【フィガファウ】猫になれば猫になれば
ふ、と集中力が途切れた。情報の塊として脳内で処理されていたものが紙面に書かれたただの文字の羅列に感じられ、フィガロが落としていた視線を上げると、俯く形で固定されていた首がわずかに軋む。筋を伸ばすように首を軽く回し、膝の上に広げていた書物を栞もはさまず閉じた。
フィガロが腰を落ち着けている1人掛けのソファは、中庭を臨むことができる窓際に置かれたものだ。右手で書物の分厚い表紙をなぞりながら、肘掛けに左腕で頬杖をつき、なんとはなしにガラスの向こうに目を向ける。天井高に大きく取られた窓には一定の量の光しか入らない魔法がかけられているため、図書室に比べて外は明るく見えた。
最近任務が立て込んでいたこともあり、たまには息抜きも必要だと、今日は授業も何もかも休みにすることにした。中央の国もそうしましょうとオズに持ちかけ休日を得たリケとミチルは中央の国の市場に行っている。カインとルチルとレノックスも共に出かけて行くのを見送ったのは、日が昇ってすぐのことだった。
朝食も食べてしまったし、手持ち無沙汰であったフィガロは本でも読もうと図書室に足を向け、今に至る。暇な時間を過ごす手段の一つとして知識の補強はとても有意義だ。過ぎゆく時間を無駄してはいないと思える。
窓の向こう、中庭の木漏れ日が揺れる。気持ちのいい風が吹いているようだった。今は太陽の位置から見て、午後を少しすぎた頃だろうか。
魔法舎の図書室は居心地がいい。基本的に収納されている図書に用がない者は近寄らないこともあり、騒がしいこの敷地の中で比較的静かな場所でもある。
保管と保護と、魔力を帯びているものには簡単な封印、そういう、ここに本を持ち込んだであろうさまざまな魔法使いがかけたさまざまな魔法が、同じ場所に混在し、けれども図書を保管するためというたった一つの共通した意志によって、影響し合わない絶妙な均衡を保っている空気。
緊張感のある静寂。暴れる場所を選ばない、この魔法舎にいる北の魔法使いたちとて、この中の均衡を崩せば何が起こるか分からないと肌で感じているのだろう、不思議とこの中では魔法を控えているところがあるとフィガロは認識している。
確かにこの場の均衡が崩れた際に、何が起こるのかフィガロでも把握しれていない。ある程度のことはわかるけれど、そこまでだ。
この場に納められ、時には隠されている書物の全てに目を通し、全てを把握したら、その実たいしたことは起こらないとわかってしまうのかもしれないけれど、あえて現状の曖昧なままにしている。
そんな暇も時間もない、というのも事実だけれど、誰にも把握されていないからこそ持つ力、というものもあった。曖昧な、その場にいるものの認識が作用する力。フィガロが労力を割かずとも、この場を、この場にあるものを守ろうとする数多の意志とその力がここを守っている。危険なものはミチルたちが手に取る前に止めればすむ、ならばこのままにしておくのが一番なのであった。
喉の渇きを潤すべく、部屋からティーセットとサイドテーブルを呼び寄せる。せっかくならば白ワインでも開けたいところではあるが、図書室という場にはそぐわないように思えた。この長閑な午後を、そういうものとして堪能する、そういう遊びだ。
適温の紅茶をティーポットからカップへと注ぎ、頬杖をやめてソーサーを手のひらに乗せる。そこまですべて魔法で済ませ、けれどもカップはその手で持って口元へと近づけた。完全に読書の気分が変わってしまったので、今日はもう開くことはなさそうな膝の上に乗せた書物も元の場所へと戻すことにする。
手を振ることもなく書物も片付けてしまったフィガロが、今度はティータイムを楽しむべく、湯気と共に昇り立つ柔らかな茶葉の香りに細めた目、視界の端に黒いものがちらついた。
ファウストだ。確認するまでもなくすぐにわかった。
成人男性の大きのさ黒い塊なんて、この魔法舎ではひとりしかいない、というのもある。魔法の気配だってわかる。けれどそうでもなく、ただ、フィガロの意識が惹かれるものはこの世界にそう多くないからだ。
四百年前、流星を背負って現れた若い魂。忘れてしまったことも、忘れられないことも多い二千年を生きる己の中に、一年足らずという瞬きのような時間で、鮮やかで華やかな瞬間と、けれども鮮烈な痛みを残した者。
去る者は追わない上に、残されるのは嫌なので先にその場を去ったらもうそこには戻らない。そういうフィガロであるから、彼の身に起きたことを、その後しばらく経ってから知った後にだって彼に会いに行こうだなんて思わなかった。
くるとしたら彼の方だと思っていた。呪い屋を始めたと、噂で耳にした時に真っ先に、呪いに身をおとし、美しく輝く透き通った眼差しと、精霊と繋がる心を濁らせて、恨み言を言いにくるのだろうと。
そうなったら、あれほど彼を探して心をすり減らしたレノックスにもあわせずに一瞬で石にしてあげようと。魂を曇らせる苦しみから、救ってやろうとだって思っていた。レノックスだってそんなふうになった彼に会うために探し回っていたのではないはずだ。
誰にも知られず石にして、そうして、少し経ってからレノックスに彼の死だけ教えてやればいい。言葉だけでは虚言と思うだろうか、石を見なければ納得しないだろうか、いや、そもそも教えなくてもいいのかもしれない。ファウストと再会することがレノックスの生きる希望だというならば、それを奪うことはしたくない。
賢者の魔法使いに彼が選ばれたというのは、師匠たる双子に会った際になんとなく知らされていた。けれどもやはり、実際に会うつもりはなかった。呪い屋になった彼なんて見たくもなかった。
そう悪いものでもないよ、という双子の言葉なんて信じられないし、オズの言葉だってフィガロの認識とは違っっていることが多いのだから信じるに足らない。自分の目で見るまで信じられないのに、自分で目で見るつもりはなかった。
だって、殺したくない。
知らなければ、知らないままだ。俺の天命が、星がどうなったかなんてもう、知らないでいたい。
なんて、思っていたんだけどな。 あれこれとどうだろうか。と考えていて馬鹿らしくなる。ファウストを石にした自分がどうしていたかなんて、起こり得なかった妄想なのだ。
再び肘掛けに頬杖をついて、窓の向こうにあるその姿を目で追いながら、フィガロは紅茶をカップにつけた唇を器用に歪めた。
召喚されたエレベーターの、向こう側の、中央の国にいる彼を見た時。呪い屋ってなんだい、と笑いそうになった。何も変わって居なかった。いや何も、というのは言い過ぎかもしれないけれど、身につけているものも、身にまとう精霊の力も、雰囲気も変わってはいたので。
けれども、フィガロが認めた、その眼差しも精霊と繋がる心の在り方はなにも、変わって居なかったのだ。直角に曲がって、湿らせてはいたけれど、濁っても澱んでも居なかった。
どうしてそう在れたのか、どうしてそう在ってしまったのか。濁らせ澱ませ狂ってしまった方が楽だったろうに。
けれど思い返せば、楽をしない子だった。恥ずかしくても痛くても辛くとも自分を曲げずに意志を持って立ち向かう子だったのだ。
惹かれて求めたものはなんだったのだろうか。彼が彼であれば、彼らしくあればよかったのではないか。そうして立つファウストの隣に、いることができたずなのに。
なんて、感傷的になっている己をまた、嘲笑う。
当初は関わりを持ちたいと、彼の部屋に押しかけたりしていたのだけれど、近寄らないことを望まれてしまったら、何もすることができなくなった。望まれたら、叶えたい。もう、彼のそれなら、出来ることならどんなことだって。近づかないことを望まれたら、そうするしかない。だから、こうして、窓越しに眺めているくらいは許されたい。
暖かい、というには些か強い日差しの中で背中を丸めてしゃがみこむファウストのまわりには猫がいた。
数匹の猫たちは思い思いに、寝転んだり、座ったり、風と彼の動きに合わせて揺れるストールの裾と戯れたり、少し離れたところから見ていたり。フィガロに、というか魔法舎に向かって背を向けているから見えないけれど、おそらく、しゃがみ込んだ彼の前にも猫がいるのだろう。
柔らかい空気、気配。きっと彼は笑っている。フィガロの元にいた頃、極寒の土地に生きる小さな生き物たちに向けていたように。
ファウストが頭に乗せていた帽子をとって、逆さまに芝生の上に置いた。少し離れたところから彼と、そして彼のそばにいる猫たちを見ているだけのものに向けて少しだけ押し出す。
入りなさい、とでも言っているのだろうか。入るか? だろうか。それに伸ばされた腕。黒い袖口からわずかに見える細い手首、黒い服に反して手を包む手袋は白い。手のひらを上にして握られた指、その白い人差し指だけが、離れたところにいるそれを導くように曲げたり伸ばしたり動く。
指の動きに誘われたのか、そろりと動き出したそれが、猫ではないとファウストは気づいているのだろうか。
それは、猫の形を模した精霊だった。姿は完璧な白い猫だ。気配も猫に寄せているが、よくよく見れば、知覚すれば、猫ではないとわかるはず。こと、探索が得意な彼が気づかないはずないのに。
猫じゃなくても、その形をしていればいいのか。ああ、そういえば、彼の住む東の国の嵐の谷、その住まいには、猫に扮した精霊が住んでいるのだったか。
帽子に近づいた猫、もとい精霊が、前足を帽子のつばにかける。少し触れて、肉球に触れたものを振り払うかのように細かく前足を震わせる姿はまるで猫だ。何度かそれを繰り返し、匂いを嗅ぎ、安全を確認したのか、そろりと左右両方の前足を帽子にかける。
中に入ろうと伸び上がって片側に体重をかけるから、帽子の片側が浮きそうになるが、ファウストの手が添えられる。それはしなやかに帽子の中に収まった。
くるくると帽子の中を回ったそれが、場所を決めたかのように中央に座り込む。背をのばし、ファウストに顔を向けると、彼は指先をゆっくりとそれの鼻先に近づけた。匂いを嗅がせ、鼻先ら少しずつ。髭の周り、顎、耳の後ろから、そして耳の間、狭い眉間へ。
それは猫でもないくせに、猫のように目を細め、耳を倒した。ファウストの指は頭から首の後ろそして背中へと流れていく。気持ちよさそうに、それの身体が帽子の中で丸くなっていった。
それの方へ身体ごと向き直ったことでファウストの横顔が見える。朽葉色の髪が頬にかかり、サングラスで顔の半分は覆われているけれど、その口元が笑みの形に弧を描いていることはよくわかった。
次にカップに口をつけた時、自分の口元もまた、笑みの形を作っていることに気づいた。それは先ほどの嘲笑ではなく、無意識に溢れてしまったなにか。
口に含んだ紅茶はもう冷めていて、けれども悪くない味だった。己がどれだけファウストの様子を伺っていたのかと考えるとおかしくて、込み上げてきた笑いを吐息にこめる。
笑う気配が伝わったのだろうかりはっとファウストが顔を上げた。そして勢いよく振り向いて、フィガロがいる窓へと視線が向けられる。ガラス越しとはいえ、それなりに分厚い壁を隔てているのに何に気づいたのだろうか。フィガロの気配は初めからそこに在ったはずなのに。気づかなかったはずはないのに。
彼が気にならないほど己の力が弱くなっているのだろうか。それとも、気にならないほど馴染んだものだっだのだろうか。なんて、良い方に考えすぎだ。
予想の天秤は平等に。期待と落胆を両方乗せて均衡を保つ。
フィガロに笑われたと思ったのだろう、ぎゅっと眉間に皺が寄り、眼差しが鋭さを増す。ファウストの気配が変わったことに気づいたのだろう、猫たちが彼の周りからサッと離れた。彼の帽子の中で、指にあやされまどろむそれを残して。
何か言いたげに口が開いて、けれどもぎゅっとそれが閉じられる。唇を半ば尖らせたファウストは、丁寧に大切そうに、それが入ったままの帽子を抱えると、すっくと立ち上がり、踵を返して何処かに行ってしまった。
きみのことを笑ったわけじゃない、いや、笑ったけど、それは嘲るとか馬鹿にするとかそういうことじゃなくて、ただ。微笑ましかっただけだ、溢れてしまっただけなのに。
好かれているとまでは思わない、笑ってくれとまでは言わないけれど、あんな邪険にしなくても良いじゃないか。
猫の形にでもなれば、ほんとうは猫でなくともあんなふうにしてもらえるのだろうか。
三度、口に含んだ紅茶はさっきと同じように冷めたままだ。けれどさっきは許せた味が、今度は許せなかった。
「おいしく、ないな」