ながいゆめ あなたは私にキスをしない。
ただ時折私の頬に指を寄せ、私の名を呼びかけて目を伏せるだけだ。
大いなる厄災がこの世界にもっとも近づいたあの夜、真木晶は死を迎えた。夢でも幻でもなく、完全に、完璧に。その生を終えたのだ。
それなのにその100年後、私はこうしてふたたび目を開けている。目を開けて、今にも泣き出してしまいそうな彼の顔を、眺めている。
1
「何か食べますか、賢⋯⋯晶」
晶と呼ばれたものは、一度だけ首を横に動かしてみせた。その微細な動きを見届けたミスラはそうですか、と短く呟いて手の中の黒い塊を自分の口に運んで噛み砕いた。
高い窓の外には雪が降っている。もう数千年、それより前からいつだって雪景色だった。ここは北の国だから。北の国の奥の奥のそのまた奥の、森の中に建てられた邸には、ミスラと"晶"と呼ばれる少女の呼吸のみが存在している。
少女は清潔な白い服を着せられ、髪はまっすぐにとかされていた。肌は白く、唇は常に微笑みの形をつくっていた。しかし宝石や枝、花束や羽根といった複雑な素材を組み込まれた身体はぎこちなく、移動の際はミスラの手が必要だった。それ以外は、紛れもない真木晶のかたちをした何かだった。
真木晶は、100年前にこの世界で生涯を終えた。
大いなる厄災との戦いの日、魔法使い達と前線に出ていた晶は戦いの最中に致命傷を負ったのだ。
誰かは厄災が彼女の胸を貫いたように見えたと語り、また他の誰かは流れてきた攻撃魔法が晶にぶつかったように見えたと口にした。真実は結局わからないままだった。その場にいた皆が混乱していたのだから。
葬儀はよく晴れた日に小高い丘の上で行われた。
賢者の魔法使いが一人一人晶のそばに花を添え、夢を見ているように微笑んで目を閉じる少女に別れの言葉を告げた。それから重い蓋が閉められ、壊れかけの世界を救うために奔走した少女はつめたい土塊の中に埋められた。
はじめに異変に気がついたのはその一年後、晶の墓前に集った魔法使いたちだった。
暖かな陽の光を受ける墓碑を目の前にして、かつて賢者の魔法使いと呼ばれていた男性たちがめいめいに言葉を交わし合っていた。
中央の魔法使いたちは花束を、西の魔法使いは楽器を、東の魔法使いたちは食べ物を、南の魔法使いたちは花輪を手にしていた。スノウとホワイトはステンドグラスでできた飾りを、ブラッドリーは酒を持ってきており、手ぶらのオーエンはそこら辺に咲いていた小さな花を一輪摘んで墓に添えた。
「賢者様の気配が消えてる!」
はじめにそう叫んだのはムルだった。
「なにを言っているんだ」と呆れた顔の魔法使いたちはしかし徐々に真顔になっていった。たとえ死体であっても気配というものは存在する。しかし彼らがいくら晶の気配を辿っても、誰もそれを感知出来なかったのだ。オズでさえ。
墓を掘り起こすなんて晶への冒涜だと一部の魔法使いたちが意を唱えたが、もしも晶に何かが起こっていたらそれこそ問題だ、ということで棺はふたたび開けられた。
21人の魔法使いによる守護魔法は健在で、棺の中には21輪の花が枯れることなく綺麗に横たわっていた。しかし、それだけだった。晶の姿はどこにもなく、その場にいたすべての魔法使いたちが時間差で息を飲んだ。
「あれ、そういえば」
静まった場を割くように声を上げたのフィガロだった。
「ミスラは?」
2
100年前。
晶の葬儀の日、ミスラは白い薔薇を手にして棺のそばへ立っていた。
周りの人々はまるで晶は眠っているようだと口にしたが、ミスラはそうは思わなかった。眠っている時の晶はもっと間の抜けた顔をしていたし、夢見が悪い時は眉を寄せて寝言を言っている時もあった。目を開ければ「おはようございます」と、丸い目をしょぼしょぼさせて、一睡もできなかったミスラに挨拶していたことをぼんやりと思い出していた。
もうあのちいさなひかりを携えた瞳がミスラを捉えることもない。頼りなくあたたかな手が、自分の手を握ることもない。
ミスラは薄く口を開けたが、そこからは何一つ言葉は出てこなかった。そっと唇を結び、横たわる少女の髪のそばに白い薔薇を置いてミスラは棺に背を向けた。
「晶、晶や」
「どうか天国で笑って暮らしておくれ」
ミスラの視線は偶然スノウとホワイトを捉えた。目を真っ赤にして泣き腫らす双子を視界に入れながら、「あ」とミスラは声をあげた。その場にそぐわない異様に弾んだ声は誰にも聞こえなかったし、その時のミスラの思いつきは、大天才のムルでさえ考の及ばないことだった。
晶の埋葬を終えた日の夜。
ミスラは晶の亡骸を腕に抱えて空間の扉をくぐった。
その先は北の奥の奥のそのまた奥にある大きな邸だった。城と見紛うほどに荘厳なその建物は、遥か昔、北の魔法使いから奪った邸だった。名も顔も忘れたが、そこそこ強かったことだけを覚えている。場所が場所である上に、そこは何重にも認識阻害魔法と結界が張られているため、ある程度の魔法使いでないと辿り着くことはおろかその存在を感じ取ることすら不可能な場所だった。
だからミスラはそこを選んだ。
邸のいちばん広い部屋へ移動したミスラは天蓋付きのベッドへ少女の亡骸を横たえた。その隣に腰を下ろし、ミスラはそっと晶の前髪を指で払った。
「晶」
冷たい頬をした少女は棺の中にいた頃と何一つ変わらない姿のままでいる。ミスラは水晶を手に乗せ、晶を見下ろした。
死者の蘇生が禁忌とされているのは魔法の世界でも同様だった。人間は死ぬ。魔法使いは石になる。人にはそれぞれに天命がある。寿命だろうと病気だろうと事故だろうと自死だろうと溺死だろうと、人はそれぞれ死ぬべき時に死を迎えるのだ。死者の蘇生は、天命を遂げた者の意思を捻じ曲げ冒涜する行為に他ならない。そのため、たいていの精霊も死者蘇生のための魔法に力を貸すことはない。
ミスラもそれは分かっていた。
死んだ人は生き返らない。晶はもう二度と自分の名を呼ぶこともない。
分かっていたがしかし、彼は北の魔法使いミスラだった。大魔女チレッタの元で育ち、賢者の魔法使い相手にスクスクと傍若無人っぷりを発揮し、大いなる厄災をも退けたミスラ王国の王だった。
「眠っているというのなら、目覚めさせますよ。やってやります。この俺が」
水晶の髑髏を片手に持って立ち上がる。目に見えない風がミスラの髪を揺らした。シャンデリアが悲鳴のような音を立てて震え始め、暖炉の炎は逃げるように消え去った。東側の窓が割れ、吹雪が一気に部屋の中へと押し寄せる。ミスラは一歩も動かなかった。ただ一心に晶を見つめていた。騒ぐ精霊を捩じ伏せ、蹂躙し、ただこの時この場を支配する自分に従え、という念だけを込めてミスラは口を開いた。
結果として、ミスラが幾度呪文を試しても、晶が生き返ることはなかった。瞬きすらすることなく、しばらくすると彼女の身体はあたりまえに腐り始めていった。それでもミスラは北の邸の中で呪文を唱え続けた。
10年が経ち、50年が経ち、それから100年が経ったある日のこと、ついに彼女はその目を開けた。その日のミスラの喜びようと言ったら、1時間ほどムルのように花火を上げたくらいだった。
ミスラは彼女の身体の細胞の時間を止めたため、腐敗は食い止められていた。そしてその身体には100年の試行錯誤によって花や宝石、鳥の羽根が組み込まれていた。死臭を隠すために西の調香師を拉致して最高級の香水を作らせ髪からつま先まで毎日振り掛けられていた。声は出ないため瞬きと首の動きだけで彼女の意思を読み取ることとなった。
ミスラは彼女を晶と呼んだ。
綺麗な服を着せてやり、髪をとかし、食事を与えた。
晶は時折目を開けて、虚に身体を揺らしていた。
「晶、少し散歩しますか」
ある日のこと、ミスラは晶の手を取った。腰に手を添え、揺り椅子から立ち上がらせる。蝋燭の灯りだけが揺らめく長い廊下を歩き、突き当たりのバルコニーの扉を開けた。辺りはすっかり夜の色をしていて、星の瞬きだけがあかるかった。
「⋯⋯あ」
北の国の夜空は星のささやきがよく聴こえる。ミスラが空を見上げると、溢れたように星が落ちてきた。
ヴィネイター流星群。
以前それを見た時は、冷たい海の中にいたことをぼんやり思い出す。
「晶⋯⋯ほら、見えますか」
ミスラは晶の顔を空へ向けさせた。虚な瞳に星の煌めきが反射する。ミスラは星には目もくれず、彼女の横顔を眺めていた。星が落ちきり、夜の端っこがやがて薄い水色になるまで、眺めていた。
ミスラは眩しさにそっと目を開けた。この森には数百年に一度、雲や雪が晴れて陽がさすことがあり、今朝がその日だった。ミスラは晶の名を呼びながら飛び起きた。
大いなる厄災との戦いに勝利したとき、賢者の魔法使いに刻まれた傷は癒えた。シャイロックの心臓は燃えることはないし、ブラッドリーはもうコショウに怯えない。当然ミスラも眠ることができるようになったのだが、晶が目を覚ましてからは自主的に眠ることを避けていた。自分が眠っている間、晶が窓から身を投げていたことが幾度かあったからだ。
部屋を見渡すが晶の姿がない。ああ、またあのひとは飛び降りたのかと頭を掻く。
「⋯⋯ミスラ?」
不意に、どこからか聴こえた小さな声にミスラは瞬く。ゆっくりと顔を上げると、たなびくカーテンの向こうに人影が見えた。逆光でよく見えず、ミスラは目を細める。その人影はカーテンの向こうから部屋の中へと入ってきた。
栗色の髪が揺れる。つんとした丸い目がぱちぱちと不思議そうに動き、その小さな唇が開いてもう一度自分の名を呼んだ。
「ミスラ?起きたんですね⋯⋯わぁっ!どうしたんですか?幽霊でも見たような顔して」
柔らかな絨毯を一歩一歩踏みながら、少女はベッドにいるミスラへ近づいた。心配するように顔を覗き込むと、ミスラの指がそっと彼女の頬に寄せられた。あたたかい、と少女は思う。
「⋯⋯晶?」
少女は「はい」と返事をしたかった。
しかし、次の瞬間ミスラの腕の中にいて、返事どころか息すらも出来なかった。
ウンウンとミスラの巨軀の中で身を捩っているとようやく解放され、晶はふうっと息を吐いた。一言文句を言ってやろうと晶はミスラを見上げたが、開いた口からは空気すら出なかった。
ミスラは今にも泣き出しそうな顔で晶を見下ろしていた。見たこともない、思い浮かべたことすらない顔だった。そのままミスラはガクンとベッドに座り込み、晶も戸惑いながらその隣へと腰を落ち着けた。
「あの、私⋯⋯すごく長く眠っていたのか記憶があやふやなんですよね。ここはどこですか?魔法舎のみんなは何をしているんですか?」
晶の質問に、ミスラは唇を三度開け閉めしたのちに答えた。
「さあ。もうずっとあのひとたちには会っていませんから」
「え⋯⋯どうしてですか?ミスラは魔法舎を出てきちゃったんですか!?」
「だってその必要がなくなりましたから。もうあの大いなる厄災はただの月になりましたし」
「そ⋯⋯それって、大いなる厄災との戦いに勝利したんですか⁉︎」
記憶があやふやどころの話ではない。
晶はありったけの声量で叫んだ。ミスラは動きもしない。
「ええと、それでここはどこですか?雰囲気的に北の国っぽいですけど」
「北です。俺の邸です」
「このお城が⁉︎わあ⋯⋯すごい。それで、私はどうしてここにいるんですか?」
「⋯⋯結婚」
「え?」
「結婚したからです」
晶は二度瞬いて、それから口元に手をやった。数秒足元を見て、天井、つまさき、ミスラの順番に視線を彷徨わせ、それから絶叫した。
「け、結婚!?私とミスラが!?どうして!?」
「うるさいですよ」
「ご、ごめんなさい、でも⋯⋯」
晶は胸を押さえた。しかし、こんなにも焦りと驚きの感情に震えているのに皮膚の下からはいっさいの鼓動が感じられず、それにも静かに驚いた。
魔法舎にいた頃、晶はミスラのことが怖かった。
脈絡なく人を殺すし、脈絡なく笑うので怖かった。それと同時に強く惹かれてもいた。圧倒的な強さを誇示したかと思えば子どもみたいな無邪気さを垣間見せられ、どうしたってミスラの存在を意識せずにはいられなかったのだ。
そんな彼と自分が結婚したのだという。
混乱した晶はとりあえず、ベッドに腰掛けて動かないミスラに向き合った。
「⋯⋯よ、よろしくお願いします⋯⋯?」
ミスラは数秒後に顔を上げ、晶を見つめながら喉の奥から小さな音を出した。笑い声のようでもあったし、涙の決壊を堪えるような音でもあった。
続