大魔道士のカミングアウト 1 「……は?」
そう広くはない洞窟内にその声は大きく響いた。あまりにも間の抜けたそれは僅かな余韻を残したが、空気に完全に溶け込んで消えるまで時間はそうかからなかった。弟子の視線から逃れるようにマトリフは顔を背けた。なんというタイミングの悪さだと嘆いたところで、もう遅い。この弟子は察しが良い。なんせ人間にしては長い生涯において唯一の、最初で最後の、自慢の弟子だ。
「え、師匠……うそだろ……?」
そんな今や世間では二代目大魔道士と呼ばれている弟子――ポップの驚愕の色がありありと浮かぶ台詞に、うそだ、とすぐさま答えられたならどんなによかったかと、マトリフは目元を片手で覆って深い溜息を吐き出した。
ポップが息を呑む。マトリフの反応が、事実なのだと告げていたからだ。
「こ……こ……っ」
動揺のあまりポップは数回深呼吸を繰り返してから、意を決して言葉を紡ぐ。
「恋人……いたのかよ……!?」
大魔道士マトリフ。この日、最大の秘密を、弟子に知られてしまった。
「いや、恋……人……とは違う」
マトリフは目元に当てている手とは逆の手をポップへと向けて、ストップ、のポーズをとった。
そんなマトリフにポップはさらに衝撃を受けた。もともと大きな目をさらに真ん丸にして、全身を震わせている。
「こ、恋人じゃない?じゃあ、師匠は……いったい……誰と……っ」
それ以上はさすがに言葉にするのは躊躇うのだろう、ポップは愕然とした様子で立ち尽くしてしまっている。
マトリフとポップが初めて出会ったのは、10年前。それから今に至るまで、これほどまでに気まずい状況に陥ったことなど、おそらく無い。
事後に鉢合わせるなど、どちらにとっても気まずいに決まっているのだ。
そう、事後。
事後である。
「……」
「……」
とりあえず、おちつこう。
二人はそう思った。クールであれ。言った側も、言われた側も、その言葉を脳内で何度も反芻してはなんとか平常心を取り戻そうと試みた。
大魔王との戦いに終止符が打たれてから10年。魔界から勇者が帰還してから5年。ポップがパプニカ王国宮廷魔道士を辞任してから1年が経った。
25歳になったポップは、しかしその容貌はまだ10代後半といったところだ。せいぜい20歳になったばかりだと言われて納得できるくらいの。それも深い緑色の法衣を纏っているからであり、旅人の服を着たならばおそらく知る人が見れば15歳の彼がそのままの姿で今ここにいるのだと思うだろう。10年前、ポップが竜の騎士の血を授かった経緯を、その後しばらくして彼の身に起きた影響を、知る者は少ない。
見た目はまだ少年に見えるポップだが、実年齢は立派な大人だ。濡れ場のひとつやふたつ、目撃したところでそう動揺することもあるまい。しかし、それが他人などではなく、師匠であるマトリフであったものだから、ポップからしたらまさに青天の霹靂。
そろそろ齢110歳になろうというマトリフは、しかしその容貌はまだ80代前半といったところだ。決して若いとは言えない年齢だが、100歳を目前にその命の灯火が消えてしまわんとしていた彼が、10年経った今も生き延びているどころか逆に若返っているのだから驚くべきことである。尤も、事実を知る者は数えることができる程度で、実際に驚いた者の人数も片手で数えれる程度だ。そのうちの一人であるポップに、それこそ死んでも教える気がなかったはずの秘密を、まさかこんな形で知られてしまう時が来ようとは。マトリフは今すぐ穴があったら入りたい気持ちに駆られた。実際は洞窟内にいるので、すでに穴の中にいるとも言えるのだが。
それはそれとして。
「ポップ」
「なっ、なに?」
「……とりあえず、服着ていいか」
「……どうぞ」
若返ったとはいえそれでも80歳の老体、さすがに寒い。ベッドの上、シーツで身を包んでいるとはいえ、全裸なので、尚更に。
しかし床に盛大に散らばっている衣服を拾おうとベッドから降りようとしたマトリフが途端に呻いてずり落ちたのをポップが咄嗟に抱きとめた。110歳でも80歳でもマトリフの小柄な体躯はそう大差無い。かなり軽い。ポップも男にしては随分と軽い部類だが、マトリフはさらに軽い。
「おい、師匠!!だ、大丈夫かよ!?」
「耳元で喚くな……問題ねえよ……」
「そんなわけねえだろ……っ、身体……痛えのか?」
「……ッ」
「! やっぱり、そうなんだな。今、回復呪文を……」
マトリフの身体の不調を察してポップは顔色を変えた。すぐさま回復呪文をかけようと片手をかざしたポップだったが、
「やめろ!!」
その鋭い声にビクッと肩を跳ね上げ、唱えかけた回復呪文を寸前で止めてしまった。
驚いて目を見開くポップ。ほかでもないマトリフに止められて、訳が分からず困惑する。
「……師匠……」
ポップの戸惑いに満ちた呼び声に、マトリフはハッと顔を上げた。顔を見合わせた二人、真正面から視線がぶつかった。
「……わりぃな、ポップ。だがよ……回復呪文はかけないでくれ」
「なんで……」
「………」
ポップがマトリフの体調をいつだって気にかけて、心配してくれていることを、マトリフはそれこそこの10年間ずっと分かっていた。回復呪文を修得してからは、さらに磨きをかけて、薬草学と合わせて研究に研究を重ねて、戦いの中で禁呪法を使いすぎたことによって蝕まれたマトリフの身体を治そうと必死になってくれていた。自分のことは二の次で。ポップらしいといえばそうなのだが、師匠としてはむしろポップの方こそが心配なのだとマトリフは思っている。
心配をかけさせたくはないと思っているのに上手くはいかないもんだとマトリフは溜息をついた。
こうなってしまったからにはもう隠し通せるものではなくなったし、この優しい弟子を騙し続けることなどマトリフには到底できはしないのだ。
「……アイツに付けてもらった痕も消えちまうから……」
小さく呟かれたその言葉を、その意味するところをポップが正しく理解した瞬間、ボンッという効果音が聞こえたかと思うほどにポップは顔を真っ赤に染めて絶句した。
しばしの沈黙が流れる。
ベッドから落ちた際にマトリフの身体を包んでいたシーツがはだけて、晒されたその素肌をよく見ればところどころに付いている鬱血痕。首筋、鎖骨、胸元、腹、腰、上半身だけでなく下半身にもいくつも付けられているそれは、さすがにポップにだってなんなのか分かる。分かってしまったからには赤面は免れない。動揺が過ぎる。せめて早く視線を外さなければと思うのにそれもできずにポップは完全に固まってしまっていた。
それとは逆にポップの頭の中で様々な事がぐるぐると渦巻いている。その中でも群を抜いているのが、
(アイツって、誰…!?)
やはり、これである。
呟いたマトリフの表情と声色、愛しさと切なさが混在しているかのようだった。だからこそポップは混乱する。納得がいかない。
「……こんなん……恋人じゃないとか……うそだろ」
愛情以外の執着の結果がこの大量のキスマークだというなら、それはそれで怖ろしいことである。
ポップの視線がマトリフの身体の方に向けられたことでようやく至近距離でかち合っていた二人の視線は外れた。
しかし、次にマトリフが呟いた台詞により、ポップは再びマトリフの顔を凝視することになる。
「あー……いや……まあ……実際のところ……恋仲ではある……」
「……」
「……」
「……は?……はあっ!?!?」
ポップはさらに混乱した。それはそうだろう。情事の相手は恋人ではないと言っていたはずだが、今度は恋仲だと言い出すのだ。ひっくり返ったような大声を上げてしまったのも無理はない。
「うるせぇ」
耳元で叫ばれたマトリフは眉を顰めて苦言を漏らしたが、ハッキリ言って自業自得である。
「な、な、なんだよそれ!?いったいどういう……ええっ!?わけわかんねえよぉ!!」
黄色のバンダナの巻かれた頭を両手で抱えてポップは狼狽えた。混乱の極みである。
ポップの手から離れて背後にあるベッドの側面にぽふっともたれたマトリフ。ふと指先に触れた布の感触に視線を床に落とせば、そこには下着があった。小さなそれはマトリフ下着である。手の届く位置に下着があるのだが、脱力しているマトリフにはもはやそれを身につけるのも億劫になってしまっていた。肉体だけでなく、むしろ精神的に疲労していた。
いっそ、単刀直入に教えた方が、お互いに楽になれるんじゃないかと思った。
「……」
躊躇ってしまうのは、たったひとりの愛弟子に軽蔑されてしまうかもしれないという、一抹の不安が胸を過ぎったからだ。マトリフにだって恐怖心はあるのだ。当然だ。かつてギュータの逢魔窟ではそれは悲惨な目にあった。トラウマである。大勇者と旅をしていた最中に訪れた際には目隠しをして入ったことがあるほどだ。
「なあ、ポップ……そんなに気になるか?」
「え?」
「オレが寝てた相手」
「うっ……ん……、うん、そりゃ……気になるだろ、さすがに」
「……そうか」
「あっ、いや、別に言いたくねえんなら、無理に聞き出そうとかそんなことするつもりはねえけど……!」
神妙な顔つきになったマトリフを見てポップは慌てて両手をブンブンと振りかざして声を上げた。
マトリフは一瞬目を丸くして、そしてぶはっと吹き出した。
「くっくっ、おめえなぁ、説得力がねえんだよ」
笑いながらそう言ったマトリフに、対して今度はポップの方が目を見開いて、ぱちぱちと瞬いてから、困ったように笑った。
ふぅ、とマトリフは一度息を吐いて、真剣な眼差しでポップを見つめて言う。
「他言無用だからな」
「もちろんだ」
ポップも同様に笑いを引っ込めて真面目な顔で深く頷いた。緊張している様子ではあるが、ポップは床に膝をついたまま姿勢を正して、マトリフと真正面から向き合う。
「恋人じゃねえと言ったのは、相手は人間じゃねえからだ」
「人間じゃない……」
「ああ。オレも随分と動揺しちまってたからなぁ、つい誤魔化そうとしちまった。それでおめえを余計に混乱させちまった……悪かったな」
「それはもういいよ。それで、人間じゃないってことは……もしかして……魔族?」
ポップの瞳が大きく揺れた。魔族、と言葉を発するその声も震えた。
その反応に違和感を感じはしたが、軽蔑されているわけではないということだけは感じ取ってマトリフは内心で安堵した。
驚くのも無理はないかと思い、愛用の帽子を被っていないマトリフは白髪を片手でくしゃくしゃと掻きまぜて、首を横に振った。
「違う。正確には……」
瞬間、洞窟内に広がった確かな圧を感じて、マトリフとポップはほぼ同時にハッと息を呑んだ。
「師匠!」
「落ち着け」
マトリフが住んでいる洞窟には強力な結界が張られている。幻惑呪文の応用で出入り口は視覚的に映ることはなく、たとえ見つけたとしてもマトリフが許可した者だけが出入り可能になっているのだ。弟子であるポップがその数少ない許可されているうちのひとりである。
そんなマトリフの居住空間に、何者かが侵入してきた。
感覚的に結界が無理矢理破られたというわけではなさそうだが。
ここはマトリフの寝室。洞窟の奥に位置している。一つしかない出入り口を二人共が注視していた。
ポップは片膝を立てて、身をひねり、マトリフを庇うようにして片手を伸ばす。もう片方の手はベルトに引っ掛けてある伸縮自在の杖を掴み、いつでも迎撃できるように身構えた。
どんな方法を用いたにしろ、マトリフの結界を突破するなど、只者ではない。
静まり返った洞窟内に、響く足音が、次第に近づいてくる。
この洞窟内で攻撃呪文を使うわけにはいかない。杖を握る手にグッと力を込めたポップ。
「待て、ポップ」
「え?」
思いのほか冷静な声で引き止められたポップは虚をつかれたように反射的に振り返った。そこで察するに至る。マトリフには、侵入者が誰なのか、分かっているのだと。知っているのだと。
「百聞は一見に如かずってな」
「師匠?」
「紹介するぜ、ポップ」
「え?え?」
「アイツが……オレの恋人だ」
マトリフと出入り口を交互に見遣っていたポップの視線が、出入り口でぴたりと止まった。そこに現れた巨体を視界に映して、その正体を知って、さらにはマトリフの台詞がポップの脳内を何度もリフレインしていた。
「師匠の恋人って……え……マジかよ……恋人って……コイツ……」
ようやく理解が及んだ時には、ポップは目を白黒させて、口をあんぐりと大きく開いて、かと思えば魚よろしく口をパクパクさせて、人差し指をゆっくりと持ち上げていく。そして、
「トロルじゃねーかぁっ!!!!!」
ビシィッ、と人差し指を突きつけてポップは叫んだ。洞窟内に大きく響き渡ったその声は反響して、完全に消え去るまでにしばしの時間を要したのだった。
「……いかにも私はトロルだが、それがなにか?」
全身青色の巨大な体躯をしたトロルは、相反して理知的な眼鏡をクイッと指先で持ち上げて、至って冷静に言葉を返してきた。
「え、えっとぉ……?」
ポップの人差し指がへにょりと力を失い、縋るように背後のマトリフを振り向く。
マトリフは肩を竦めて、苦笑している。
「まあ、そういうこった」
「ししょおぉ〜〜」
その場でへたりと座り込んでポップは完全に脱力した。体力も魔法力も万全なのに、なんというか心に余裕が持てなくてどっと疲れた感じだった。
大魔道士マトリフの恋人は、デストロール。その名は、ガンガディアという。
そんな自己紹介をポップが受けるのは、このすぐ後のことであった。