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    しおん

    🪄(ブラネロ|因縁|東と北)

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    しおん

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    入れ替わる話|西の魔法舎で療養中、ネの元に蜜月時代のブがやってくる話です。

    ※過去に掲載したものを2部の時間軸にふわっと変更し、加筆修正しています。

    #ブラネロ
    branello

    問うてはその応え ようやく西の国から中央の国に帰還する目処が立って、賢者を含め全員が安堵していた頃のこと。
     散歩ついでに買い出しを済ませてファウストと西の魔法舎に帰ってきたところ、待ち構えていたかのようにフィガロが門前で手をひらりと振る。てっきりファウストに用があるのだと思った(隠しているようだが二人は妙に親しげな気配がある)が、視線は何故かネロに向けられている。
     正直、ネロにとってあまり得意な相手ではない。例の件もあるので、今後は関わりを減らしたかった。情が移るから、というわけではないのだ。何があろうともネロのなかで優先順位がひっくり返ることはあり得ないので、フィガロとこの先どれほど思い出が増えたとしても、ネロは躊躇わないだろう。ただ、夕飯まで部屋で休むつもりでいたので困惑した。隣でファウストも微かに戸惑っている気配がする。
     瀕死の重傷を負ってから、寝たきり生活で体力が落ちた。シノやカイン、レノックスのように鍛錬するほど気力も体力もないが、失った分くらいは取り戻しておきたい。それでこまめに歩くようにしているのだ。同様に大怪我をしたファウストも近頃は妙にやる気に満ちていて、「僕も行く」と言うから頻繁に付き合ってもらっている。ファウストは細身の割に力が強いので、荷物の半分以上を軽々と抱えてくれた。
     今後、子供たちをどのように鍛えていくか、若者たちにしてやれることは何か、と真面目な話をしつつ、他愛のない会話も多かったので、完全に気が抜けていたのだ。人混みのなか欲張ってあれもこれもと買って回ったのが、病み上がりにはやや堪えたらしい。こめかみ辺りには眠気がぼんやりと漂っていた。が、突然のフィガロの登場にたちまち霧散する。癖で丸まっていた背中も、門の前にたどり着く頃にはぴんと伸びた。
    「おかえり、二人とも」
    「えーっと……あの、さ。どうかした?」
     恐る恐る問い掛けてみたものの、フィガロはちらっと苦笑いを浮かべてなかなか切り出そうとしない。一体全体、何事だろう。狼狽えるネロの隣で、案じるようにファウストがそろりと口を開いた。
    「あの、フィガロさ……フィガロ。急ぎの用じゃないなら後にしていただけ、……してくれないか」
     困惑するネロに代わって、ファウストはこれまでと比較すると、幾らか柔らかな口調で頼んだ。
    「市場が思っていたより混んでいて、ネロは疲れている。まだ本調子ではないのについ何店舗も見て回ってしまったのが仇になって……後に回して問題がないのなら、少し休ませてやってほしい」
     ていうかいま「フィガロ様」って言いかけなかったか、とネロは耳を疑った。しかし問いただす隙を与えず、申し訳なさそうに「そうだね、休ませてあげたいのは山々なんだけど」とフィガロは溜息を吐く。どうやら何か緊急事態のようである。
     ネロはファウストを見た。ファウストの方もちょうど眼鏡の奥で困ったような目をネロに向けていた。シノとヒースクリフが何か揉めているのだろうか。でも、だとすればネロだけでなく、ファウストにも声を掛けるはずだ。
    「体調も万全じゃないのにごめんね」意味深な眼差しでフィガロはネロを見つめた。「いい加減きみの顔を見せないと、またいつ暴れ出すかわからなくてさ」
     暴れ出す、という単語に顔が強張った。何だそれ。ファウストではなく自分を呼び止めるということは、料理に関することだろうかと予測していたのだ。しかしフィガロは思いもよらないことを言い出した。どんな経緯があったのかは知らないが、魔法舎で恐ろしい魔物でも預かる羽目になったのだろうか。
    「……それ、ほんとうに俺が適任なの?」
     猛獣使いを名乗った覚えはないし、そんな危険そうな役割は他のもっと強い連中に任せてほしいと遠回しに訴えたが、
    「適任ていうか」
     困ったような、どこか面白がるような、含みを持たせた笑みをフィガロはネロに向ける。
    「ネロ以外どうにもできない、って言った方が正しいかな」
     その返答に思わず呆然とする。そんな馬鹿な。でも会話をよくよく思い返してみると、そういえばフィガロはこんな風に言っていた。「きみの顔を見せないと」と。
     悪いけど来てくれるかな、とフィガロは言った。穏やかなトーンで、それでいて有無を言わせない圧がある笑顔で。選択肢はない。ファウストに買ったものを預け、「ちょっと行ってくるよ」と告げる。が、ファウストは一向に立ち去る気配がない。
    「あのー先生……?」
     あんたも疲れてるだろ、とネロが案じる前に、ファウストはきっぱりと「僕も付き合おう」と言った。
    「ええ? いいって、そんなの」
    「よくない」
     慌てて止めたがファウストは頑として譲らず、「構わないな」とフィガロに強気で迫る始末だった。フィガロは弱り果てたように首を傾げ、「俺は別にいいんだけど……」と曖昧に呟き、またもや意味深な視線をネロに寄越した。お伺いを立てるように。なんだか途轍もなく嫌な予感がする。
    「許可も出たことだし僕も行く」
    「いや、でも、やっぱり」
    「いいから」
    「よくないって……」
     しばらく言い合ったのだが、結局ファウストもついてくることになってしまった。この人って何だかんだ気が強いよなあ、と内心しみじみ思う。大抵はこんなふうにネロが押し負けている。
     それで連行された先はまさかのブラッドリーの部屋で、またあいつは、と思わず舌打ちしそうになった。今度は何をやらかしたんだ、この馬鹿。部屋の前でじっと立ち尽くすネロの眉間に苛々と皺が刻まれる。
     促されるまま扉をノックしたら、「はい」と何故かミスラが応じるものだからネロはきょとんとした。一瞬部屋を間違えたかと思うがそんなはずもなく、状況がさっぱり把握できずに首を捻る。すると続けて「誰」と素っ気なく問う声がしたのだが、今度はなんとオーエンだった。
     つるむことを良しとしない連中が揃って何をしているのだろう。まあ十中八九はフィガロに命じられたから渋々従っているに違いない。そこまでは容易く想像できる。が、どうしてそのような命令が下されたのかまでは皆目見当がつかなかった。
    「ねえ、誰って訊いてるんだけど」
    「俺だけど……」
     入っていいかと訊ねる前に、扉が勢いよく開いた。切羽詰まった表情のブラッドリーが眼前に現れぎょっとする。
    「……ネロ」
    「な、なんだよ」
     ブラッドリーはじっとネロの顔を無言で眺めたかと思うと、髪や頬、耳、肩、腕と次々べたべたと触ってくるので本気で戸惑った。やけに真剣な眼差しをしているので振り払うこともできず、ついされるがままになってしまう。終いには甘えるように指先を絡めて握り締めてきたのだが、どういうつもりなのかさっぱりだ。
     呆然としているネロを見てブラッドリーはそっと目を眇めた。笑った顔はよく馴染みのあるもので、ずっと前から眼裏に焼きつくくらい繰り返し見てきたものなのに、どうしてか微かに違和感を覚える。ここ、と言い当てられないのがもどかしい。明確な違いがあると直感しているのに答えは脳の片隅に引っかかっている。
    「さて、少しは信じる気になったかな」
     フィガロが見計らったかのように口を開いた。
    「俺が言った通り、ちゃんと怪我もなく帰ってきただろ。買い物に行っただけなんだから」
     何の話だと目を瞬かせているネロの前で、愛想のない態度でブラッドリーが「一応な」と頷いた。やれやれと疲労の滲んだ笑みを浮かべるフィガロの様子からして、抱えていた問題の幾らかは解決したようだ。ひょっとしてお役御免だろうか、と胸に湧いた期待は一瞬で崩れ去った。違和感の正体がわかったのだ。
    「……あんた、それ」
    「ん?」
     なんでそんな懐かしい格好してんだよ、と思った。そうだ。おかしいと感じるはずだ。ブラッドリーはいつものコートを羽織っておらず、かつて盗賊団の首領として振る舞っていた時代によく好んでいた衣服を身につけているのだった。しゃらしゃらと揺れる耳飾りを呆然と眺める。あれを見たのも久々だ。
    「入れ替わったみたいですよ」
     興味なさげにミスラがのんびりと口を開いた。もう戻っていいですか、とフィガロに訊ねる横顔を見つめながら、入れ替わった、と呟く。入れ替わったって、何が。教えてくれるならもう少し親切に説明してほしい。
    「まあまあ、どうせならもう少し付き合いなよ。ブラッドリーがこうなったの、おまえたちの巻き添え喰らったせいなんだからさ」
    「ネロが帰ってきたんだし、もういいだろ」オーエンがうんざりしたように肩をすくめた。「昔も今も、こいつはネロがいれば満足してる」
    「昔も、って……ああ、おまえは知ってたのか……」
     フィガロが頭を抱えている。
     事情がわからず置いてけぼりになっているネロとファウストが顔を見合わせていると、唐突に繋いでいた手が強く掴まれる。次の瞬間には乱暴に引き寄せられていて、「うわっ」と焦った声が零れる。たたらを踏んだネロの顎をすくい、ブラッドリーが唇の端を持ち上げた。久しぶりに心底ぞっとした。このうっすらとした笑い方、これは恐ろしく機嫌の悪いときの表情なのだ。
    「ネロ、一個確かめておくぜ」
    「……な、んだよ」
     細められたルビーの瞳がネロを見据えた。
    「東の魔法使いになったってのは、何の冗談だ?」
     思いがけない台詞に面食らった。いまさら何故そんなことをと困惑していると、ブラッドリーの顔色が変わった。すぐにでも弁解すると思っていたのだろうか。口を噤むネロを前にして、徐々に焦りが滲んでくる。
    「おい、どうした。黙り込んでねえで何か言えよ」
    「何かって……」
     触れた指先から体温が失われていくように感じた。どんな説明をしたところで理解も納得できないだろうに、どうしてブラッドリーはいまになって問い詰めるのだろう。折れるほど強く握りしめてくる手を振り払うこともできず、ネロは視線を避けて俯いた。
    「あまりきつく掴むな」
     重苦しい沈黙を破ったのはファウストだった。ブラッドリーの手をやんわりと押し退けようとしながら、淡々と言葉を重ねる。
    「ネロが東の魔法使いなのはいまに始まったことではないだろう。何に驚いている?」
     退屈そうにソファに腰掛けていたオーエンが、ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
    「そうかなあ」
    「……は?」
    「ネロがほんとうにずっと東の魔法使いだって、なんで言えるの? おまえはずっと東の魔法使いだったっけ?」オーエンはゆったりと首を傾げてファウストを見据える。「おまえが何も知らないだけかもよ」
    「オーエン」
     素早くフィガロが鋭い声を出した。
     僕は、と口籠るように呟いたきり、ファウストは唇を引き結んだ。
     何もかもを屈託なく話せるほど単純で開けっぴろげな性格をしているわけではないし、実際、ネロはファウストに打ち明けていないことが沢山ある。ファウストだってそうだろう。いや、そうだった。
     いまではファウストはネロ・ターナーなんてろくでなしに確かな信頼を寄せ、賢者に指名された「賢者の書」を記す役目についてや、自分がかつて中央の英雄であったことなど、随分とまっすぐ話してくれるようになった。未だに後ろ手で頑なに扉を閉ざしているのはネロの方なのだ。
     信頼してないとか、それ以前の話なのだ。生まれつき、あるいは後天的にこういう性分だった。この先も分かち合うことなく、一人胸に秘めて抱えていく。どんなに重たく孤独でも、ほんとうのことを話すのは、ネロにとって途轍もない苦痛を伴う作業だった。
     特に、ファウストのフィガロに対する態度を見ていると、とても言えないと思う。彼らのあいだに何か特別な縁があるのなら、厄祭戦後、ファウストにはつらい思いをさせることになる。悪党より残忍なやつだぜ、そいつ、と説得したくなったことが一度もなかったわけではないが、ファウストにとってフィガロがどのような存在なのかネロは知らない。ネロにとってブラッドリーがどのような存在なのか、ファウストが知らないように。
     何か隠されているものの気配には互いに気づかないふりをするのが暗黙の了解だった。そのはずだった。だけど別に、そんな顔をさせたいわけではないのだ。
     ネロは悩んだ末に「先生」と呼ぶ。そして、慎重に言葉を選んで「俺はあんたと同じ東の魔法使いだよ」と言った。ずっとそうだった、とは言わない。言わなかった意味をわからない人ではないだろう。ファウストはネロをちらっと見遣って微かに笑った。
    「『先生』」
     呆然と繰り返す声がして、ネロは振り返る。強張った面持ちのブラッドリーと視線がかちりと交わった。どういうわけか酷く衝撃を受けたような気配を漂わせているのだった。肺のなかを空にする勢いで長く息を吐き出し、ブラッドリーは髪をかき上げた。曝け出された眉間には皺が深く刻み込まれている。
    「……ブラッドリーに何があったんだ。なんだか様子がおかしいようだけど」
     ミスラに耳打ちしたファウストを、ブラッドリーは怒りを孕んだ目で射抜く。混じり気のない殺意に息を呑んだ。
    「気安く呼んでんじゃねえよ、東の魔法使い風情が」放たれた声は鋭く、膚を切り裂きそうだった。「てめえらは外に出てろ。あとは全部こいつに訊く」
     ブラッドリーは顎でネロを示し、ネロを除いた全員の退出を要求した。これ幸いと言わんばかりに、フィガロの制止が間に合わないうちにミスラはさっさと部屋から出て行った。
    「ああもう……」
     溜息を零すフィガロを睨み、「おまえらも早く行けって」と鬱陶しそうにブラッドリーが吐き捨てる。欠片も余裕がないのか、苛立ちが隠し切れていない。揉め事の気配を感じたオーエンは嬉々として居座る構えを見せているし、怯みつつもファウストはブラッドリーを見据えていた。何一つままならない状況に気が立つのは無理もないとは思う。元より短気なやつなのだ。
    「おまえとネロを二人きりにするわけにはいかないよ」
     フィガロがぴしゃりと撥ねつけると、ブラッドリーの瞳はますます剣呑な色を帯びた。
    「おまえにとってもその方がいい」フィガロは声を和らげ、宥めるように言った。「ネロに問い詰める前に、きみの身に起きていることをまずネロが知らないと。その説明が済んでからだよ。何事もね」
     いい加減離してあげないと、痣になるよ、とフィガロの人差し指がブラッドリーの手を示した。それで未だ掴まれたままだったとネロは思い出す。強く握られすぎていて指先の感覚が鈍い。指摘されたことでネロの手を掴んでいた力は幾分優しくなったが、解放されるには至らなかった。苦笑いをしたフィガロが同情するようにネロを見つめ、それからファウストに視線を定めた。
    「簡潔に言うと、このブラッドリーはファウストが知ってるブラッドリーじゃないんだよね」
    「……それは、どういう」
     困惑するファウストに、「言葉通りだよ」とフィガロは肩を竦めた。
    「ファウスト。きみの目の前にいるブラッドリーは、賢者の魔法使いではない。盗賊団を率いていた頃のブラッドリーなんだ。だから、魔法舎で知り合った魔法使いとの面識は、こいつには一切ないってこと。初対面なんだよ」
     愕然とするファウストの傍らで、ネロも驚かなかったわけではない。しかしミスラの気怠げな声がひらりと脳裏を過ぎり、なるほど、と妙に納得してしまったのだ。「入れ替わったみたいですよ」とは、つまりそういうことなのだろう。
    「……夕暮れに神隠しが起きる山があるとかで、あんたら近くの村まで調査しに行ってたよな。中央に帰る前の、最後の任務で」
     ネロはフィガロとオーエンを順に見つめて、最後にブラッドリーと目を合わせる。昨晩、任務内容はブラッドリーから聞いていた。明日、陽が落ちる前に現場を見に行く、と。
     中央の国に賢者の魔法使いたちが帰ってしまうと知り、慌ててあちこちから滑り込みの依頼が舞い込んでくるようになった。ネロやファウストなんかは傷こそ塞がったもののまだ本調子ではないため、広く豪奢な西の魔法舎で留守番をきつく命じられ、自分たちだけさぼっているようで気が引けるな、と二人でぼやいていた。他の魔法使いたちは朝から晩まで忙しそうにしているのに。
     それはともかく、ブラッドリーだ。神隠しという難解な事象に対応すべく、任務にあたったのは北の(そして、元北の)魔法使いばかりだ。この面子ならどうとでもなるだろうと思い込んでいた。
    「……ほんとうに、どっか時空が歪んでる土地だったのか。住民の狂言なんじゃねえかと正直ちょっと疑ってたけど……証拠が目の前にあるんだもんな」
     未だ半信半疑の面持ちではあったが、ファウストも溜息混じりに「……過去の彼がこちらに迷い込んできた、という話か」と呟いた。
    「そうだよ」
    「話が早くて助かるね」
     オーエンとフィガロはそれぞれあっさりと認めた。ブラッドリーに感じた違和感の正体が判明し、密かにほっとする。先日、やっと伝えたいことはぜんぶ伝えることができた。そう思ったところなのだ。あんなに和やかに話したのに、またしても再会した当時のような緊張感に困惑していた。そういう事情だったなら納得できる。
    「住人たちが言うには、神隠しにあった人は丸一日で戻ってくるんだって。それで、その消えてしまった人が帰るまでのあいだ、別の時空からやってきたその人がこちらに留まることになるそうなんだ。ちなみに飛ばされる時代はばらばらで、人によってはほんの一年前に迷い込んで、しばらく事態に気づかなかった例もあるらしい。帰れなかった事例はないのもあって、みんなあまり気に留めてなかったみたいだね。ほら、西の国の人たちって、こういうの面白がる性質だから」
     フィガロは淡々とその土地の特性について語る。
    「どうせ一日で戻ってこれるから、このままでも特に困らないって放置していたら……つい最近、子供が神隠しに遭ったらしくてね。幸い何事もなく帰ってきたそうだけど、さすがに面白がってる場合じゃないって認識を改めたみたいだよ。賢者の魔法使いはまだ西の国に滞在していると聞きつけて、中央に戻る前にどうか調査してほしい……と、依頼されたわけだ」
     話を続けようとしたフィガロを遮り、オーエンが口を開いた。
    「それで調査中、うっかりブラッドリーが入れ替わっちゃったんだよ。間抜けだろ」
     小馬鹿にした笑い方をするオーエンをブラッドリーは睨みつけた。いちいち相手にするなよという意味を込めて繋がれた手をそっと握る。ただでさえ厄介なことになっているのだ。これ以上は心配事を増やさないでほしい。ブラッドリーはやや不服そうではあったものの、困り果てたようなネロの目に折れたのか、仕方なさそうに大人しくしている。
    「入れ替わった時間帯は?」
    「はっきりとはわからないけど……このブラッドリーが俺たちの前に現れたのは、十九時前かな」
    「……明日のその時間まで、どう過ごさせるべきか……」
     当然の疑問をファウストは口にした。
     一日やり過ごせば元に戻るとはいえ、そのあいだのことが問題だった。何せブラッドリーは共に魔法舎で暮らす魔法使いたちを知らないし、未来の自分が囚人という身分になっていることも恐らく知らされていない。当然だ。知らせれば未来が変わる可能性が出てくる。
     囚人になる運命を避けるため、ブラッドリーは双子とフィガロに対しより慎重になる。警戒を怠らず、もしかしたら、ネロの忠告にも耳を傾けるようになるのだろうか。それで、見せしめのために捕えられることなどなく、ブラッドリーは盗賊団の頭領であり続けるかもしれない。そのことを思うとくらりと眩暈がした。この男が自由を失わずにいられる? オズやミスラたちと同じように、何にも縛られることなく生きていけるのか?
    「他の国の魔法使いたちにも、事情はざっくりと聞かせておこうかなと思ったんだけどね」不意にフィガロと目が合った。「でも、本人は他のやつらと馴れ合う気はないの一点張りなんだ。部屋に籠ってればいいんだろ、って。まあ、一日のことだから、それでもいいかなとは思うけど」
    「無理に交流させる必要はないかと」
     ファウストはきっぱりと主張した。元より人付き合いを煩わしがる人だ。不慮の事故でこちらに飛ばされてきたブラッドリーに肩入れしたくなるのも無理はない。
    「部屋から出ないなら、事情を知らない魔法使いが戸惑うこともない。任務で負傷したことにして、食事は僕らのうちの誰かが運べばいいだろう」
     じっとしていられない性質の男が、それでも部屋から出ないと言った。そりゃそうだろうな、とネロは思う。このブラッドリーがほのぼのと生きるやつらとつるみたがるわけがなかった。北の冷たくぴんと張り詰めた空気のなかでしか息ができないやつなのだから。
     つまらなそうに脚を組んでいるオーエンの傍らで、フィガロとファウストがブラッドリーの対応について話を詰めていく。ネロは半ば無意識に口を開いていた。
    「俺が一緒に部屋で食うよ」
     その場にいた魔法使いの視線が集中したが、ネロは平然とすべての眼差しを受け止めていた。
    「時間が来るまで、俺が一緒にいる」
     向けられる眼差しに潜む感情はばらばらだった。ファウストは困惑していたし、オーエンはにやにやと面白がっていた。フィガロの視線は凍えそうなほど冷たい。腹の底を探るような、ぞっとする笑みを湛えている。
     ネロは怯えるどころか、可笑しくて笑いそうだった。先ほどから妙な目つきをすると思っていたが、確信した。フィガロはブラッドリーの相棒が誰なのかいまになって知ったらしい。
     神隠しで入れ替わりにやってきたブラッドリーが、うっかりネロの名前を口にしたのだろうか。あるいはこの件は関係なく、もう少し早くに気がつくきっかけがあったのかもしれない。時期なんてどうでもよかった。とにかくフィガロは勘付いている。何だったら勘付いていることさえ、どうでもいい。
     俺はあんたを石にするよ。ネロは思う。ルチルやミチルに恨まれても、レノックスに考え直してくれと懇願されたとしても、ファウストにとってあんたが大事な存在であるとしても、俺は、俺たちはあんたを石にする。そうされても仕方ないだけのことを山ほどしてきたやつだ。勝ち逃げなんてさせるものか。まさか仲間に囲まれて、柔らかなベッドの上で、眠るように死ねるとは思っていないだろ? あんたは一人で、孤独に死ぬ。
     ネロは突き刺すようなフィガロの視線を振り切り、ブラッドリーを見つめた。
     この男を自分以外の誰かに任せたいとは到底思えなかった。「東の魔法使い」になったネロに対する怒りや混乱をぶつけられるのだとしても、これは自分が為すべきことだと不思議と覚悟が決まっている。
    「ブラッドがいいって言うならだけど」
     ネロがそっと呟くと、長いこと無反応だったブラッドリーは微かに目を見開いた。掴みっぱなしにしていた手をようやく離したかと思った次の瞬間には、ぐっと肩を抱かれているのだった。
     遠慮のない手つきで引き寄せられて、つい笑ってしまう。当たり前のように自分のものみたいに扱うのだ、この男は。でも仕方ない。当時は確かにまだこの男のものだったのだから。それに、とネロは思う。俺はいまでもあんたのために死ねる。だから未だに、あんたのものなんじゃないかという気がしている。
    「てめえといる。決まってんだろ、ネロ」

     夕飯をネロの部屋で済ませ、だらだらと他愛のない会話をするうち夜も更けた。
     それとなく部屋に送ってやろうとしたのだが、のらりくらりと躱されてしまうのだ。意図がわからず「そろそろ寝ろよ」とついにはっきりとネロが言うと、ブラッドリーはうんざりしたように「てめえのその鈍感には参るぜ」と返してきた。それでやっとブラッドリーはこの部屋を出るつもりがないのだと理解した。
    「詰めろよ、狭えな」
    「詰めてるよ、十分」
     ベッドに押し込まれてすぐに背中を向け、「おやすみ」とネロは呟く。なるべく小さくなって触れないようにと端に寄る。
     そうしなければ衝動的に抱きしめてしまいそうだった。炎のように照らし、焼き尽くす男。拾われた頃からずっと好きだった。あんたと生きていたかった。ネロは思う。ほんとうだよ。あんたはこんな裏切り者、信じねえだろうが、俺はほんとうにずっと、あんたと。
     固く目を瞑って一刻も早く眠ってしまおうとしたが、そんな努力は全くの無駄だった。背後からするりと腕が伸びてきて、容易く胸元に抱き寄せられてしまう。
    「ネロ」
    「……なんだよ」
     ブラッドリーは静かに「なんで東の魔法使いなんかになってんだ」と問うてきた。ネロ・ターナーは東の魔法使い。賢者の魔法使いに選ばれるまで、雨の街で飯屋を営んでいた。そのことはすでにフィガロから聞かされていたようだ。ネロがファウストと出掛けているあいだに。ブラッドリーの声音は責めても苛立ってもいない。ただ途方に暮れたようなトーンに胸が詰まる。
    「団を抜けるやつなんて、他にもいただろ」腕のなかから抜け出すこともできず、ネロは努めて明るく言った。「いろいろ可能性はあると思うけど。俺だって所帯を持つ気になったのかもしれねえだろ。ほら、うっかり運命の恋に落ちてさ。……そんなの全然、あり得ないって?」
     ちらともブラッドリーは笑わなかった。ネロを抱きしめる腕に力を込めて、「おまえが?」と囁く。苦しい、と言っても少しも聞き入れられない。さらに締めつけてくる始末だった。
     ひときわ強く抱き寄せてから、唐突にブラッドリーは身を起こした。ネロの肩を掴んで強引に仰向けにさせると、唇をそっと重ねてくる。
    「あり得ねえよ、全然」
     ブラッドリーは吐き捨てるように言って、ベッドに倒れ込んだ。ネロの薄青の髪を梳くように撫でながら、「でも」と目を瞑る。
    「……てめえはいま、俺のじゃねえんだな」
     息を呑んで思わず「ブラッド」と呼ぶと、ブラッドリーは仕方なさそうにネロの目尻に口づけて「おやすみ、東の飯屋」と言った。そりきり会話を打ち切り、瞼を閉じてしまう。人一倍警戒心の強い男にも拘らず、ネロの傍ではいつでもすんなり眠りにつくやつだった。昔から。
     穏やかな寝顔を眺めながら、ネロは最近のことを思い出していた。
     厄祭戦後に、双子とフィガロに復讐するから付き合えと持ちかけられたこと。もう石になるつもりでいたはずが、必然的に寿命が延びてしまったこと。ブラッドリーに庇われて、守られるたび、胸がざわついて息苦しかったこと。「東の飯屋」と呼ばれては、遠ざけたのは自分の癖に、突き放されたようで立ち尽くしそうになったこと。
     枕からずるずると頭の位置を下ろし、ブラッドリーの胸に額を擦りつける。起こさないように細心の注意を払ったつもりだが、ブラッドリーの寝巻きをぎゅっと握りしめると、すぐに腕が背中に回された。押し潰されそうなほど強く抱きしめられる。
    「ブラッド、俺は」
     言葉が途切れたネロを奮い立たせるように、軽く背中を叩いてくる。このブラッドリーはまだ、相棒と上手くやっている頃のブラッドリーだ。いまのネロより年下の。自分のものではないと言いながらも、いま目の前にいるネロのことさえこのブラッドリーは愛おしむ。敵わない。敵う気がしない。俺は。ネロは必死に声を振り絞る。俺はさ、ほんとうは。
    「あんたの隣に立ちたい」
     何もかも投げ捨てて東の国に流れ着き、料理人としてそれなりに平坦で優しい日常を生きた。生きてきた。ブラッドリーがいなければ生きていけないと思っていたのにそんなことはなく、ネロはちっとも死ななかったのだ。
     呆然とするほどブラッドリーが不在の日々に慣れていき、あの素晴らしい時代が遠くなっても程々の幸福を感じることはあった。だけどもうすべてがどこか虚ろで、心臓からはもう火が消えていた。残った僅かな灰だけでも案外、生きていけてしまうらしい。でも、燃え殻だけでやり過ごすには魔法使いの寿命は長すぎる。
     いつになったら終われるのかと気が遠くなっていたとき、賢者の魔法使いとして選ばれ、ネロは再会した。もう一度会いたくて、もう二度と会いたくなかった男と。
     この男にいつか自分の石を食べてもらいたい。それは未だに手放せない欲望の一つだけど、ほんとうはそれより先にもう一つ、往生際悪く諦めきれない願いがあった。灰になったなんて大嘘だ。実のところいまでもずっと、ネロの肋の奥では絶えることなく微かな炎が揺れていた。
    「あんたの隣に立っていたい」
     さまざまな感情や事情に雁字搦めになって訳がわからなくなっていたけれど、本音は至って単純だった。ネロはようやく自分の望みを理解した。たったこれだけのことを忘れていたなんて。馬鹿馬鹿しくて笑いたいような、泣きたいような気分だった。
    「俺のおまえは、ちゃんと俺の隣に立ってるよ」
     明日には帰る、過去のブラッドリーは囁いた。歯を食いしばっているネロの頭を、甘やかすように撫でながら。
    「てめえの俺に言ってやれよ。てめえはいつも自己完結して、本音ってもんを語ろうとしねえからなあ。あんまり苦労ばっかさせんじゃねえ。馬鹿野郎」
    「……ふは」馬鹿野郎、があまりにも子供っぽい拗ねたトーンだったので、思わず小さく笑った。「そうかもな」
    「ちゃんと言えよ」
     ブラッドリーは笑っているネロに念を押した。やけに真剣な口調で「絶対だからな」と。
    「俺はたぶん、それが一番聞きたいと思うぜ」
    「あんたのことが好きだし、あんたのためなら死ねるよ、って伝えたけど……それじゃ足りねえの?」
     盛大に溜息を吐いたブラッドリーは、「この大馬鹿野郎」と言ってネロをひときわ強く抱きしめた。
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    44_mhyk

    SPOILERイベスト読了!ブラネロ妄想込み感想!最高でした。スカーフのエピソードからの今回の…クロエの大きな一歩、そしてクロエを見守り、そっと支えるラスティカの気配。優しくて繊細なヒースと、元気で前向きなルチルがクロエに寄り添うような、素敵なお話でした。

    そして何より、特筆したいのはリケの腕を振り解けないボスですよね…なんだかんだ言いつつ、ちっちゃいの、に甘いボスとても好きです。
    リケが、お勤めを最後まで果たさせるために、なのかもしれませんがブラと最後まで一緒にいたみたいなのがとてもニコニコしました。
    「帰ったらネロにもチョコをあげるんです!」と目をキラキラさせて言っているリケを眩しそうにみて、無造作に頭を撫でて「そうかよ」ってほんの少し柔らかい微笑みを浮かべるブラ。
    そんな表情をみて少し考えてから、きらきら真っ直ぐな目でリケが「ブラッドリーも一緒に渡しましょう!」て言うよね…どきっとしつつ、なんで俺様が、っていうブラに「きっとネロも喜びます。日頃たくさんおいしいものを作ってもらっているのだから、お祭りの夜くらい感謝を伝えてもいいでしょう?」って正論を突きつけるリケいませんか?
    ボス、リケの言葉に背中を押されて、深夜、ネロの部屋に 523

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    zo_ka_

    REHABILI大いなる厄災との戦いで石になったはずのネロが、フォル学世界のネロの中に魂だけ飛んでしまう話1俺は確かに見た。厄災を押し返して世界を守った瞬間を。多分そう。多分そうなんだ。
     だけど俺は全て遠かった。
     ああ。多分、石になるんだ。
    『ネロ!』
    『石になんてさせない』
     ぼんやり聞こえてくる声。クロエと、後は、ああ……。
    『しっかりしろ、ネロ!』
     ブラッド。
    『スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク』
    『アドノポテンスム!』
     はは、元気でな、ブラッド。早く自由になれると良いな。囚人って身分からも、俺からも。
    『ネロ……‼‼』
    「……」

    「なあ、ブラッド」
    「何だよネロ」
    「今日の晩飯失敗したかもしんねぇ」
    「は? お前が?」
    「なんか今日調子がおかしくてよ。うまく言えねぇんだけど、感覚が鈍いような……」
    「風邪か?」
    「うーん」
     おかしい。俺は夢でも見てるんだろうか。ラフすぎる服を来たブラッドがいる。それに、若い。俺の知ってるブラッドより見た目が若い。傷だって少ない。
     何より俺の声がする。喋ってなんてないのになんでだ?
    「ちょっと味見させてくれよ」
    「ああ、頼む」
     体の感覚はない。ただ見ているだけだ。
     若いブラッドが目の前の見たことのないキッチンで、見たことのない料理を 2283