半径75センチメートル 見上げるほど群生する紫陽花を前に直径150センチメートルの黒い傘が前後に並ぶ。細い小道にその他の傘はなく、布地を打ち付ける雨音や生き物の鳴き声、二人っきりのひそひそ声があるばかりだ。
「写真で見るよりも素晴らしいですねぇ……」
思わず視界を狭めていたハットを脱ぎ、淑やかな詠嘆の声をもらす。同じくハット姿の青年も静かに息を吐いた。
「本当に美しいですね。ところで、随分と遠くまでやってきましたが、お疲れではありませんか? マヨイさん」
前を行く傘が振り向くと、紫陽花に目を奪われていた青年がこくりとうなずく。揃いのハットには、それぞれのスートが刺繍されており、買って早々にふたりで施したものだった。
「はい。ありがとうございます。ここ……巽さんが探してくださったんですか? 」
巽さんと呼ばれる青年は、容姿の落ち着きとは裏腹に屈託のない笑みを浮かべる。ゆっくりデートしたくてと彼が言えば、マヨイはほんのりと頬を染めた。
二人は「伴侶」であると、多くのファンに認知されるところではあるが、公私共に分かちがたい仲であると知られれば、多くの問題が降りかかるだろう。だから彼らはわざわざ遠くの場所を選び、紫陽花の群れの中で密会のような真似をする。
もどかしい?
そんなことはありません。二人の時間が、身体が、心が確かに共有されているのですから。たった一瞬でも、この世界のどこかで愛するあなたと同じ空を見ることが、どんなに尊いことでしょう。
ゆっくりデートするために、都内から電車で2時間ほどの県外を選んだ。
車があれば楽でしたね。あいにく車検に出していましたから。今度はうんと遠出をしましょう。そんな余裕はない? ありがたいことですな。
巽は少々浮足立っていた。紫陽花を称賛する言葉やカエルがいっぱいいるだとか、他愛もない話にマヨイはうんうんと相槌を打った。
巽さんは傘の向こうでどんな表情をされているのでしょう。
幼子のように笑顔を浮かべているのでしょうか。それとも、浮き足立っているようで、私に向ける表情はいつもの包容力があるあなたなのでしょうか。
巽がそういえば、と振り向いた瞬間、マヨイは思い切って半径75センチメートルの中に飛び込んでみる。あたりが静寂に包まれると、マヨイは柄を握る巽の左手に振れた。
「この方が話しやすいかと思いましてぇ……」
しんとする巽の方をマヨイが不安げに見上げると、彼は目をそらし少々眉間にしわを寄せた。口元を隠してはいるが、手で覆われていない頬は赤く染まっている。おかげさまで饒舌はすっかりなりを潜め、雨音やカエルの鳴き声だけが彼らを包み込む。
「んんっ ……すみません。マヨイさんがそのようなことをしてくれるとは思っていなくて」
「す、すみません。お邪魔でしたらおいとましますのでぇ」
「とんでもありません。いえ……あの、本当に愛らしくて」
巽がその場でゆっくりしゃがみこむと、当然マヨイもしゃがみこむ。紫陽花の群れの中で、直径150センチメートルの世界がじっと息をひそめる。
「今、キスしてもいいでしょうか」
少し低くて、傘の中でしか伝わらないほど小さな囁き声。そして真剣な眼差し。
間を置くと、沈黙の中傘がマヨイの方に傾いた。
しばらくしてから紫陽花に埋もれていた傘が姿を見せる。
「……巽さん、紫陽花見ましょうね」
「ええ。……」
「ど、どうかされましたか? 」
「俺、マヨイさんのことを本当に愛しています……はぁ、こんなに照れてしまっては格好がつきませんな」
傘を持たない彼の右手が、赤く染まる顔を覆った。左隣から小さな返事が聞こえてくると、先ほどよりも大きく傘が揺れる。雨だというのに、多少濡れることなどお構いなしと言わんばかりに。
しばらくすると前方から複数人の談笑が聞こえてくる。二人はその女性グループに背を向け、紫陽花の上で休んでいるかたつむりを眺めるフリをした。
・・・
「もう一度言ってください」
「そ、そんなアイドルスマイルを向けても駄目ですぅ」
「今は俺たちしかいません」
「だ、駄目です! 万が一見られたらどうするんですか」
「……ねぇ、マヨイさん、寮に戻ったらもう一度、聞かせてくれませんか」
至近距離であなたに懇願されて、断れる私がいるでしょうか。
「んん……いい子で帰れたら、ですよ? 」