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    矢野

    dentyuyade

    DONE矢野葵の21の時の話。笠田編から2年前くらいのイメージです。失踪癖のある男の、失踪先でのこと。
    ユーレイにつき太陽に焦がれる矢野葵という人間は二回死んでいる。別にスピリチュアルな話ではなく、有り体に言えば精神の死、というものに複数回見舞われているだけだ。齢二十一にしてそんな目に遭う謂れ何て全くないのだが、かといって怒ったり悲しんだりするほどの気力すらもう持てない。仕方がないだなんて、言いたくはないけれど。自分という存在がこうであるのは、もう諦めるほかないのだと思ってしまうくらいには矢野の人生に光が差さない。否、なまじ光が差すからこそ嫌になるのか。
    「……」
    生まれた大阪の街は雑然としていて、灰色で醜い。かつて智恵子は東京に空が無いと嘆いたそうだが、矢野からすれば東京よりもよっぽど大阪のほうが空が無いと思う。人工物が多いくせに、アーティファクトの美しさが微塵も存在していないのは、やはりここに渦巻く市民性というか人間の執念の影響なのだろうか。そういうところがたまらなく嫌いだ。矢野は目の前で空を大きく遮っているアパートを見上げて一つ溜息をつく。昔住んでいた家。一度目に、自分が死んだ場所。矢野は突発的に来る不愉快な逃避衝動に駆られて、自分の人生を辿ると言う自傷行為染みた試みに出ていた。アパートには当たり前に管理人なんていない。住民でない人間の行動を監視する存在もまたなく、矢野はふらふらと階段を上って五階へと黙って足を進めた。二階までの上昇になれた足はやや悲鳴をあげる。体力がないのはまあ昔からだ。ようやくついたフロアには全く見覚えのない家庭ばかりが並んでいて、そこでようやく矢野は時間の流れを理解する。十年以上経っているのに何も変わっていない方が、よっぽど異常だろう。かつて自分が開いていた扉も、まったく知らない他人の表札がかかっていた。けれど、その隣。その名を目にした途端、腹の底がぐっと冷えて、思わず足が惑う。
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    dentyuyade

    DONE矢野くんと坂井くんのちょっと先の話。坂井克樹、矢野葵に負けないでほしい。
    世界心中願望にさよならを息をすることは容易いことだと、生きとし生けるものすべてが思っている。それは今を生きる存在は皆等しく呼吸をしているからであり、それが難しくなるというのは即ち、死に近づいているという事実を意味するからだ。だから、肺というのは実のところ心臓よりもずっと生に密接した器官であり、それを損なわんとする行為は自殺と呼ぶに等しいのである。そう、それは例えば煙草であったりだとか。
    「あー、まっず……」
    一度たりともこの人生において煙草の煙を美味いと思ったことは、矢野にはなかった。ではなぜそれを欲するのか。ニコチンへの依存と言ってしまえばそこまでかもしれないが、あえて言うならば、そこに安心を覚えるからと表現するほかない。肺を汚染することは緩やかな自死で、希死念慮を満たすにはもってこいの小道具なのである。それを思うたび矢野は、大人になってよかったと唯一感じるのだ。フェンスに寄りかかり、マンションの一室から街並みを眺める。知らぬ街からそれなりに知った街になったそこには、いくつもの光が息づいては湛えられていた。いつまでここにいるべきか。そんな答えのない問答に、静かに火蓋が切られたのを矢野は肌で感じ取る。
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