救い本屋の空気は、いつもと変わらなかった。
賢一はレジの上で帳簿をめくり、静かにペンを走らせていた。天井の古い照明が、かすかにチリチリと音を立てている。
しかし、ふと――その音の合間に、なにかが胸に触れた。
感覚。
妙な静けさ。耳に残る余白のような、そんな落ち着かない感覚。
「……」
賢一はペンを置いた。
背筋を、冷たい何かが撫でていったようだった。思考よりも先に、身体が反応していた。カウンターを出て、急いで、どこか重い足取りで、外階段へと向かう。
――赤瀬クン。
呼び名だけが胸に浮かぶ。何があるとわかったわけじゃない。
ただ。
分かってしまった。
あの部屋に何かが起こっている。
どこかおかしい。
そう、胸の奥の感覚が叫んでいた。
ギシギシと音を立てる鉄階段を駆け上がる。
赤瀬が暮らす二階の部屋の前で、手を止める。
ドアノブに手をかけると、カチリと簡単に開いた。
ーーー?
ーーー――鍵が……開いている?
赤瀬クンがこんな不用心なことをするはずがない。
不信感と、ぞっとするほど冷たい予感が同時に喉元までせり上がった。
「赤瀬……クン?」
恐る恐る中に入る。部屋の中は静まり返り、カーテンの隙間から差し込む夕陽が、斜めに床を照らしていた。
ーーそして、目に入った。
ーーーその光のなかに、揺れていた。
細い身体が――ロープに吊るされて、宙に浮いていた。
「っ___?!赤瀬クン」
頭が真っ白になった。
動作が荒くなる。足元の椅子を蹴飛ばし、背後から抱き留めるように腕を回す。
支えきれず倒れ込みながらも、懐から取り出した小さな折り畳みナイフですぐさまロープを切った。
ドサッと落ちた衝撃よりも、赤瀬の軽さの方が怖かった。
異常に軽かった。
膝の上に抱きかかえた身体はぐったりとしていて、首にはまだ赤い痕が残っている。
「赤瀬クン……っ、……ッ!」
呼びかけながらも震える手で脈を確認する。息は――ある。微かだが、確かにある。
安堵と涙と怒りと、何もかもが一気に胸をつかんで潰そうとした。
なぜーー
なぜ、何も言わなかった。
なぜ、こんな一人きりでーーー
だが、いまは問いただす時じゃない。
赤瀬の額に触れながら、震える声で賢一は赤瀬に声をかけようとした。
どう、言葉をかければ良いか分からなかった。
鼓動が早くなる。
ドクドクと鼓動が大きくなり、周囲の空気をかき乱す。
ドクドク、ドクドク____と音が響いた時、賢一はその音を掻き消すように再び、「……赤瀬クン」と声をかけた。
喉が焼けるように痛む。言葉を絞り出すようにして、続けた。
「赤瀬クン………お願いだから……………」
声は返ってこなかった。
けれど、ほんの少しだけ、赤瀬のまつげが震えた気がした。
その小さな動きにすがるように、賢一はそっとその額を抱き寄せた。
静かな部屋の中で、風がカーテンを揺らしていた。
***
キン_______!
――耳鳴りがしていた。
遠くで何かが鳴っているよう。
でも、それが現実の音なのか、自分の中から聞こえるものなのかも分からなかった。
まぶたの裏はとても重く、開けるには力が必要だった。
けれど指先がかすかに冷たく感じ、それがまるで引き戻すように、現実へと自分を手繰っていく。
息を吸う。喉の奥が焼けるように痛んだ。
「……ん……」
かすれた声が、口から漏れた。
どこかの布の上に寝かされている。部屋は薄暗く、静かで、どこか懐かしい匂いがした。
本特有のあの香りと、誰かの気配。
温かい手が、額に触れている。いや、額を撫でられていた。
誰___?と思った矢先、「……赤瀬クン」と声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、張りつめていた何かがぷつりと音を立てて切れた気がした。
やっと目を開けると、すぐそばに賢一がいた。
少しだけ乱れた前髪の奥で、その目は涙を堪えるように揺れていた。
開いた目の奥はあまり見えていなかったが、どこか……綺麗な色彩を帯びた瞳孔が、自分を見下ろしていた。
まるで虹のようだった。
「……お、大家さん……?」
赤瀬は、自分の声のかすれ具合に驚いた。
賢一は小さくうなずいて、安堵と何かを堪えるように、優しく笑んだ。
「……気づいてくれてよかった。……もう、呼んでも目を開けてくれないから……」
彼は涙ぐんだ声で、赤瀬の手を取った。
その言葉が、胸に刺さるように響いた。
ああ、自分は――。
「……ご………ごめ………ごめん、なさい……」
赤瀬は視線を逸らそうとした。目を合わせれなかった。
「謝らなくていいよ。……生きててくれて、本当に、よかった」
その一言に、赤瀬の目に、涙がジワリと出てきた。
言葉にできなかった思いが、胸に詰まってどうしようもなかった。ただ、静かにこぼれる涙を止めることはできなかった。
頰を伝う涙。
賢一はそれを責めるでもなく、黙って傍にいて、赤瀬の頭を優しく撫でた。
しばらくそうして、少し落ち着いた頃、賢一は口を開いた。
「赤瀬クン、明日、明日さ、図書館に、行こうよ……ね………」
赤瀬は、目を見開いた。けれど、すぐに眉を下げ、くすりと笑った。
「……また、急に誘うんですね」
死にかけたような笑顔で、彼は言った。
すぐさま賢一は、
「うん。急に誘いたくなるくらい、大事な人だから」と言葉を投げた。
赤瀬の喉がまた詰まりそうになった。
――この人は、ちゃんと見ていてくれた。自分の存在を、当たり前に肯定してくれている。
少しの間を置き、赤瀬は微笑んだ。
「……はい。行きます」
枯れた声でも、それは確かに返された、生きる側の返事だった。
窓の外で、夜風がそっとカーテンを揺らした。