楓可不『いつか誓ったいつかの未来で』「可不可! 誕生日おめでとう!」
「ありがとう。今年もキミに祝ってもらえて嬉しいよ」
「当たり前でしょ……はい、これ、プレゼント!」
カセットテープと、両手に収まるほどの包みがもう一つ。セットでのプレゼントは楓が初めて可不可の誕生日を祝ってくれて以来の恒例になっていた。少し緊張した面持ちの楓の手からプレゼントを受け取る。包装紙を破れないように慎重に剥がす。現れた箱には海外の陶器ブランドのロゴが印字されていた。箱を膝に置き、包装紙を皺を伸ばすように丁寧に畳む可不可の指先を、楓はソワソワしながらも黙って見ていた。
「今年はちょっといいティーセットだったよね……わあ! 紫陽花模様だ! ……カップもソーサーも形もすごく素敵だね」
「気に入ってもらえたならよかった。可不可のいう『ちょっといい』がどの程度かわからなかったからかなり悩んだんだけど……」
「ありがとう、楓ちゃん。大切に使うね」
――可不可! 誕生日おめでとう!
――あり、が、とう……?
楓と友だちになって初めての誕生日に楓はいつものようにカセットテープの交換日記と一緒に手作りの栞をくれた。少し歪な長方形の紙に青みがかった紫色の花弁が散らされている。
――この花……
――そう! この前持って帰った紫陽花!
可不可がすきだと言っていたから、と楓が持ってきてくれた紫陽花の花弁だ。長持ちする方法を調べてせっせと世話をしていても、日に日に萎れていく紫陽花は枯れてしまう前に楓が持ち帰ったはずだったが、どうやらそれを押し花にしたらしい。
――紫陽花、すきなんでしょう?
――……うん。すき。
よかった、と楓が笑うと不思議と胸がくすぐったい。そんなはずないのに心臓がきゅうっと音を立てるような、身体中の血液がぬるま湯に置き換わるような、そんな気持ち。
本当は別に紫陽花が特別すきなわけじゃなかった。可不可にとって、花瓶に生けられていない姿を見られる花は限られていて、病院の屋上の紫陽花が少しずつ色づくのをなんとなく見ていたら楓に「紫陽花すきなの?」と聞かれて嫌いなわけじゃなかったから「うん、まあ」と答えただけ。普通がすきになるってこんな簡単なことなんだ、と手の中の栞を折り曲げてしまわないようにそっと抱きしめた。
――釣り道具はよくわからないし、可不可が喜ぶものってなんだろうってずっと考えてたんだよね。
――ずっと?
――うん。ここしばらくずっと。直接聞けばよかったのかもしれないけど……。
楓が恥ずかしそうに笑う。胸の内側が、ずっとくすぐったい。
――今更だけど欲しいものとかあった?
――…………本。
――本?
――うん。キミがすきな本が読んでみたい。
それはきっとキミの内側に触れさせてもらうようなものだから。学術書をめくる時のような概要を掴むだけの読み方ではなく、じっくり、時間をかけて。この栞を使って。
――じゃあ、次はそうするね!
――次……。
次。次の誕生日。一年も先の話。可不可の両親も主治医も可不可にはっきりと言ったことはないが、可不可の一年後はきっとひどく不安定だ。もちろん楓に言ったことはない。けれど、動揺で詰まってしまった可不可に、楓が隠さずに「しまった」という顔をした。けれどすぐに振り払うようにかぶりを振って、栞ごと可不可の手を取った。
――次! 来年! 来年のプレゼントはその時俺がすきな本にするね。
――楓ちゃん……。
――だから……だから、可不可はちゃんと受け取って。ね? 約束!
ほんの数日の約束も守れなかったのに。一年後の約束なんて、楓はずいぶんと難しいことを言う。小指を差し出す楓に「ひどいよ」と言おうとしたのに、気づいたら可不可は目の前の小指に自分の小指を絡めていた。
――楽しみにしてて!
――うん。約束、ね。
約束、してしまった。明日が来るかもわからないのに、一年も先のことを。
触れ合った左手が揺れる。楓に教えてもらったまじないの歌を、楓の声に合わせて一緒に唱える。その声が、表情が、嬉しそうだったから、きっとこの約束は大丈夫だ。そう思えた。
カセットテープと、あともうひとつ。誕生日プレゼントを貰うと同時に、一年後のプレゼントを約束するのは、可不可の手術が成功して、HAMAツアーズが軌道に乗って数年経っても続いていた。
「来年は何をもらおうかな~」
一年かけて選んでくれたプレゼントは、毎年のカセットテープと一緒に大切に保管してある。今年も同じように、次の約束に思いを巡らせていると、隣で俯いていた楓が意を決したように顔を上げた。
「あのさ、可不可」
可不可に向き直った楓が、真っ直ぐに可不可の瞳を捉えた。緊張したような面持ちで可不可の名前を呼ぶ。
「なあに? 急に改まって」
「来年のプレゼントは俺が決めてもいい?」
一年更新のタイムカプセルのようなプレゼント。そのほとんどは、可不可のリクエストによるものだ。楓の方からはっきりと、自分が決めたいと言われたのは初めてかもしれない。楓がくれるものならなんだって嬉しいのはずっとそうだが、楓が可不可に渡したいと思うものなんてもっと嬉しいに決まっている。
「何をくれるんだろう。楽しみ!」
素直な気持ちが口から溢れる。楓は相変わらず硬い表情で可不可を見つめる。
「その……渡したいものなんだけど、もう決まってるんだ」
そうなの? と首を傾げると、楓は口を開いたかと思ったら噤んで、時々目を泳がせる。伏せた視線が可不可の手元で止まった。
「指輪」
ゆびわ、ゆびわ……指輪? 楓の言葉が頭の中をぐるぐると高速で巡っていく。ゆびわ、と可不可が繰り返すと、楓がコクリと頷く。
「そう、指輪。指輪を、渡したいと思ってるんだ」
「な、なんで?」
「最近の可不可、お見合いをすすめられたり、プライベートで誘われたりすることが増えた気がして、こういう目に見えるものがあれば可不可も断りやすいかなって……ごめん、ずるいよね。本当は、俺が可不可につけていてほしいと思ったから。……サイズ、測ってもいい?」
「えっ……と、どの指の?」
楓のただならぬ表情は答え同然なのに。都合のいい思考をひっくり返された回数が多すぎて、可不可は自分が立てた予測を信じられなかった。躊躇いがちに楓が可不可の左手に触れる。いつもは可不可より少し温かいはずの指先はやけにひんやりとしている。強張った指はHAMAツアーズ創業当時に決意を込めてつけ始めた人差し指の指輪をひと撫でして通り越して、薬指でぴたりと止まる。
「ここ」
何もない指の背を擦るように、楓の指がなん度も往復する。握り込んだ拳の内側にじわりと汗が滲むのを感じた。
「一生一緒に遊ぶ友だちとしてじゃなくて、恋人の先にある家族として。ダメ……かな?」
「ダメじゃない!」
いつか、楓と結婚式場を見に行った時。いつか楓が望んでくれるなら、と夢見たあの時から、ふたりの関係はほんの少しだけ変わっていて。それでもいつか夢見たいつかは、ずっといつかのままだった。いつからかわからないけれど、大切に温めてきた想いが、可不可の胸を震わせた。
「僕はね」
ようやく絞り出した声に、楓が耳を傾けてくれるのを感じた。
「キミと一緒なら、キミの隣ならどんな形でもいいと思ってるんだ」
「あ……じゃあ……」
楓は「間違えたかも」と言いたげに表情を曇らせる。するりと離れていこうとする手を引き留めた。
「でも、キミが望んでくれるなら、僕もそれがいいってずっと思ってた」
息を吸う。吐く。埠頭にいたあの頃よりもずっと体力がついたのに、全力で走った後のように呼吸が浅い。息を吸うためにはまず息を吐き出さなければならない。深く、深く息を吐いて、もう一度息を吸う。
「楓ちゃん、僕と結婚してくれますか?」
冷えた指先でなぞられただけの薬指が熱い。可不可も楓の同じ指にそっと触れた。視線が交わる。重なる。灰色の瞳で揺らめくのは、可不可の胸をくすぐるのと同じ熱だろうか。
「僕にBETしてよ、キミの人生全部を」
「もう賭けてるものは賭けられないよ……俺が言おうと思ってたのに」
可不可には敵わないや。そう言って笑うキミに勝てたことなんて一度もないのに。真剣な顔もカッコよかったけれど、楓は笑っている時がいちばん楓らしい。その笑顔ごと抱え込むように、可不可は楓の首に腕を回し、勢いよく抱きついた。
「あはは! じゃあキミからのプロポーズは来年のカセットに吹き込んでよ」
「えっ」
腕の中で楓が小さく溢す。戸惑いながらも抱きついた可不可をしっかりと受け止め、いつものように背中に手が回る。
「考える時間は一年あるからね」
「え~……一年待たなきゃダメ?」
「もちろん! だって僕の誕生日プレゼントでしょう? 楽しみだな~楓ちゃんの本気のプロポーズ。あ、そうそう、僕もキミに指輪渡したいな」
「えっ、と、じゃあ一緒に選びに行く? ……ん? それじゃあプレゼントにならないのかな」
「まあその辺りも一年かけて考えるということで……そうだ」
大切なことを確認していなかった。あの時は、難しかったかもしれないけれど、今なら社長と主任が長期で休暇を取ってもきっと大丈夫。だから――
「新婚旅行は世界一周旅行でいいよね?」