ただの、悪い夢。 夢を見ていた。暗闇の中で、自分は何かを両手で握りしめている。目線の先には、後輩の少女。いつも通り綺麗な笑みを浮かべているが、その表情はどこか苦しそうで、薄ら涙も浮かんでいる。しかし、そのどことなく焦点が合っていない潤んだ瞳には、同時に暗い歓喜の色が浮かんでいた。
ゆっくりと、彼女の口が動く。
「先輩の手で、私の息の根を、止めて……?」
絶え絶えな息で発せられた言葉は、無事、伝わった。伝わったけれど、状況が把握できない。彼女は何を言っている?
「どうしたんだ? 何か厄介な呪いでももらったのか? ああ、死神一高の実習、ということか? それにしては随分と物騒だな」
少女は何も答えない。聞こえていないのかもしれない。ただ、笑ってその白い手を、架印の腕に添えてくる。……架印の腕? 自分は今、何を、している? 見下ろした先、少女の頭顱の下、その細い首に絡みつく無骨な、自分の、手があった。
先ほどから握りしめていると思っていた物は、後輩の首で、彼女が苦しそうだったのは――
「っ――!!」
声にならない声と同時に、夢から醒める。先ほどの状況が夢であったことには気づけたが、そうだとして、悪夢の中でも、殊更最悪な部類に入るだろう。夢のことだというのに、未だに手にあの感覚が残っている心地がする。何か、凶兆ではないだろうか。
一度疑ってしまうと、確かめなくては気が済まない。何故か仕事着のまま眠っていたことに甘えて身支度もそこそこに、家を飛び出して彼女の住まうクラブ棟に向かう。窓から中を覗き込み、眠る彼女の身体が薄ら上下していることを確認して、ようやく落ち着くことが出来た。と、同時に、気が抜けてしまってそのままクラブ棟前の地面に転落する。ああ、服が汚れる……。
そういえば、昨夜は堕魔死神を一斉検挙した関係で日付が変わってから床についたような? 否、そもそもとして帰宅した記憶が無い。目が覚めたときに照明もついたままであったし、無意識に帰宅だけはしていたのか? ああ、待て、報告書も書いた記憶が無い。今すぐにでも命数管理局に出勤して確認しなくては……。
巡る思考に反して、寝不足の体は起き上がってくれなかった。意識が沈む。
そして数時間後。記印神の青年を抱えて隣室の扉を叩く、ジャージ姿の青年の姿があった。
「おい、届け物だ」
「朝っぱらから何の用よ六道! って架印先輩じゃない! 何したの、返答によっては……」
「そこに落ちていただけですよ。どうせ用事があってきたけど寝落ちたんだと思います」
心当たりがあるのか、れんげは大人しく鎌を収めた。受け取ろうと差し出した手が、空中で停止して、虚無を掴み、力なく落ちる。
「……そう、ねぇ六道、ちょっとこれで忘れ玉買ってきてくれない? 釣りはあげるから」
「何をする気だ」
「昨日、知られちゃったのよ。一応昨日の時点で忘れ玉は飲ませたんだけど、今ここに来てるってコトは駄目だったってことだと思うの。」
だから、忘れてもらわないと。
「……。釣り銭は本当にもらっていいんだな??」
「二言は無いわ。口止め料も兼ねてるし」
具体的に言わなくても、今までに付き合わせた修羅場の数が違う。何のことだか理解したらしく、少し憐れむような目線を向けて、黄泉の羽織を身につけた彼は霊道に消えていった。
隣人に買ってきてもらった忘れ玉を飲ませて、更に二時間程経った後、ようやく青年は目を覚ました。見慣れない天井に一瞬警戒を纏わせたが、れんげの姿を認めた瞬間、その表情が和らぐ。
「れ、んげ……? すまない、僕は、一体どうしてここに?」
「六道曰く、クラブ棟の外で倒れていたそうです。昨夜は命数管理局の方で一斉検挙があったそうじゃないですか!きっとあの六道鯖人に関することで、六道に用があったのでは? 彼は生憎と単位が危険だとかでもう登校してしまいましたが……」
「すまない、手間をかけたな。待て、登校した…? 今は何時なんだ? まさかもう始業を」
こんな時でも、後輩のことを心配する姿に、あぁ、善人だなぁ、とぼんやり思う。
「九時です。ご心配なく、私は頼れる人間のいない親族が体調不良で倒れてそちらにつきっきりだと、六道が説明を入れてくれているようですので」
「…重ね重ね、すまないな」
「謝らないでください。ご実家に預けに行くことだってできたのに、それをしなかった時点で私の責任ですから。もう戻られますか? 朝食だけでも良ければどうぞ」
「折角だから頂こう。……何か、悪夢を見て、飛び出した覚えはあるんだが、他がさっぱり記憶に無くて。戻ったとしても、その一斉検挙にぼくが関わっていたのかすら分からない。」
「でしたら、いっそ記憶が無いから昨日の検挙とは無関係だ、と正直に言ってみるのは?」
神妙な顔で、言っていることはただの責任放棄の教唆である。下手に細かく言って検挙に関わっていたことを知られてしまった場合、忘れ玉まで辿り着かれる恐れがあるのだから、そこから切り離させるしかない。
「腹を括るか……。ありがとう、れんげ」
「いえ、このような意見でもお役に立てたのなら嬉しいです。先輩が困っていらっしゃるなら誠心誠意協力させて頂きたいので…!」
その後、れんげが奮発して作った味噌汁白米漬け物の3点セットを食した後、彼はあの世へと帰って行った。その際、材料代だけでも支払わせて欲しいと言われたけれど、なんやかんや適当に理由をつけて断る。結果として架印の一仕事分の給料を奪ってしまったことは事実なのだから。言えないけれど。
「この程度で贖罪になるわけがないじゃない…」
そもそも、彼が記憶を失った件もお悪夢に魘された件も、元を辿れば双方れんげのせいなのだ。架印は触れてこなかったが、珍しく着用しているタートルネックの下。そこに薄らと残っている線は、昨夜、架印がれんげの思惑通りで付けたものである。
まぁ、悪夢の内容までは(忘れたのか本人には言いづらかったのか)聞かされていないが、無意識に首元を見られていた気はするし、十中八九正夢だろう。
昨夜の一斉検挙、社長室に給料アップを訴えに来ていたいたれんげは、言い訳のしようがない現行犯であった。パニックを起こした結果、持ち前の有用さが変な方向に働いてしまい、架印に家来茶を混ぜ込んだ特性の薬剤を吹き付けた後、隠し扉経由で数ある座敷牢の一つに拉致したのである。そこから先は、今思えば本当に愚かとしか言いようが無いが、架印に殺してくれと頼んで、あと少しというところで鯖人に邪魔をされた。
そして、常備していた忘れ玉の存在を理性が戻ったことで思い出したので彼に飲ませ、こっそり家まで運んで寝床に放り込んだのだ。
最初の段階で殴って逃げていれば、双子の姉じゃないでしょうか?とかなんとか誤魔化しようもあったのに、これではどうしようもない。忘れ玉に祈る以外、何もできない。
どうか一生忘れていて、思い出さないで、夢のままでいて。