年齢操作?ネタ鏡の前で、ジャケットを体にあててみた。
我ながらよく似合ってる、とサンジはひとりほくそ笑む。なんといっても色が良い。漆黒の生地と大きめの金ボタン、そこに自前の金髪が見事に調和している。あえて重厚なダブルプレストを選び、カラーシャツで抜け感を出したのも奏功した。クールさと大人の茶目っ気が同居する出で立ちは、ジジイのスペシャリテにも負けない絶妙のハーモニーを奏でている。
ぴんと立った折り目をなぞり、サンジは明日のことを夢想する。さらりとしたおろしたての手触りが心地良い。
――このスーツでフロアに出れば、レディたちの注目を集めること間違いなしだ。
たとえば、いくら口説いてもにこにこするばかりのアマンダ。挨拶代わりに頭を撫でるリリア。煙草はやめなさいと飴玉をくれるマダム・セーブル。彼女たちだって、きっと理解してくれる。そこにいるのは“チビナスちゃん”ではなく、一人前の男なのだと。コック連中も態度を改めるに違いない。そんなんでグリルに手が届くのか、なんて小馬鹿にしてくる新参者も、あそこ《・・・》の毛も生えてねェくせに、なんて下品なジョークを飛ばす古株も、みんなまとめて思い知らせてやれる。それに、何といっても。
「見てろよ、クソジジイ。今におれのこと認めさせてやるからな」
サンジは鏡の前でぐっと拳を握る。近頃、ゼフはいつも不機嫌そうだ。先日仕立て上がったこのスーツも、子供なら泣き出しそうな仏頂面で投げて寄越した。もともと悪人面だが(だって元海賊だ)、ここ一ヶ月ほどは磨きがかかっている。よほどサンジが『バラティエを出るつもりはない』と言い出したのが気にくわなかったのだろうか。
――へんくつジジイめ。だいたい、おれ抜きで店が回るかってんだ。
およそ一月前、バラティエで働いていたコックがひとり辞めた。故郷に帰って、自身の店を持つためだ。もともと修行と称してゼフに志願してきた男で、豪快な肉料理がずば抜けて上手かった。一方で海鮮の扱いは慣れておらず、だからこそバラティエを修行の場に選んだのだと言う。ゼフは申し出を受け入れ、男にみっちり海の流儀を叩き込んだ。同時に男はバラティエのコックたちに肉の扱い――焼き加減、熟成の方法から各種マリネ液の作り方まで――をおしみなく伝授した。彼は表向きこそコックのひとりだったが、実質はゼフの客分に近い。男の伝えた技術のおかげで、バラティエの評価はまた一段階上がることとなった。
発端は、その男を見送る宴での出来事だった。男の故郷にほど近い島に停泊し、サンジとゼフを含めたコック一同で酒を酌み交わしているとき、彼が言ったのだ。「サンジ。おまえ、一バラティエを出てみねェか。若いうちに余所の釜の飯を食う、ってのも大事だぜ」何人かのコックがそうだそうだと同調したが、サンジは迷わず答えた。「バラティエを出るつもりはねェ。おれは、ここに骨を埋めるって決めてんだ」これにも数人のコックが立派だの、いい心掛けだのと囃したてたが、ゼフは何も言わなかった。何も言わないまま、ただ不味そうに酒を飲んでいた。ミッキュオ産の最高級ワインだと言うのに。
「そうだ! このスーツ、今着てみても構わねェよな。だいいち、明日初めて袖を通して、ボタンがないだの、裾がほつれてるだの、開店前にばたばたするのはみっともねェもん」
粗忽者が腐らせたサワークリームを舐めたようなゼフの顔を追い出して、サンジはぽんと手を叩く。そうと決まれば善は急げだ。バラティエで姿見があるのはここ、厨房の入り口だけ。スタッフの大半は寝ている時刻だが、いつ人が来てもおかしくない。いそいそとジャケットに袖を通し、パンツを身につける。最後にネクタイをぎゅっと引き締めれば完成だ。きっと、格段に大人びた姿になっているだろう。わくわくしながら、サンジはもう一度鏡に視線を向ける。その瞬間、急に強い光が目の中に飛びこんできた。
「うわ、眩し……?」
視界が白く眩んで、周囲が何も見えなくなる。あわててまばたきすると、少しずつ目が明るさに馴染み、目の前が開けてきた。サンジは鏡の方向に目をこらす。そこには、大人になった自分が立っていた。ただしそれは、鏡の中の虚像などではなく
「え? お、おれ? というか、今って夜じゃ……」
サンジが右目をきょろきょろさせると、それは同じように左目をぎょろつかせ、無遠慮にサンジの全身を値踏みした。左側に作った金髪の分け目から、ぐるぐる巻いた眉根が覗いている。やや垂れ気味の目。彫りの深い一重まぶた。唇には紙巻きタバコをひっかけ、顎には髪よりやや濃い色の髭を蓄えている。
「なんだ、おまえ……? いや、そもそもここはどこなんだよ!」
思わずどなったサンジの手を、誰かが横からぎゅっとにぎった。
「やった、成功したわ! あはは、やればできるものね」
手を握ってきたのは、かわいらしい少女だった。年齢は10代後半。キャラメル色の髪をふたつに結いわけで、バターミルク色の肌をやわらかく紅潮させている。目はハシバミのように丸く、唇はぽってりと厚い。身長は170センチに届かない程度――サンジと同じか、少し高く見える。ヒールのせいであることをサンジはひそかに祈った。
「あの、成功ってなんのことですか?」
「かっ……わいい! なにこの声、めちゃくちゃ可愛いじゃない! ね、ね、何か喋ってみて」
「な、何かって……というか、お姉さんは誰?」
「キャー! やばい、すっごく可愛い! ね、聞いた? いま、私のことお姉さんだって!」
「ああ、はいはい」
あごひげ男は面倒くさそうに言うと、少女の手――サンジの右手を両手でにぎりこんでいる――をかるく叩いた。彼女は仕方ない、という風に手を離すと、ぺろりと男に舌を出して見せる。サンジは彼女ににぎられた右手をまじまじと見た。そこにはまだ、砂糖を焦がしたような甘い香りが残っている。
「おい、クソジャリ」
あごひげ男に肩をつかまれ、サンジはぎくりと固まった。
――こいつ、強い!
肩を掴む手の力強さが人間ばなれしている。今は手加減しているが、その気になれば骨ごと砕くことだってできるだろう。その証拠に、たいして力を込めている風でもないのに、びくとも脚が動かせない。身体が出来上がっていないとはいえサンジだって鍛えている。もうそこらの木っ端海賊では相手にならない。なんたって、あのクソジジイの蹴りを挨拶代わりに喰らっているのだ。たとえ100人の砲手が大砲で狙ってきたって、鼻歌まじりに避けられる自信がある。だというのに、何故だろう。どうしても、この男ひとりに勝つ光景が思い描けない。
嫌な汗がつうっと顎先をつたう。首だけ回して男を見ると、彼は感情の読めない目でじっとサンジを見つめかえした。肩に置かれた手が離れ、身体がふっと軽くなる。サンジは後ろに飛びすさると、おおげさにばたばたとスーツの肩をはらった。
「だれがジャリだ! きたねェ手でこのスーツにさわってんじゃねェ!」
「口が悪ィな。誰に似たんだか――ほれ、しつけ糸」
あごひげ男はそう言うと、一本の糸くずをサンジの眼前におしつける。
「肩口に残ってンだよ、もちろん反対側もな。袖通す前にきちんと確認しやがれ」
男の言葉に、サンジはあわてて先ほど掴まれなかった側の肩に手をやった。たしかに指先にひっかかるものがある。そっと引き抜くと、先ほど見せられたのと同じ糸くずがするりととれた。言われてみればジャケットを着る前、確認したのはボタンだけだ。けだるげに紫煙を吐く男。その視線が、やっぱりガキだな、と嗤っているような気がして、サンジは反射的にかみついた。
「うるせェ! そんなの、おまえに何の関係があるんだよ。どうだっていいだろ!」
「よくねんェだよ!!」
髭面の男は唐突に叫ぶと、くわっと眠たげにも見えるまぶたを見開いた。
「そこまで言うなら教えてやる。いいか? 今日から三日後だ。テメェはそいつを着て、いつもの通りホールに出る。だが、どォも思ったようにいかねェ。アマンダちゃんは相変わらずつれなくて、リリアちゃんに赤ん坊みたいにほおずりされて、ミセス・セーブルはいつものアメちゃんにおもちゃのアヒルをおまけしてくれる。おまけに、クソコックどもの態度が妙によそよそしい。いぶかしんだおまえは理由を探るが、だれも相手をしてくれねェ。そしたら、たまたま通りがかったクソジジイが鼻で笑いやがった。『何日も肩の糸くずに気がつかねェとは。えらく余裕のねェ仕事してやがんな、チビナス』――あのときの屈辱……おれァ一生忘れねェ! コックどもも、気付いてたなら教えろよ! チビナスがいつ気付くか賭けてた、なんて悪びれもせず言いやがって……」
「すてきな思い出。サンジさん、すごく可愛がられてたのね」
「気色悪ィこと言わないで、プリンちゃん!」
大きな瞳をかがやかせ、にこにこ笑う少女はとても可愛らしい。が、その口から出てきた言葉にサンジは腰を抜かしそうになった。『サンジさん』と、彼女は間違いなく呼んだ。だが、彼女の笑顔はサンジに向けられたものではない。彼の前に仁王立ちする、チンピラまがいの髭面男のほうを向いていた。
ひとつずつ、サンジのなかでピースが組み立てられていく。明日自分に起こる出来事を見てきたかのように語る態度。少女が呼んだ名前。そして、男をはじめて見たときの直感。
「おまえ、まさか……未来のおれ、なのか?」
「うーん。まァ、それが一番近いかもな。正確に言うと――どこから説明すりゃいいんだ、こりゃあ」
がしがしと困ったように頭をかく男。そこにすかさず、プリンと呼ばれた少女が口をはさむ。
「そのあたりは私から説明するわ。せっかくだから、ごはんでも食べていってちょうだい。ええと、『チビナス』さん?」
彼女はそう言うと、スキップしながら駆けだした。
テーブルに並んだ料理にサンジは目を見張る。どれもこれも、はじめて見る料理ばかりだ。8歳から厨房で働いているサンジでも、いくつかは材料や調理法の想像さえつかない。だというのに、この匂いはなんだろう。嗅いでいるだけでよだれが湧いてきて、胃袋がぎゅるぎゅる悲鳴を上げている。もう夕飯は済ませたが、近頃はいくら食べてもすぐ腹ぺこになる。
いったいどうすれば、こんな料理が作れるのだろう。サンジがじっと料理を見つめていると、隣に座った少女――プリンが優しく微笑んだ。
「おなかすいてるのね。よかったら私のぶんも食べる?」
「え。でも……」
「遠慮しないで。好物でしょ、これ」
そう言って彼女が分けてくれたのは、シチューのように見える料理だった。骨付きの鶏肉がごろごろ入っていて、ルゥの色は濃い赤茶色。一見なんてことのないトマトシチューに見えるが、珍しいことに、ゆで卵が丸1個具材として入っている。
そもそもどんな料理か知らないのに、好物のはずがない。そう思ったが、サンジは「ありがとう」と言ってスプーンを手にとった。とろみのあるルゥと骨付き肉を豪快にすくって口に入れる。その瞬間、舌の上で小さな爆発が起きた。
「かっ、辛ッ! なにこれ……げほげほっ!」
「ごめんなさい! 辛いのまだダメだった?」
「好きッ、だけど! これ、ちょっと辛すぎ……へくしっ!」
「待ってて、お水持ってくる。いや、こういう時は牛乳がいいんだっけ」
「いいよプリンちゃん。甘やかさないで」
そう言って席を立ったのはあごひげ男だった。奴はシンクの下からふた付きの壺をとりだすと、中身をひとつ小皿に移す。赤くてちいさい、しわくちゃのそれをサンジに押しつけると、「食え」と命令口調で言った。
「こいつはウメボシってんだ。プラムのピクルスみてェなもんで、とんでもなく酸っぱい。ちなみに、テメーがさっき食ったのはドロワット。雑に言や、トウガラシを山ほど使った激辛チキンカレーだ。それを飯も何もなしで口に入れたんだ。こうなって当然だわな」
「げほっ……い、嫌だ! ただでさえ辛いのに、この上酸っぱいのまで……」
「いいから食え」
口の中にウメボシを詰め込まれ、サンジは口を閉じたまま、ー! とうなった。辛いを通り越して痛い口のなかに、さらに強烈な酸味が襲いかかる。料理人としての矜持がなければ吐き出してしまいたいところだ。だが、しばらく口を押さえてうなっていると、しだいに痛みが引いていく。不思議そうに涙のにじんだ目をぱちぱちするサンジに、男はむすっとした顔で言った。
「トウガラシの辛み成分、カプサイシンの刺激はクエン酸で緩和できる。香辛料を使うときの基礎だ。よく覚えときな」
「んぐ……」
そういえばジジイの作る激辛チキンウイングには、必ずくし切りのライムが添えてあったっけ。そんなことを思い出しながら、サンジは口の中に残る種を舌で転がした。
「それにしても意外ね。サンジさんって、子供のころはこんな感じだったんだ」
「まあね。世間知らずで笑えるだろ。こんなジャリガキのくせに、一人前のつもりでいたんだぜ」
「誰がジャリガキだ! つーか、スーツに触るんじゃねェよ、オッサン!」
「おーおー、生きの良い雑魚だなァ。釜ゆでして天日干ししてやろうか」
「おれはニボシか! 出汁なんか出ねェぞ、こんにゃろ!」
どんっ、とサンジはテーブルを叩くが、あごひげ男はただにやにやと笑っている。無性にむかつくその顔の後ろから、プリンがにこにこと目を細める――こちらの笑顔は文句なしに可愛らしい。
「大丈夫? それなら、状況を説明しておきたいんだけど」
「うっ、うん! じゃなくて……はい。大丈夫です、マドモアゼル」
「礼儀正しいのね。でも、ちかごろじゃレディって呼ぶほうがスマートなのよ」
いいかしら、チビナスさん。そう言うとプリンははテーブルの上で頬杖をついた。少しだけお行儀の悪いしぐさがまたかわいらしい。でれでれと鼻の下を伸ばすサンジに、男がいけすの魚でも見るような目をむける。物珍しさに、ほんの少し哀れみが混ざった目。少年がその意味を問いただす前に、プリンは綿菓子のような猫撫で声で言った。
「結論から言うとね、あなたは、ほんものの『サンジ』じゃないの」
「えへへ、そうなんだあ……って、ええッ!?」
「わあっ! すごい、いまのリアクション、サンジさんそのものだわ!」
「うそだァ。おれ、あんなアホ面じゃねェもん」
唇をとがらせてそう言う男にふぅんと雑な返事をして、プリンはサンジのほうへ向き直る。彼女に覗き込まれた瞬間、心臓が釣り上げられる魚のように跳ねた。なんて美しい目だろう! 瞳は大輪の花に似て、みずから光を発するようにきらきらと輝いている。白目は青みを感じるほどに白く、薄手の磁器のような透明感がある。虹彩の色は一見ヘーゼルだが、じっと覗くとブラウンと銀色を帯びたブルーの混色だとわかる。こんな事態でさえなければ、いつまでも眺めていたいほどだ。
「悪魔の実はわかるわよね。私はそのうち、『メモメモの実』を食べた。他人の記憶を操れる――そうね、記憶人間ってとこかしら」
プリンはそう言うと、とけたキャラメルのような髪の中にどぷん、と指先を沈めた。サンジは昔見た大道芸を思い出す。種も仕掛けもありません、と帽子のなかから白いハトだの、万国旗だのを取り出してみせるやつ。彼女もまた何かをずるずると取り出して、ぴらぴらと振ってみせた。
「いつもはこうして、フィルムの形で記憶を取り出すんだけど――ある日、ふと思いついてね。『記憶』には実体がない。なのに、私はそれを『映像フィルム』として取り出すことができる。さらには、それを編集することもできる――本物のフィルムのように切ったり、つなぎ合わせたりしてね。それがメモメモの実の能力」
「それ、めちゃくちゃこわ……すごい能力なんじゃ」
「そう。けっこう怖いのよ、私。――で、ここからが本題。実は、取り出す記憶って『フィルム』以外の形にすることもできるの。たとえば音の記憶だけをレコードの形で抽出したり、印象に残った光景を写真の形で焼き付けたり。つまり、記憶の種類によって、適切な記録媒体の形をとらせることができるわけ」
「う、うん……」
「映像フィルムの形にしてるのは、人間が視覚と聴覚から得ている情報が圧倒的に多いからだけど、『記憶に残る』ものってそれだけじゃないでしょ? 味、匂い、皮膚感覚だって記憶できる。さらには外部刺激だけじゃなく、内部の情動――悲しいとか、嬉しいとか、そんな感情が記憶されることもある。そういったものをまとめて取り出すのに、いちばん適した記録媒体ってなんだと思う?」
「テキシタキロクバイタイ……」
「あはは。ごめんね、わかりにくくて。
結論から言うとね、究極の記憶媒体は人間なのよ。人体には食事や生活習慣が反映されるし、傷跡を見て痛みやそのときの悔しさを思い出すこともある。よく、人生経験は顔に出る、なんて言うでしょう? 人生経験だって、つまりは記憶よ。そもそも、あらゆる記憶を保存しているのは脳みそなんだし。
――ってことで、記憶を『人間』の形で取り出せないか挑戦してみたわけなんだけど」
「おれを実験台にして、な」
「だって、自分の過去なんか引っ張り出しても面白くないんだもの」
男は仕方ないなぁ、とでも言うように溜息をつくと、灰色っぽい薄焼きパンでさっきの激辛煮込みをすくって口に入れた。まばらにひげをたくわえた口元がもくもくとそれを咀嚼する。うん美味い、とうなずく男に、プリンは美しい瞳をすっと細めた。サンジは目の前がぐるぐるしてきた。いったい、このふたりは何を言っているんだろう。悪魔の実? 記憶を操る能力? 究極の記録媒体?
「人間じゃない、って……おれはレディ・プリンが取り出した『記憶』ってこと?」
「そう。とはいえ、ここまで完璧に再現できてるなら、サンジさんにとっては『過去の自分』そのものかもね。逆に言えば、チビナスさんから見たこの人は『未来の自分』ってこと」
そう言われて、サンジは食事を続けているあごひげ男をしげしげと見た。最初に抱いた『大人になった自分』という直感は間違いではなかった。しかし、だとしたらここは一体どこだろう。キッチンと一体になった食堂は真新しく、壁紙は淡いクリーム色。そこに、ポップな色使いのポスターや、額に入った写真などが飾られている。間違っても、きわどいピンナップで乱闘騒ぎでできた穴をふさいでいるいつもの食堂ではない。いや、それ以前にもっと決定的なことがある。ゼフは女性を雇わない。ここがバラティエだとしたら、目の前でにこにこと笑っている彼女は何者だ? バラティエに、客ではない女性がいることなどありえないというのに。
サンジは反射的に、男の胸ぐらをつかんだ。
「バラティエはどうしたんだよ! まさか、ジジイに何かあったとか……」
「あー、そりゃあ心配ねェ。クソジジイなら今もピンピンしてらァ。バラティエだって繁盛してる。店も思い切って増築したんだぜ、おれが出てったあとに」
「出て、いった?」
「おう。細けェ事情は伏せとくぜ。結末のわかってる冒険なんかつまんねェだろ。まァなんだ――残念だったな、クソジャリ。テメーが後生大事に張ってた意地は、まるっと全部無駄だったってこった」
「この……言わせておけば!」
「もー、食卓でケンカしないでよ。料理にほこりが入るわ」
大皿に盛った魚料理――姿揚げだろうか、野菜たっぷりの餡が黄金色に輝いている――を頭上に避難させ、プリンが唇をとがらせる。あわててサンジは手を離し、ぺこりと頭を下げる。
「「ごめん、プリン」ちゃん」
綺麗に揃った言葉に、彼らはそれぞれ右目と左目で睨み合った。
「だから仲良くしてってば。どうしてそうなっちゃうかなあ」
「でもプリンちゃん、実験は成功したんだろ。だったらこいつ、もう戻しちまってもいいんじゃねェか?」
「うーん、それはそうなんだけど……実は、戻し方がよくわかんないのよね」
「わかんないって……そんなテキトーなことでいいの?」
「あきらめろ、能力者ってのはそういうもんだ。今の何だ、説明しろつっても、おれのやりたいことだ、なんてフザけたことしか返さねェ」
「失礼ね。私、あそこまで自由じゃないわよ」
プリンはそう言うと、せいろの中で湯気をたてる饅頭のようなものをつまんでぽいと口に入れた。ほふほふと熱そうに湯気をふいて、彼女は説明を続ける。
「今回、私はサンジさんの『はじめてスーツに袖を通した』記憶を『チビナスさん』として取り出した。で、サンジさんがその三日後に起きたことを覚えてるってことは、あなたを構成してるのはその間の記憶。そうね、50時間か60時間ぐらい? そのぐらい経ったら自然にもどる――かもしれないわ」
「あのさ、クソヒゲ。このお姉さん、どのぐらい信頼していい?」
「誰がクソヒゲだ、クソジャリ。――安心しな。少なくとも、料理の腕は今のテメーよか上だ」
「そういう信頼は聞いてねェ!」
「ごちゃごちゃ考える前にほら、食べて食べて。これおいしいのよ」
取り分けられた鮮やかな赤色のサラダらしきものを前に、サンジはらちが開かないと頭を抱えた。
その後も、サンジは色々なことを聞かされた。大人の自分とプリンは、レストランの共同経営者であるということ。現在、店は建設中だということ。ここは店ができるまでの仮住まいで、オープンまではここで新たなレシピを試行錯誤していること。
やたら品数が多いのはそのせいか、とサンジは2皿目のデザートを食べながら納得する。薄い小麦粉の生地でパンナコッタを包み、からっと挙げたような菓子だ。これまた見たことのない料理だが、ぱりぱりの揚げ皮と濃厚なミルクの風味が絶妙にマッチしている。
あれこれと話をするのはもっぱらプリンのほうだった。大人の自分はほとんど喋らず、それどころか途中で「煙草吸ってくる」と言って席を外してしまった。失礼なやつ、とかちんときたが、それはそれ。可愛らしいレディとふたりきりになれるのは悪くない。
「チビナスさんは何歳?」
「ええと、14歳」
「そうなんだ? 12歳ぐらいだと思ってたわ」
「そう言うプリンはいくつなの?」
「私? 今年で19歳。ふうん、じゃあ5歳違いなのね。私ときみも」
も、と言う言い方にひっかかったが、すぐに理解する。
「じゃあ、こっちのおれは24歳か。……おっさんじゃん。なんだよ、あのダセェひげ」
「あはは、言えてる。ひげで大人ぶる歳じゃないんだし剃っちゃえば?、って言っても聞かないのよ。ヘンなところでいじっぱりなの」
プリンはそう言うと、困ったものだ、とばかりに肩をすくめた。おおきな瞳がいたずらっぽく輝いている。なんだか、ただの仕事仲間にしては気易い口ぶりだ。共同経営者というのはこういうものなのだろうか? ふと不思議になって、サンジは心に浮かんだ疑問を投げかける。
「プリンは、なんであいつとレストランやってるの?」
「それはもちろん、サンジさんがとびきり腕のいい料理人だから――っていうのじゃだめ?」
「ええと……」
「だめかー。じゃあ、これも伏せておくわ。チビナスさんに未来を教えることで、どんな影響が起きるか未知数だし」
「またなんか怖いこと言ってる!?」
「大丈夫大丈夫。もし悪影響があったとしても、ひどい目に合うのはチビナスさんじゃなくサンジさんだから」
「そっか、じゃあいいや」
相手が赤の他人ならもう少し悩むところだが、あのあごひげ野郎が苦しむならちっとも心は痛まない。そもそも、バラティエを捨てて可愛いレディと一つ屋根の下ニヤニヤしているような男だ。多少痛い目を見て当然だろう。
そんなことを考えていると、突然プリンがこめかみに手をあててきた。
「ふうん、さすがにきみから記憶は取れないのね。でも、びっくりするくらい安定してる。体温はあるし、脈拍も……あはは、緊張してる? すごくドキドキしてる」
甘い香りのする指が、滑るように耳朶から顎骨のつけねを撫でていく。触られた場所の神経がにわかに活気づく。文字通り、手に取るようにわかった。短く整えた爪。やわらかい指のはら。少し固くなった指先――料理人の手だ、と思った。人生で一番長く見てきた手。近い将来、サンジ自身もそうなるはずの手。だが、その奥にけして彼が獲得しえないしなやかさがある。海に消えたはずの記憶のなかで、サンジの頭をやさしく撫でてくれたあのひとのような。
「さてと。どうやら、私はきみのベッドとパジャマを用意しなきゃいけないようだわ」
ひとしきり頭を撫でまわしてから、彼女は笑ってそう言った。