初心な恋人の慣らし方 ここ最近、桜はずっと落ち着きがなかった。
それもこれも桜と杉下が晴れて恋人同士になってからのことである。
遠目に杉下の姿を見かければその行く先を無意識に目で追っていたり。
そうして杉下と目が合えば瞬時に顔を真っ赤に染め上げて物陰や近くにいる誰かの背に隠れてしまったり。
要は桜は分かりやすく初めての恋に翻弄されていたのである。
桜が恋愛的なことに耐性がないのは周知の事実で、だからそんな風に初々しい様子を見せる桜のことを皆温かく見守っていたし、杉下だってそんな桜に呆れこそすれじっと桜がいつもの調子を取り戻すのを待っていたのだ。
しかし、何事にも限度というものはあるわけで。
楡井は今、泣きだしたいような気持ちでいっぱいになっていた。
正面には人を射殺せそうなほど鋭い眼光で威圧感たっぷりにこちらを見下ろす杉下の姿。そして背後には本来その視線が向けられる先になっているはずの桜が己より幾分か小さい楡井の背にしがみつき、杉下から隠れるようにその身を小さく縮こまらせている。
さながら修羅場のような光景だ。この場合間男は楡井である。
普段なら桜に頼られれば楡井は喜んで力を貸すし例え相手が誰であろうと震えながらでも立ち向かえるが、然しもの楡井とて恋人同士のいざこざにおいそれと首を突っ込めるほど豪胆な性格はしていない。
「…おい、楡井。そいつ、渡せ」
そいつ、と杉下が指し示すのは無論桜である。
ちらりと楡井が後ろを振り返ると最近は専ら赤い顔をしていることが多かった桜は今それとは真逆の青ざめた顔でぶんぶんと首を横に振っていた。
断れ、と。…この状況で?
嫌だと言った途端殺されやしないだろうか。
杉下に力ずくで来られては楡井に為す術はないし、そうなったらそうなったで桜が楡井をおいて逃げるはずもきっとない。つまりはどう転んでも桜は捕まる運命なのである。
結局結果が同じなら、今桜の為に楡井にできることは一つしかない。
「杉下さん…どうかくれぐれも穏便にお願いしますね…」
「…え、嘘だろちょっと待っ」
「待つわけねぇだろとっとと面貸せテメェ」
すっと楡井が脇に退いた瞬間、桜はおよそ穏便とは程遠い荒っぽさであっという間に杉下に担がれそのまま連れ去られて行ってしまった。
果たして楡井の願いは杉下に届いたのか届かなかったのか。
後で甘んじて桜に殴られる覚悟だけ決めて、楡井はただ桜が無事に戻って来ることだけを祈っていた。
*****
「い、いい加減にしろよテメェ。いつまでそうしてるつもりだ」
校舎の一角にあるとある空き教室。
そこに杉下に軽々と担がれ運び込まれた桜は今、不機嫌さを全面に押し出した顔で凄みを利かせる杉下の鋭い視線に晒され続けていた。
この期に及んでまだ桜は杉下に視線を向けない_…否、向けられないままでいる。
杉下と付き合い始めてからずっと、胸がそわそわとして落ち着かないのだ。
やけに杉下の姿ばかりが目に映って、うっかり目が合ったりなんかすればすぐにカァッと顔や耳の先、果ては身体まで熱くなって床を転げ回りたくなるような衝動に駆られてしまう。
姿を見なければ大丈夫なのかと言われればそういうわけでもなくて、家にいてもふとした時に思い出しては一人で身悶えすることになる。
全く気持ちの休まる暇もなくて、まるで自分が自分でないような気さえするのである。
流石に自分でもどうかと思うが、かといってどうすることもできないしそもそもどうしたらいいかも分からない。
一向に解決策が見出だせないまま、しかしそんな相談を誰にできるわけもなく結果的に桜はずるずると杉下を避けるような行動を取り続けてしまっている。
正直、桜にもこうして杉下を怒らせてしまっても仕方ないことをしている自覚はあるのである。
「………ごめん…」
だから桜にとって、杉下に伝えられる言葉はもう謝罪しか存在しなかった。
言い訳も、開き直りも、当然怒りも何もない。
しおしおとその一言だけを口にする桜に、確実に桜に腹を立てていたはずの杉下はすっかり毒気を抜かれて怒りの感情は霧散してしまった。
想定外だ。桜なら逆ギレしてくるだろうと思っていた。
そうしたら久方振りに思い切り喧嘩をして、言葉でも拳でも交わし合えば自ずと桜もいつもの調子を取り戻すのではないかと、そう考えていたのに。
桜にしおらしくされると調子が狂う。
ただ、杉下にとって僥倖だったのは桜本人もこの状況を"どうにかしたい"と思う気持ちはあるらしい、ということである。
桜も杉下もどちらも今の状態を望ましいとは思っておらず、現状を打破したいという目標を共にしているのならばわざわざ喧嘩する必要はないし、何なら協力だってできるはずである。
「…どうにかしたいとは、思ってんだな?」
「ん……でも、どうにもできなくて……」
念の為直接桜の意思を確かめようと、杉下は怒りの色が消え失せてすっかり落ち着いた声色で静かに桜へ問いかけた。
「ん……でも、どうにもできなくて…」
気まずげに視線を彷徨わせながらも確かに桜は肯定を示した。
それだけで杉下にとってはもう十分で、後に続く申し訳なさげな桜の言葉は必要なかった。
「わかった。じゃあ手伝ってやる」
手伝う?
思ってもいなかった杉下の言葉に戸惑う桜の眼前にスッと杉下の右手が差し込まれる。
何となく既視感のある光景に桜は思いを巡らせて、やがて風鈴に入学した初日、握手の為に杉下から差し出された手を彷彿とさせたのだと合点がいった。
さて、そうとは気づいたもののそれとこれとに一体何の関係があるのか。
いまいち杉下の考えを図りかねて桜は小さく首を傾げる。
「…おい、手出せ。握手は前にやっただろ」
「…や、したけど……手伝うって」
「だから、テメェ一人で悩んでどうにもならなかったんなら、もう頭で考えるより身体を慣らしていった方が早いだろうが」
だからまずは、握手から。
一度したことがある分、まだ桜にとっても抵抗が少ないだろうと踏んでのことだ。
手だけとはいえ直接触れることになるから否が応でも少しは近づかなければならない。
練習には打ってつけなはずである。
「ほら、さっさとしろ」
「ゔ…」
杉下の言い分を聞いて理解はできても、そう簡単に行動に移せればそもそもこんなことにはなっていない。
けれどこのまま動かなければ、結局何も変わらないままだ。
確かに握手は一度したのだ。状況は違うが、できたという事実は変わらない。
ならば今回だって、きっとできるはずである。
きゅ、と緊張に唇を引き結んだ桜はそろそろと杉下の右手に向かって自身の右手を差し出した。
まず指先が触れて、そこから手のひらにかけてぴったりと桜と杉下の手が重なって桜の手は桜より一回りは大きい杉下の手にすっぽりと包み込まれた。
………ぬくい。
以前と同じ、桜にとっての人の温もりの基準たる温度が桜の強ばった体の力を少しずつ溶かしていく。
やがてゆっくりと杉下の手が離れていくと、桜の手には杉下の手の温もりが微かに残っていた。
前とは違う、何だか不思議な感覚だった。
思えば最初の握手は互いにギリギリと手に力を込めていったせいで、最後には痛みしか残っていなかったのだ。たぶん、そのせいだろう。
ふっといくらか肩の力が抜けた桜の様子に、杉下はほっと小さく息を吐く。
練習は功を奏したようだ。これなら、もう一歩先に進んでも大丈夫だろう。
「…ん、次、左手出せ」
左?
反対の手も握手するのか、と今度はさっきよりはスムーズに桜が差し出した手を杉下は右手で掬い上げるように捉える。
する、と桜の手の縁を杉下の長く節くれ立った指が滑って桜は思わずぴくりと小さく身体を跳ねさせた。
「す、杉下、」
「…限界か?」
そう言いながらも杉下の手は止まることなく動き続け、やがて桜の手の指の隙間を埋めるように杉下の指が入り込んで桜の手はしっかりと杉下の手に握り込まれてしまった。
同じ手と手のふれあいなのに、先程の握手とは比べ物にならないくらい恥ずかしくて照れくさい。
握手の前からうっすらと赤らみ始めていた桜の顔がさらに赤さを増して、じわじわと耳の先や首筋にまで朱が差していく。
「……や……まだ、何とか……」
「………なら、もうちょっと頑張れるか」
小さく消え入りそうな声ではありながらまだ限界だとは言わない桜に杉下がそう問いかけると、ややあって桜からこくりと小さな頷きが返ってくる。
それなら、と杉下は自らの手の中に捕らえたままの桜をぐいっ、と力強く己の方へと引き寄せた。
急に引っ張られるとは思いもしていなかった桜はたたらを踏んで、そのままぼすりと勢いよく杉下の胸に飛び込んでしまう。
慌てて体勢を立て直そうとするがその頃にはもういつの間にか桜の手を離した杉下の腕が桜の背に回っていてもはや身動きもとれなくなっていた。
「な……っ!?」
杉下に抱き締められている、と気づいた瞬間桜の心臓はバクバクと激しく鳴り始めた。
ただでさえ全身の血が沸々と煮え滾っているかのように身体が熱くなっているのに、ぴったりと密着しているせいで桜の耳にしっかり届いてしまう杉下の胸の鼓動がさらに桜の身体を駆け巡る熱の強さを助長する。
無理だ。こんなの身がもたない。
「~~~っも、無理、限界っ……!!」
時間にして十数秒程度。
手だけでもギリギリだった桜がそう長くその状態を保てるわけもなく、桜は程無くしてじたばたと杉下の腕の中から逃れようと踠き始めた。
そうなるだろうとは思っていたから別段杉下は驚きもしない。むしろ、思っていた以上に桜は健闘してくれた方だと思う。
必死で腕を突っぱねてできる限り身体を離そうと躍起になっている桜の背に回していた腕を杉下がそっと下ろすと、桜はぴゃっと勢いよく飛び退ってまるで全力疾走した後であるかのようにふぅふぅと荒くなった呼吸を整え始めた。
「…おい、大丈夫か」
「お、お前な……っ!!いきなり難易度跳ね上げすぎだろ……っ!!」
まさか手だけのふれあいをしていた次の瞬間、ぴったり身体を寄せ合うことになろうとは到底思うはずもない。
顔中余すところなく真っ赤に染め上げた桜がキッと杉下を睨みつけて文句をいうと、杉下は一度ぱちくりと目を瞬いた後面白そうに小さく口角を持ち上げてみせた。
「でも、効果覿面だっただろ」
桜の月長石と琥珀の瞳は今、はっきりと杉下の姿を捉えている。
杉下の言葉に一度訝しげに眉を潜め、それからはっとその事実に気がついた桜は慌てたように杉下から視線を逸らした。
「こら、逸らすな」
「だって、お前が意識させるから…!!」
言われなければ気づかなかったものを。
…いや、もしかしたら後で気づいて、また一人で身悶えしていたかもしれないが。
しかしこれで効果の程は実証できたのである。
これを続けない理由などあるはずもない。
「はぁ…まあいい。おい、明日もやるぞ。逃げんなよ」
「は!?明日って…まさかテメェ、毎日続ける気か…!?」
「当たり前だ。慣れろっつってんのに間隔開けてどうすんだ馬鹿」
せめてちょっとくらい、休む暇を与えてほしい。
しかしそんな桜の願いは、杉下にすげなく突っぱねられて儚く消えた。
桜だって、頭では毎日続けた方がいいことはわかっている。それに効果があることがわかっているなら尚更だ。
だからもう、桜は杉下のその言葉に反論することはできなかった。
それならばせめて、多少無理をしてでも早く慣れてあのどこか甘ったるくて恥ずかしい時間を終わりにしたい。
そんな風に考えている桜はまだ、"慣れ"の本当の怖さなど知る由もなかった。