【ぱっつち】元悪ガキたちの恋の行方 奥歯を噛み締め、相手の頬に拳を叩き込みながら土方は心中で盛大に舌打ちしていた。
周りを囲んでいるのは五人。これくらいの人数であれば無傷できり抜けられるかと思ったが、後から現れた隠し球のような男の存在で、雲行きが怪しくなってしまった。
土方に因縁をつけてきた男達の背後から、まるで真打登場とばかりに、明らかに手練の男が現れたのだ。しかも、年齢は自分たちより十は上だろう。二十代後半に見える。そいつの拳が何発か顔に入ってしまった。
唇が切れたのか、口内に鉄臭い血の味が広がる。
これで喧嘩は隠せなくなった。
あの担任教師が、今回もまた面倒臭そうな顔で説教を垂れるのを聞かなくてはならなくなった。そのことに対して、眼前の男たちへ八つ当たりでもしたい気分だ。
坂田銀八。
土方の担任教師である、やる気の欠片もない男。だが、減給処分と上からの叱責を免れるために。平たく言えば、己が不利にならないように形だけの注意を毎回土方にする。そして、その態度が毎回土方の勘に触る。
——どいつもこいつも、気に入らねえ!
沸々と湧いてきた怒りに身を任せ、周りにいる男たちを手当たり次第に、手加減などせずに殴り倒した。どこから持ってきたのかわからないが、角材のようなものを持ち出してきた相手からは、即座にそれを奪い取って使わせてもらった。
手に伝わる鈍い衝撃。これで拳の怪我はこれ以上増えないだろう。
数分も経たずに、手練の男以外は全員地面に沈めた。だが、ここで角材が折れた。それを地面に放り投げ、残った相手を睨みつける。
あと一人。
口内に溜まった不快な血を土方が吐き出すと、それを合図のように男が踊りかかってきた。半身を捩ってかわし、足を払って頭を容赦なく蹴り飛ばした。そのまま動かなくなったが、死んではいないだろう。
やれやれと、地面に転がっている鞄を拾い上げ、このまま登校せずに家に帰ろうかと僅かに逡巡したが、再び担任であるあの死んだ魚のような目をした教師の顔を思い出して、仕方なく足を学校に向けた。
今日は、先週の喧嘩の件で銀八に呼び出されていた。それに加えてこの喧嘩。そろそろ庇いきれなくなるだろう。もっとも、あの教師が全てを無かった事にしようと画策してくれるのは、土方の事を思ってというのではなく、自らの保身のためなのだろうが。
——どいつも、こいつも、くだらねぇ。
顔を顰めつつ、口内の傷を舌で舐めた。
生徒指導室のドアを叩くと、中から銀八の声がした。
むすっとしたまま入ると、やはり面倒そうな顔をして顔を顰められた。
その顔に、同じような顔を返してから土方は椅子に座って教師を見上げた。
「まーたケンカしたって? お前これで今月何回目よ?」
好きで絡まれているわけじゃない。とくに、今日の内容など、女を取られただのなんだのと、身に覚えのない事を言われたのだ。むしろ被害者は俺の方なんだが。そんな事を胸の内で考えたが、口には出さず、ウルセエなと銀八の眼鏡の奥の瞳を睨みつけて少しだけ驚いた。
今まで呼び出されて注意をされている時に、銀八の目など見たことがなかったが、気だるそうな、面倒そうな口調とは裏腹に、顔はそうでもない。真剣に怒っているような、心配しているような、そんな表情に見える。
だが、その直後にまたいつもと同じ言葉を言われた。
「せめてバレねえようにしろよ。あとで怒られんの俺なんだからね? ボーナス出なくなったらどうしてくれんの。ちょっと聞いてますか、土方くん」
——そうだよな。やっぱり、こいつも同じか。
大人なんて、というよりも、人間なんて皆同じだ。ガキだろうが、ジジイだろうが、親身なフリして結局はテメーが一番可愛い。面倒ばっか起こす、俺になんて関わりたくねえんだよな。
息を吐き出し、外に視線を向けると、校庭からは白球を追う同級生たちの声が聞こえた。同じ学校の、同じ生徒だというのに、ひどく遠い存在に感じる。
「もういいだろ。用がねえなら……」
帰っていいかと言おうとして銀八の方を向くと、また目が合った。しかし、今回はあの表情ではなかった。困っている。そんな表情だ。おまけに手の中にスマホが握られている。
「なあ、土方」
「な、なんだよ」
銀八にスマホって似合わねえな。こいつは、実物なんて見たこともないような二つ折り携帯が似合うかもしれない。いやいや、むしろ机の上に鎮座している黒電話でもいい。
そんな事を土方が考えていると、意外な事を言われた。
「おめえね、心配だから。連絡先交換すんぞ。そんで、毎日俺に連絡よこせ。で、交換って、どうやんの?」
連絡先の交換をした事ねぇのかよ! なんでそんな事をしなくちゃいけねえんだと叫んで教室を飛び出せばよかったのかもしれないが、あまりに似合わない銀八の言葉に驚いて、思わず連絡先を交換してしまった。しかも、家に帰り着いたら連絡すること、などと言われたため、律儀に『帰ってきた』と銀八にメッセージを送信すると、即座に既読がついて『おかえり』なんて返信がきた。
「おかえりって……」
ふっと笑ってしまった。やる気がない教師のくせに、こんな事をするんだな。これも、これ以上、面倒事を起こさせないための保身が目的なのか。そうであれば、ウザイな。そう思って自室のベッドの上にスマホを投げ出したが、また画面が点灯した。
『怪我しねえで帰ったか?』
ケンカをしていないかではなく、怪我をしていないかを確認するメッセージで、また土方は少し笑った。なんだその返事は。怪我をしていない喧嘩なら構わないとでも言いたいのか。無視しようかとも思ったが、なんとなく返信してしまった。
『してねえよ、怪我は』
この書き方であれば、喧嘩はしたが怪我はしていないとも読み取れる。きっと銀八はメッセージを見て困っているに違いない。楽しくなって、しばらくスマホを眺めていると、やはり『え、どっち? 喧嘩もしてないよな』と、返信が来たが、それには返事をしてやらない事にした。しつこくメッセージが来るかと思ったが、銀八からのメッセージはそれで止まってしまった。
翌日登校すると、銀八に顔と手を確認された。
「よし、喧嘩はしてねえな」
「心配しなくても、俺から喧嘩をふっかける事なんてねえよ」
土方がそう言うと、銀八は心底意外そうに目を瞬いた。
「え、そうなのか。てっきりおめえが喧嘩をふっかけてるもんだと思ったがな」
「それは中学までだ。高校になってからは、そんな事してねえ。でも……」
中学の頃に色々とやらかした所為で喧嘩に巻き込まれることが多いのだと言おうとして、やめた。言っても仕方がない。そもそも、そんな事を言ったところで信じてもらえるとは思えない。これまで、何人かの教師に言ってみたが、誰も信じてくれなかった。だが、目の前の銀髪の教師は、そのもしゃもしゃな頭を掻きながら「あぁ、そういう事ね」などと予想外の反応を示した。
「そういう事って、どういう事だよ」
土方が問うと、銀八は皆まで言うなと手を上げて土方の言葉を制した。
「俺もさ、べつに昔っから教師をしてるわけじゃねえのよ。だから、その……なんて言うか。いや、言わねえけど。まぁ、ともかく、おめえがどうなってんのか理解したってわけよ。だからさ、余計に連絡は寄越せ。いいな」
ポンポンと頭を撫でられ、土方は言葉を失った。まさか信じてもらえるとは思わなかった。それどころか、満足に説明すらしていないのにわかったと言われてしまった。
これも、教師生活の中で面倒事を起こす生徒を見てきた経験からだろうかと首をひねり、先ほどの銀八が口にした、昔から教師をしているわけじゃないという言葉を思い返してさらに首を捻った。あのように言うということは、教師をしている中で経験した事に対する反応ではないということだ。
——あいつ、何モンだ。
ふと、今までとは違った興味が銀八に沸いた。常に気怠そうに、やる気なさそうにしておきながら、他の教師たちとは違うように感じる。
スマホがポケットの中で震えた。
まだ震えているそれを引っ張り出して画面を見て、土方は深く息を吐いた。
メッセージを送信してきた相手は知っている。中学の時の後輩だ。だが、そのメッセージに、当の本人が床に転がっている写真が添付されている。しかも、薄暗い室内、どこかの倉庫のように見えるというのに、はっきりと血痕が見える。
ほらな、俺がおとなしくしていても、揉め事は向こうからやってくる。しかも、こんな卑怯な手段を使って。
ふうと息を吐き、スマホをポケットにしまおうとすると、振動を感じた。そんなに急かさなくても行ってやるよと思いながら画面を見たが、先ほどとは違う相手だった。
『喧嘩しねえで帰れよ』
さっき別れたばかりの銀八からのメッセージで、土方はスマホを握ったまましばらくその文字を凝視した。まだ銀八は校内にいる。事態を説明して……。そこまで考えて、土方は緩く頭を振った。先ほどは、銀八を他の教師とは少し違うかもしれないと考えたが、所詮は教師だ。後輩を助けるためとはいえ危ない事をしようとする自分をおとなしく行かせるとは思えない。
だが、黙って行くのも、なぜか気が咎めた。気の迷い。まさにそんな感じだった。
『わりぃ、先生。面倒かけちまうかも』
それだけメッセージを返して、今度こそスマホをポケットに捩じ込んだ。何度も何度も震えるのを感じるが、もう確認はしなかった。
校舎を飛び出す時に、背後から銀八が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
◇
力が入らなくなってきた脚を叱咤してどうにか立っているものの、土方は目が霞んできているのを自覚した。さっきナイフを握って突っ込んできたやつをどうにか避けたが、その隙を狙って頭を殴られた。その時に額が切れたらしく、目に血が入る。
捕えられていた後輩はまだ床に転がったままで意識がない。あちらも、早く手当をしなくては命に関わるかもしれない。
——やっぱ、助けてくれって言えばよかったか。
喧嘩の最中に、こんな弱気になったことなど今までなかった。あの教師に絆されたか。口元を少しだけ自嘲気味に歪めると、それを余裕の笑みと勘違いした相手が殴りかかってきたが、その拳は土方には届かなかった。代わりに、この場には似つかわしくないパコンという軽い音がした。目の前の男を見れば、顔面に便所スリッパがぶち当たっている。
「へ?」
思わず間の抜けた声が出てしまったが、背後を振り返ると、この空き倉庫に白衣の男が入ってくるのが見えた。ペタン、ポフ、という愉快な足音は、片方が便所スリッパ、もう片方が靴下だからだ。
「あー、わりい、わりい。スリッパ脱げちまったわ」
そんな事を言って近寄ってくるが、この教師がこの場に現れた事で事態が好転するとも思えない。むしろ、庇う相手が増えた事で余計に不利になりそうだ。
「何しに来てんだ! 帰れ!」
土方は必死で叫んだのだが、銀八の方はそんな土方に僅かに視線を向けただけで、対峙している男たちを見ている。その目を見て、土方は次の言葉を失ってしまった。
怒りではなく、楽しそうなのだ。生き生きしていると言ってもいい。それが、なんとも言えない薄気味悪さを出している。喧嘩をしている相手が、こんな雰囲気を出している時は、本気でまずい時だ。
「銀八、お、おい」
——殺すなよ。
思わずそう口にしそうになったが、そんな言葉が土方の口から漏れる前に、もう銀八の拳が目の前にいた男の頬にめり込んでいた。たいして勢いもつけていないように見えたのに、殴られた男の体が軽々と飛んでコンクリートに血の跡ができる。
「なんだよ。軽いなぁ、ほれ。もっと骨のあるやつからかかってきな」
淡々と言う銀八の白い背中を見ながら、土方はその場に立っていることしかできなかった。
「あーあ、どうしてくれんのよコレぇ」
床に落ちた眼鏡を拾い上げ、割れていないか確認してから銀八はそれを白衣の内ポケットに入れた。引っ張られて弾け飛んだシャツの下から信じられないほど鍛え上げられた筋肉が見え、土方は目に入る血を擦って何度も目を瞬いた。時間にすればほんの数分だったはずだ。それなのに、あと数人しか立っていない。残りは地面に蹲っている。失禁している者もいるのか、アンモニア臭がする。
ペタンペタンという、こんな場面でなければ愉快な足音をさせて銀八が男たちに近寄る。倒れている奴らが邪魔なのか「はいはい。もう立ち上がれねえなら退いて」などと言いながら左右に蹴って近寄るものだから、かなり恐ろしい。
ひらひらと左右に開いてしまったシャツを指で挟んで、銀八が感情のない声で「お前コレ……一張羅のシャツ、ビリビリだよ……」などと言ってさらに相手に近寄る。
「洗濯しねえと着るもんねえし、買おうにもパチでスッて金はねえし。どうすんだよ、ホント」
そんなシャツの心配など、いまする必要があるのかと誰も口にできないまま男たちが後ずさっていると、銀八が足を止めて土方の方を見た。
「それと、もう一つ」
先ほどまでの抑揚のない声とは明らかに違う、冷たい声が倉庫内に響く。声量はそれほどでもないのに、やけに通る低い声だ。視線を向けられた土方は寒気を覚えたが、銀八の方はすぐに土方から視線を逸らして男たちを見据えた。
「そこの、サラサラストレートくんね。俺の可愛い生徒なワケ。タイマンならまだしも、勝てねえからって、これは卑怯じゃねえの? おまえらキンタマついてねえの?」
喧嘩をふっかけてきたのは向こうだし、人質を取るなど卑怯な真似をしたのも許し難いのだが、これは、まずいのではないかという直感のようなものがした。
「せんせ……」
小さく声に出すと、銀八は土方の方を向いてくれた。いつも教室で見る顔ではないが、声だけは柔らかい。
「なぁに、おめえは後でゆっくりお説教な」
いつもの調子で言ってくれる。
「あ、おい。もう……」
いいんじゃねえかと土方は言おうとして、さっき切った口内の傷に顔をしかめてしまった。そんな土方の様子を見て、再び銀八の顔から表情が消える。
「立てよクズ共、これで終わりだと思うなよ」
そんな事を言われても、倒れ込んでいる者が再び立ち上がる事はなかったし、立っている者たちも出口に向かって走って行ってしまったのだから、それ以上の惨劇を土方が目にすることはなかった。銀八はといえば、いつもの眼鏡をかけて「もう、どうしてくれんのこれ。こんな姿で歩いて帰れねえでしょうが」などとぶつぶつ言っている、このよく見知っているはずの教師が何者なのか、土方にはわからなくなってきた。
本物の銀八なんだろうか。
「せんせ?」
座り込んだまま小さく呼ぶと、銀八が土方の前に膝をついて「なあに」と顔を覗き込んできた。いつもの銀八だ。間違いないのだが、どうも雰囲気が違いすぎる。
「あんた、何もんだ」
土方が掠れた声でどうにかそう言葉を絞り出すと、銀八は困ったように顔をしかめて頭を掻いた。
「えーっと、この事は、黙っててくんねえかな。これが理事長のババアにバレっと、大変なことに」
なるからよと、銀八は続けたかったのだろうが、その言葉を遮るように、倉庫の鉄扉が弾けるように開いた。逃げ出した奴らが仲間を連れて戻ってきたのかと土方がそちらを向くと、明らかにガラの悪そうな男たちがなだれ込んできた。これは、もう一戦交えなくてはならないか。そう身がまえたというのに、倉庫内に駆け込んできた男たちは銀八の姿を見ると「白夜叉さまぁぁぁ!」と叫んで揃ってその場で土下座をした。
申し訳ありませんと額をコンクリートに擦り付けて謝る男たちに、銀八が「あー、おめえらか。相変わらずだな」などと気だるげに声をかけているが、土方の方は大混乱だ。
——え、白夜叉。どこかで聞いたような……。
「先生、もしかして。先生が白やし……」
素行の悪い生徒でなくとも、この辺りの学生であれば、かつて白夜叉と呼ばれた生徒がいたのは耳にした事がある。どこまでが本当の話なのか、もう尾鰭がつきすぎて真相はわからないが、ともかく、白夜叉に喧嘩を売って生きている者はいないとか、周りに転がる屍を踏みつけて、一人血まみれで立っていただとか、それはもう殺人鬼なのではないのかという伝説は多くある。
その白夜叉なのかと土方は口にしようとしたのだが、銀八が慌てて人差し指を唇に当てた。黙ってろという合図だ。
きゅっと口を閉じた土方を無視して、後から入ってきた男たちは、転がっている者たちに肩を貸し、何度も何度も頭を下げて倉庫から出て行ってしまった。
いったい何が起きたのかわからない。
最後に二人きりで取り残されて、土方はやっと再び口を開いた。
「なぁ、先生。あんた白夜叉な……」
「土方くん! しー、しー、それ、言わないで! 内緒だから!」
「いや、あんた。内緒って。有名人じゃねえか。血に濡れた姿は、まさに夜叉だったって……本物をいま目にしちまった」
「いやいや、だから、それは昔の話で!」
「数分前にも見たが?」
土方が小首を傾げて銀八を見上げると、肺の中の空気を一度に吐き出すようにして銀八が土方の前に座り込んだ。
「あのな、俺も、俺の先生と約束してんの。もう喧嘩しねえって。だから、バレるとまずい。よし、ここは協定を結ぼうじゃねえか。俺もおめえの喧嘩の事は全力で揉み消す。だから、おめえもさっき見た事は忘れろ」
「いいぜ、白夜叉殿」
土方がニヤッと笑うと、銀八は「いや、ホント、勘弁してよ。助けに来てあげたでしょうが」と頭を抱えた。その姿が、先ほどの鬼のような姿とは対照的で、土方はなんだか面白くなってきた。
「銀八、あんた、おもしれぇな。わりと好きかも」
土方が笑いながら言うと、銀八が一瞬ポカンとした顔をしてから「わりと、かよ!」などという、訳の分からない言葉を叫んだが、その姿が楽しくて、さらに土方は笑った。
殴られた腹よりも、笑いで腹が痛くなってきたところで、銀八に「帰んぞ」と促された。
◇
倉庫での一件以来、土方に喧嘩をふっかける奴らはいなくなってしまったが、これまで喧嘩をしてきた奴らと道で目が合うと「あ、どうも。白夜叉様のところの可愛い子」と言われてしまうのには辟易している。相手に悪気がある様子はなく、一目置いてくれているようだから、余計に気まずい。
喧嘩をしなくなったことで、放課後の時間を持て余し始めた土方は、最近では銀八が巣にしている国語科準備室の常連になっている。
「なぁ、先生。俺とも一回でいいからタイマンしようぜ」
「ダメに決まってんだろ。なんで生徒を殴らねえとなんねえんだよ」
「いいだろ、なぁ、先生。なぁってば」
一回でいいからと、椅子に座って答案の丸つけをしている銀八に近づくと「うるせえ口だな」と言って顎を掴まれてしまった。
息がかかるほどの距離で銀八に瞳を覗き込まれて土方は呼吸を止めた。眼鏡の奥の赤い瞳が揺れる。
「あ……せんせ」
「こんな綺麗な顔、殴れるわけねえだろ。おめえは、別の意味で泣かせたくなる」
顎から手を離すと、すぐに銀八は答案に視線を向けてしまったが、土方は助かったと胸を撫で下ろした。今の自分の顔は、きっと銀八が握っている赤ペンと同じくらい赤くなっている。
ドキドキと心臓がうるさい。
呼吸ができなくて、倒れるかと思った。
まだ驚きが続いて半開きになってしまっている口に手の甲を当てながら深呼吸をしたが、ふと見た銀八の耳も、少しだけ赤くなっているようだった。
元悪ガキ二人が恋人になるのは、まだ、もう少し先の話。