「きみ、学ぶほうだけじゃなくて教える側でも、ちゃんと優秀だよねぇ」
呟く声に視線を上げると、感嘆と喜色に満ちた微笑みがあった。こういうとき、僕にどう返してほしいんだ、と訊いてしまいたくなることがある。素直にそんなことを口にする気には、到底なれないというのに。
こちらの都合などお構いなしに押しかけてきたこの男を追い返すにはどうしたらよかったのか。うまくいかなかったのは、思ったままには言葉にできないからだろうか。そんなことを言ってしまって、もしも、万が一。あの流星と雪景色の夜、フィガロの都合などお構いなしに、北の偉大な魔法使いの元へと押しかけた過去に触れられたりしたら。いったいどんな顔をしたらいい? 断る術がなくなるだろう、と言い訳みたいに胸の内、呟いて。生徒たちの試験の採点があるからと正直な理由で断ったのに、どうしてこうなる。ああ、それなら、と納得した声は、仕方ないねと続くものだと思ったのに。
「ちょうどよかった。俺も、あの子たちに出した宿題を回収したところなんだ。先生は先生同士、一緒にやろうか」
真逆の返答に面食らって、おかしな間ができたのがいけなかった。そんなこと、関係ないだろう、別に。合同授業でもないのに、いったい何のために。そんな返しは聞き流されて、結局二人でこうしている。せめてもの抵抗として、自室に招き入れることだけはどうにか避けた。おかげで引きこもることもできずに、午後の陽射しの明るさの中に身を置く羽目になっている。
「ファウスト、自分が教えたいことと生徒に教えなきゃいけないこと、一度切り離して考えるようにしてるだろ。その後で、共通点としてあるものを取り出して、結び付けて提示する。それがきみのやり方だね」
「……そんな分析をしてる暇があるのか? 僕のことより、自分の生徒たちの成果を見てやれ」
「あれ、ハズレだった? 自信あったんだけどなぁ」
きみのところほど整然としてないよ、と言っていた宿題は、どうやらレポート形式らしい。それも呼び方でしかなくて、感想文や、ともすれば日記に近いものなんだけどね、なんて。整然としているとかいないとか、そういう範囲をこえている。それでいいのかと問いかけそうになったが、だからこそ読むのが楽しみなんだとフィガロは笑って目を通していた。にこやかにペンを走らせながら、手紙のやり取りみたいに返事を書き込んで。それだけで、“フィガロ先生”の仕事は早々に片付いてしまったらしい。特段物珍しいわけでもないだろうに、ファウストが作った試験用紙を覗き込んでくる。
「おい、それで終わりなのか? 点数や、判定は?」
「え、そんなのつけちゃうの? いいじゃない、みんなそれぞれ頑張ったのはわかってるんだから。よくできました、おめでとう、それだけじゃダメ?」
「いや、駄目かどうかは僕が決めることじゃないが、……」
「なら別に……ん? うわ、100点いるじゃない。誰? あ、ヒースクリフか」
「ああ……ちょうど興味のある題材だったらしいからな。元から真面目な子だが、今回は特に頑張っていたよ」
人の答案を勝手に見るな、せめてあの子たちに許可を取ってからにしろ。そんな文言で壁を作るつもりだったのに失敗した。これでは僕も勝手に見せたようなものだな、と思ったら、反省と同時にフィガロのことを責められなくなる。そもそもさきほどの妙な分析をされた時点で、少なくとも出題内容は見られていたわけだけれど。
「優等生だなぁ」
何がそんなに気に入ったのか、上機嫌で、試験用紙の文字を指でなぞってくる様子が。えらく満足気だから、なんだかこっちの居心地が悪くなる。いつものような皮肉や何かではなくて、ただ言わずにはいられなくなっていた。
「ヒースは確かによく出来た子だが、お前がそこまで思うことでもないだろう。そういう顔は南の生徒たちの頑張りに対して向けてやるものだと、」
「え? ああ、違うよ。ヒースクリフのことじゃない。俺の生徒たちのことも可愛いと思ってるさ。でも――そうじゃなくて。きみのことだよ、ファウスト」
疑問と惑いに呑まれるのは、今日何度目のことだろう。どうして突然僕の話題になるんだ。僕の何が、優れていると。訝る様子を不機嫌と取られたのか、フィガロは困った顔をしている。笑みを浮かべてはいるけど、きっと何か、うまくはいかない想いがあって、言葉を探しているようだった。そうしてやっと、そんな顔しないでよ、と声が発される。
「ファウストは優等生だよ。本当に」
「……どこが、」
「きみが思ってるよりずっと優秀だ。はじめから、ずっと。今だっていい先生だし。俺の言うことが信じられない?」
「不信を心配する必要はないよ。あなた以外に言われたとしても、僕はそうは思わない」
「間違えたかなあ、褒め方。もっとたくさん、わかりやすく100点をあげてたらよかったのかな」
「点数はつけないんじゃなかったのか」
「きみは満足しないだろ? よく頑張ったね、だけじゃ。俺がここまでで切り上げると決めたら素直に返事をして従うけど、自分の出来に不満があったらいつも耐え難いほどに悔しがっていた」
知っているんだよ、と。言われたわけではないけれど、目の前の男はそういう顔をしていた。
「俺は100点じゃないからさ、」
試験用紙から離れた指が、レポートをまとめて本に挟む。伏せられた目はその手元ばかりを見ていて、それはおかしなことじゃないのにやりきれなくてもどかしい。怒りたいわけじゃないのに何か大声で言ってやりたくて、だけどその正体が掴めない。続くのかもしれない言葉を、これ以上待ってはいられなかった。
「……あなたこそ、わかりやすい数字や記号で表せるもので満たされる質じゃないだろう」
雪原と、薄玻璃の空気と、夜闇の濃い北の地で。ぬくい指先に導かれていたころ、こんなふうに伏せられた瞼が再び上がり、名前を呼ばれて微笑まれるときの、あの情動。そんなものはなかったと、そういうことにできてしまえば。そうしたら、こんなにも不安定に、それでもこうして関わることを、やめることができるのか。
「雪の降らない朝の、日の出とともに始める儀式……あの頃知った魔法の中で、あれが、いちばん好きだったよ」
「え。……ぁ、ファウスト、まって、ファウスト!」
あなたはどうだった、と。訊けない自分のことは知らない素振りで。立ち去ろうとする僕を、あのころとは逆、あの人の声が、足音が、追いかけてきて廊下に響く。