お父さんって呼びたい話「お父さん、って呼んでもいいですか?」
恥ずかしそうに紡がれた言葉に、パティとカルネはむさくるしい顔を見合わせた。
東の海にその名を知らぬ者のない海上レストラン、『バラティエ』。そのオーナー室では、ちょうどワインの仕入れにまつわる大口の契約が行われていた。
契約の相手は、近年世界の食料市場に進出している貿易会社『シャーロット兄弟商会』。その代表としてバラティエにあらわれたのは、二十歳になるかならないかという女性だった。
当初、船から降り立った彼女――シャーロット・プリンの姿に、バラティエのコックたちは鼻白んだ。こちらが片田舎のレストランだからといって、こんな小娘を名代に寄越すとは。舐めている。コックたちがそう感じたのは、なにも彼らが狭量だからではない。そもそも、バラティエは客以外の女性が出入りすることが少ないのだ。オーナーの主義は広く知れわたっていて、少し気の利いた取引先なら使いの者も男と決めている。もちろん、オーナーは出入りの業者の性別など気にも留めておらず、完全なる余計なお世話なのだが。
だが、コックたちの態度は、彼女に続いてのろのろと船を降りてきた人物を見るなり一変する。
「おうコラクソコックども! こちらのレディに無礼を働きやがったら、おれが直々に地の果てまで蹴り飛ばしてやるからな!」
ひん曲げた唇にタバコをひっかける、なつかしいチンピラしぐさに、甲板に集まったギャラリーはどっと沸き立った。
かくして、『ワインとコーヒーの仕入れ先が変わる』というありふれた業務連絡は、『あのチビナスが女を連れてきた』という一大センセーションにとってかわった。
取引の行われるオーナー室。その扉の外には、海賊まがいのコックたち――オーナーいわくの『アホナス』どもが鈴生りになっている。
最古参の特権を振りかざし、中をのぞける位置を確保したパティとカルネは、ほそい節穴に目をあてようとさっきから何度も頭をぶつけあっている。大の大人とは思えない光景だが、残念ながら他のコックたちもたいがい同じことをしていたので、指摘できる者は誰もいない。
漏れ聞こえる音を聞く限りでは、取引はまったく順調のようだ。ワインとコーヒーの品質や供給ルートなど、オーナーがいくつか質問を投げかけ、プリンがそれに答える。彼女の応対は実にてきぱきとしたもので、コックたちの大半が縮み上がるオーナーの眼光にも、一切動じることはなかった。
「供給量の安定のため、ワインはいくつかの醸造所と契約しています。イーストブルーでは白が3カ所、赤が5カ所。また、地域ごとに品評会を開くことで醸造技術そのものの底上げも……」
「コーヒーの価格? ええ、少し高く感じるかもしれません。でも、生産者の生活を考えると、これが適正価格だと我が社では考えています。それに、価格分は品質に反映されていますから……」
淀みないセールストークを聞き流し、パティはいらいらと足踏みをする。
――オーナー、そんなこたァいいから! スパークリングワインの産地も紅茶の供給可能量も、この際どうでもいいから!
――早く聞いてくれ! その娘に、あんたはサンジの何なんだって。あんただって気になるだろ、頼むから!
隣でカルネが歯ぎしりする。だが、二人の願いは届くことなく、ゼフは大きく息を吐いた。
「なるほどな、よォくわかった。流石は噂の『商会』だ……仕入れ先を乗り換えるのは不安だったが、いい取引ができそうだ」
「信頼していただけてなによりです」
「有り難いね。これからも、末永く頼む」
「ええ。ご信頼には応えます。けして損はさせません」
かりかりと鵞ペンが紙をひっかく。契約書への署名が終われば、取引は完了だ。どうやら、疑問が解けることはなさそうだとコックたちはすごすごと引き上げはじめる。こんなところでサボっているのを見つかれば、オーナーに蹴り飛ばされるのは間違いない。最後に残ったのは、いちばん扉の近くに貼り付いていたパティとカルネ。
どのみち、これだけ大騒ぎをしていれば、ゼフはとっくに気付いている。どのみち蹴り飛ばされるなら、できる限り情報を集めたほうがいい。いらぬ方向に腹を括る二人の耳に飛びこんできたのが、冒頭の発言だった。
「ああよかった。これで兄さんたちにもいい報告ができるわ」
「おつかれさま、プリンちゃん」
弾んだ声で言う彼女に、それまで存在を消したように黙りこくっていた男が言葉をかける。
「ありがとうサンジさん。……ねェ、私、お腹すいちゃった。せっかく有名レストランに来てるんだもの、何か食べて戻らない?
「えッ……いや、どうだろうな。ほら、予約もしてねェし」
「席なら用意してる」
突然、ゼフが吐き捨てるようにそう言った。
「3階、食料庫の横だ。船窓に青いガラスの嵌まった部屋。案内できるだろう、サンジ」
かつてのようにチビナスではなく、ゼフははっきりとその名前を呼んだ。
「……いつの間に、ひとの部屋を客室に改造しやがった」
「出てった人間がゴタゴタ言うんじゃねェ」
「はッ。そうかい、そりゃ悪かったな」
一瞬、ひりついた空気が扉に貼り付く二人にも感じられた。だが、それは華やかな声ですぐさま中和される。
「お気遣いいただいてありがとうございます、ゼフさん。お優しいんですね」
「なんの。かのシャーロット家のご令嬢に、ケチなレストランだと思われちゃたまりませんから」
「まさか! 私たち家族にとって、バラティエは憧れの存在なんですよ。もちろん、オーナーであるゼフさんも」
声はそこでいちど言葉を切ると、ためらいがちに先を続けた。
「あのね、ゼフさん。こんなこと、ずうずうしいのはわかってるんですけど……お父さん、って呼んでもいいですか?」
はァ? と語尾の跳ねた声が二人分、まったく同じタイミングでそれに続く。キャッ、と嬉しげな悲鳴が上がった。
「うふふ、言っちゃった! ごめんなさい。でも、ずっとそう呼ぶことに憧れてたんです。私、お父さんの顔を知らなくて……」
「なるほど……?」
「何も、本当に娘になりたいなんて言いません。ニックネームみたいなものです。……だめでしょうか?」
姿は見えないが、パティとカルネは確信していた。サンジはきっと、真っ青な顔をしている。酸欠の魚みたいに、Oの形に口を開けて。『お父さん』あの不器用なチビナスは昔から、何度もオーナーをそう呼ぼうとしては失敗していた。それをぽっと出の小娘に先を越されたのでは、さぞ立つ瀬がないだろう。
――びしっと断ってくれよ、オーナー。
――大丈夫だ。サンジのことは、オーナーが一番わかってるはずだ。
「まァ……呼び方くらい好きにすりゃあいい。親爺だろうが父ちゃんだろうが、呼びたいように呼びな」
「本当ですか! やった!」
るんるん、と音の聞こえそうなほど嬉しげな声とスキップのような足音。だが、それをすぐどたどたと乱れた足音がかき消した。
「ダメだろ、それは! おいジジィ、そんなに適当でいいのかよ!」
「適当だァ? べつに普通だろ。新入りのコックには何人かいるぞ。おれを親父と呼ぶ奴」
「えッ……」
「そうよ、サンジさん。呼び方なんて本人同士の勝手じゃない。ダメだって言うなら、きちんと理由を教えてほしいわ」
「そっ、それは……」
――おう、そうだサンジ! いくら美人だからって、甘やかしてばかりじゃいけねェ
――今しかねェ! はっきり言うんだ。オーナーはおれの父親だから、って!
「それは、こう……順番が違う、というか」
「何だそりゃあ!」
「煮えきらねェ態度しやがって!」
ごにょごにょと口ごもる弟分に、チンピラコックたちはたまらず扉を蹴りとばしてつかみかかった。