光 控えめなノックの音ともに金の髪がひょこりとのぞいた。
「タッツン先輩ー、起きてるー?」
「おはよう巽先輩! 朝だよ!」
「あいにくのお天気ですがいかがでしょう…?」
ドアが開いて見慣れた顔がみっつ、ちいさいのから順にぞろぞろとあらわれる。可愛らしいものだと巽は口元をあげた。
おはようございます、そう挨拶を返してベッドの背もたれまで体をひきあげる。エアコンは効いていたものの、冷やしてもよくないかと布団をかけなおす。
こちらがまだベッドにいると知って三人は驚いたようだった。あれっと藍良が目をまるくして、それからふいと顔を曇らせる。
「……もしかして足が痛むとかある?」
昨日オレはしゃぎすぎちゃったかなあ? と気に病むようなのに巽はあわててかぶりをふった。
「いいえ、ロケはとても楽しかったですよ。藍良さんもたくさん魚を釣れてよかった。きょうは天気がよくないので」
ほらと手でしめせば、三人の目がつられて窓辺に向けられる。
ガラスを隔てたさきにあるのは昨日はじめて訪れた街で、低層ビルやマンションのうえに灰色の雲が重く垂れこめている。遠くにはなだらかな山なみが望めた。雷の先触れかそれとも年季を重ねたホテルの明かりか、ときおり白い光が視界の端をちらちらとする。
一日がかりとなった山間での渓流釣りロケを終え、きょうは寮に帰るばかりとなっていた。出発まで時間があるから午前中は街に出てみようとは、ゆうべ解散するまえに皆で約束したことだった。
けれど、と掛け布団のうえからそっと足を撫でてみる。
岩場歩きで負担がかかったか、それとも悪天候によるものか、みなにはいかにもありそうな理由づけをしてみたものの結局のところはっきりとはしない。どちらにせよ朝めざめたときから足は軋みをあげていた。街に出るのは辞退しようかと考えていたところ早々に三人がきてしまったのだった。
楽しみにしていたのだろう、藍良は見るからに悄然としている。かわいそうで、巽もまた申し訳ないきもちになる。俺のことは構わずどうか行ってきてください、そう言いかけたところで一彩がふうむと思案げに首をかしげた。
「巽先輩の足の痛みは心因性ということだったよね。なにか気になることがあるのかな?」
「ちょっとヒロくん」
慌てたように藍良が袖をひっばるのにも構わず、一彩はきまじめな顔を向けてくる。
そのまっすぐさに巽は目をまるくし、それからふふと口元をゆるめる。
「いえ、すみません。……そうですね、言われてみればESに戻ったあとソロの仕事でちょっと気が重くなりそうなものがあるにはあるのですが」
「タッツン先輩でもそんなことあるんだねえ」
はーと藍良がなぜだか感嘆の声をあげる。ユニット結成以来こちらの足の痛みにつきあわされてばかりだろうに、そうしたことにいまだに新鮮に驚くようなのがおかしくも愛らしい。
藍良さんは良い子ですね、とつい口にすれば、そんなことないよォと大仰にかぶりをふるのだからまた笑ってしまう。
「いい子ですよ。心因性なんて結局は卑怯なだけだと言うひともいますから」
そう口にしてから、いまのはすこし卑屈に過ぎただろうかと巽は小首をかしげる。
治療の甲斐あって足の怪我はほとんど治ってはいる。にもかかわらず今日のようにときおり痛みがきざすことがある。
医師の診断によれば精神的なものらしいと、そう説明すれば相手によってはずるだの卑怯だのと決めつけてくることもある。陰でそう評されることも、面と向かって指摘してくる輩もいる。
巽としてはもはや慣れきったことでも、ともすれば自己卑下に陥りがちな藍良にとっては刺激が強かったかもしれないなとあらためようとしたところでそのときあのっと甲高い声がした。
見れば藍良と一彩の背後、マヨイが高だかと右手をあげている。あのうあのうと繰り返し、うつむきながらも挙手の姿勢を崩そうとはしないから、巽もつられてはいマヨイさんと教師のようなもの言いをしてしまう。
「あっ、はいっ! あの、ええとですね、普段巽さんはどんなにつらくても疲れてらしても愚痴ひとつこぼされないので、というより私そもそもひとさまの機微というものがよくわからないので、でもあの、巽さんのおみ足が痛むなら、そうやって巽さんのお心を私たちに教えてくれるならそれはとっても私にとってはありがたいことなので、いえ巽さんがおつらいのにありがたいことなんて言ってはいけないんでしょうけど、そもそも体と心は切り離せないものですし、ず……、ええとその、なんてそんなこと違うというか」
ええとだとかううんだとか、マヨイは頭を抱えながらも必死に言葉を絞りだそうとしている。そのさまをどう見たか、一彩がふうむとおもむろに腕組みをした。
「痛みというのは人体に損傷が起きたとき脳から警告のため発せられる電気信号の一種だと学校の授業で習ったよ。痛みがあるということはすなわちそのひとの心身がなにかしらのダメージを受けているということだろう。そもそも心身の損傷という単純な事実がどうして人格の話に結びつくのかな?」
「……ヒロくんて百年に一回くらいいいこと言うよねえ?」
「? 藍良と会ってまだ半年くらいだから、じゃあと九十九年は一緒にいるということかな? 楽しみだね!」
「うーんと、えーと、……えーとさあ!」
ふたりが話せば話すほどにどんどんと論点がずれてゆき、藍良の顔もそれとともに晴れていく。よかった、とそっと胸をなでおろしつつ賑やかな掛け合いを眺めているうち、気づけばそばにマヨイが立っていた。
まだなにやら考えあぐねているのか、いつもは白いその頬にうっすらと朱がさしていた。
掛け布団のうえ、黒手袋がうろうろとしてやがて止まる。戸惑いながらもこちらの膝のあたりを撫でるように、それからマヨイは口を開く。
「……あの、繰り返しになりますけれど、しつこくて申し訳ありません、でも、あの、……巽さんはいつも穏やかでにこにこしてらっしゃって、だから巽さんがつらいときも苦しいときも私にはわからなくて助けてさしあげられなくて、……でも痛みがあるなら、巽さんの足が痛むときはなにか理由があるのかもしれないって私にもわかりますから、いえあの、といってももちろん巽さんが痛みに苦しむのはいやですけど、それであの、それとですね、そもそも痛みがあるっていうことを隠さないでいてくださるのも、その、こう言ったら不謹慎かもしれませんが私には嬉しいんです」
嬉しいんですとマヨイは確かめるように繰り返す。虚をつかれ、巽はぱちぱちと瞬いてしまう。
「そんなことを言われるとは思いませんでした」
つい素直な感想を口にすれば、マヨイはヒッと悲鳴をあげて固まってしまう。
「すすすすいませんおこがましいことを」
「あ、いえ、そうではなくて、動けないのはアイドル活動にはハンデかなと思っていたもので」
ご迷惑をおかけしたくはないのですがと言い添えれば、マヨイはぶんぶんと大きくかぶりをふる。
「そんなことはありませぇん! それを言いだしたら私なんてもっとですし、ええとそのう、そうではなくて、その、巽さんのは、伴侶として不甲斐ない私を巽さんの足の痛みがサポートしてくださるというか、……ですので、……痛みがあってくれて、その痛みを巽さんが私たちに隠さないでくれて、だって痛みがあるって言ったらいやみを返すひとだっているって巽さんは知ってるのに、私たちはそうじゃないって信じてくれてるのかなって、だからいろいろ、その、……ありがとうございますって」
なんて出過ぎた真似を申し上げてすみませぇぇん! とマヨイは両手で顔を覆ってその場にうずくまる。やいのやいのとなおも言いあっていた藍良と一彩が、その勢いにぎょっとしたようにふりかえった。
「えっ何? 伴侶とか言った? マヨさんいま伴侶とか言った!? まさかの了承!!? どうしようオレいま愛の目撃者だよ、ヒロくんカーテン閉めて! パパラッチがくるよ!」
「藍良、巽先輩とマヨイ先輩のデートはすでに撮影されているよ。ふたりの仲は隠さなくてもとっくに周知の事実ではないかな」
「えっ、あっ、そうだ! えっ、いやちょっと待って、そう!? そこはちょっと違うと思うよォ!?」
「すみませんごめんなさあい、重く聞こえたら申し訳ないと思ってぇぇ、捨て身のギャグだったんです掘り下げないでくださぁあい…!」
「ギャグ」
「藍良、ギャグとは何かな」
「だめだよ一彩くん掘り下げないでって言ってるじゃない、……なんかいろいろ言葉のチョイスとかかわいいからマヨさんのこと動画こみでSNSにあげたいとかおもっちゃだめだからねェ?」
「うム! SNSになにか上げるときはまず兄さんに見せてからと決まっているよ!」
「えっ、なにその天城家のお約束はじめて聞いたんだけど。天城燐音意外とまめ? てか真面目?」
藍良と一彩は延々とかけ合いを続け、いたたまれなくなったらしいマヨイはこちらの掛け布団に顔を埋めてちいさくなっている。
髪のあいだからのぞくその耳はまっかになっていた。
ときおり布団越しにちがうんですごめんなさあいとくぐもった声がする。そのうえ照れ隠しらしい、ひっきりなしに頭を右に左にと動かしている。
ふとした拍子、布越しにその頭がこちらの体にと触れた。とたんヒッと悲鳴をあげてマヨイは身をひく。とはいうもののおもてはうつぶせたまま、その手も布団のへりに添えられている。
すこしでもこちらの負担になることはしないがそばからは離れないでいてくれる、マヨイの気遣いがふいと胸を明るませる。
足の痛みは消えることなく、けれどなぜだかその熱さえもが心地よいようで、そんな自分がおかしく巽はつい笑ってしまう。
掛け布団のうえ、うずくまるマヨイの髪にふれればびくりと大仰な反応が返ってくる。
うつぶせられた、その耳に口を寄せ巽は言った。
「こちらこそありがとうございます。ご厄介をおかけしますがよろしくお願いしますね、……お言葉に甘えて、病めるときも健やかなるときも、永遠に」