂井はひっそりと思っている。
(……多分僕は、あのライターの残り少ないオイルと、そう変わらない)
数年前、坂井が大学を卒業するのを目前に、叔父は突如姿を消した。丁度、少し前の坂井の同居人と同じように。坂井の叔父は、悪い人ではなかったけれどどうしようもない人ではあったから、いろいろと耐えられなくなったのかもしれない。どちらにせよもう知り得ぬところである。坂井は彼はもう戻ってこないだろうと踏んでいた。それでも健気に待ち続けている末島に、どこか同情的になってしまうのも、多分そのせいだ。だから坂井は叔父の代用品としてこの家に住まって、この店を守っている。幸いにして本は好きだったし、仕事もそこそこ向いていただろうから、偏に末島のためだけとも言えないのだけれど。
「炬燵、好きですか」
「あ? ……別に。別に、だな」
「べつに、ですか」
「何なんだその含み笑いは」
「いえ」
所詮は残りかすだ。ライターのほんの少しの残り。煙草のシケモク。その程度の付き合いなのだ。だから何が好きで何が嫌いなのかも知らない。それでも坂井は末島のことを他人とは思えなかった。だからこうして、たまに家に上げては相手をする。思うに、自分も彼も、寂しいだけなのだ。別に、と言っておきながらさっさと出来上がった炬燵にすでに収まっている姿は、何とも言えぬ間抜けさがある。
「末島さんに対しては僕も、別に、ですよ」
「……可愛くないガキだなぁお前は」
ぱちりと電源を入れてから、坂井もそこに足を突っ込む。末島の煙草にはようやく火が付いたのか、しばらくしてすぐに坂井の嫌いな匂いがあたりへ充満した。いつも嫌がらせのように吸うのだこの男は。吸うなら外で吸ってください、と不平を零せば、その煙をふうと吹きかけられてしまう。腹が減ったよ、克樹。そう甘えるようにニヤリと笑われてしまえば、どうにも逆らえないのだから、どうしようもないのはお互い様なのだ。