地平線の遙か彼方まで続く熱砂の丘を越え、母なる大河が流れる場所にその国はあった。
「ジャバル」
大いなる神の住む山の名を冠したその国の王都には白亜の大宮殿の向こうには緑の丘が見え、天に届きそうなほど大きな城の門が開くと、そこにはまばゆいばかりの装飾が施された美しい世界が広がる。
故郷とは違う乾いた風に少しばかり咳き込んでしまったケイは、太陽に照らされた金色の宮を眺めて眉を顰めた。
門が重厚な音を立てて閉まってしまうと、その音によって自分がこの美しく豪奢な鳥かごから出られる術はないことを改めて知らされたような気分に陥るも、ケイはただ促されるままに宮殿の中へと歩を進めた。
ケイはこの国よりも北方の国の王族として生まれた。王族といっても先王の従甥と妾の子で王位継承には全く関係なく、王族と呼べるか微妙ですらあった。
いずれは磨いた剣の腕で騎士団へと入るか、文官となり国を支えるつもりで生きていたのだが、故郷とジャバルの戦が起きて故郷が敗戦国となると、風向きが変わってしまった。
ジャバルが故国を滅ぼさない代わりに、交易品への関税の撤廃や多額の賠償金に加えて王族からの人質を要求してきたのだ。
王もその子らも南方の蛮族として見下してきたジャバルへ下ることに強い拒否感を示して居たところに、ケイに白羽の矢が立てられた。
末席であっても王族であること、成人年齢である16歳に到達していることが大きな要因ではあるが、母の身分が低いことが一番の理由だろう。
…大貴族の出身である父の正妻の威光が働いたのかもしれないが、あくまで想像の域を出ない。
『お前が無事につとめを果たした折には、お前の母を大切に扱うことを誓う』
そんな事をのたまった王や父に舌打ちしたくなったけれど、後ろ盾も身分もない自分は頷くことしかできない。
出発にあたって優しくおおらかな母は泣いていたけれど、新しい世界を見に行けるチャンスだからと母を説得したケイは、一人でわずかな供を連れて雪深い故郷から熱砂の地へと長い旅を続け、ひと月かけてようやく目的の場所にたどり着いた。
とりあえず王宮にたどり着いたものの、様子がおかしい事に気づいたのは到着してすぐの事だった。
ケイの出立を告げる書簡はとっくに早馬で届いているだろうに、挨拶や王への謁見もないまま王宮の奥の豪奢な部屋へと通される。
王族といっても敗戦国の人質というのに冷遇されず、かといってなんの沙汰もない。従者に様子をみてくるように伝えるもあたふたと走り回る王宮の文官達しかおらず、話をするどころではないと聞かされて更に首を傾げた。
昼前に到着し、軽食を出されただけで放置されること半日。この国の文官のトップ…宰相だと名乗る男が挨拶に現れた頃にはとっくに日が暮れていた。
対応が遅くなったことへの謝罪の後に宰相が語ったことによれば、ケイが出立してここにたどり着くまでのひと月の間にこの国でクーデターが起き、戦好きで独裁的な王は鏖殺。その跡を巡って王族内での内紛が勃発し、それがようやく落ち着いて新しい王が決まったのがつい先日のことだったらしい。
一週間後に王の即位の式典があるので、それまでこの部屋で過ごして欲しいことと、今後の身の振り方もその時に知らせるとだけ言い残して、宰相はまた慌ただしく去って行った。
元は敵国の王族である自分は到着してすぐに殺されても文句はいえないと緊張していたケイだが、とりあえずしばらくはそんな心配がいらないことがわかって少し肩に力をぬく。
届けられた珍しい品々が並ぶ夕餉を従者達と一緒に食べてから、用意されたベッドにケイは疲れた身体を横たえた。
窓からは月明かりが差し込み、空を見上げれば満天の星がまたたいている。
曇りがちな故郷とは違う明るい夜空にしばし見とれていたケイは、残してきた母の幸せとこれからの自分が少しでも平穏に過ごせるようにと祈りながら眠りについた。
翌朝起きるとすぐに従者達が国へ帰ってこの国の現状を王へと報告するといってケイを残し出立してしまった。元から送り届けるだけの役目だったのだから仕方ないものの少しばかりさみしさを覚えたのも束の間、ジャバルの国からケイに女官が数人与えられた。
金の髪に白い肌をしているケイとは違い、ジャバル人は黒髪に黒い瞳、褐色の肌をしている。
気候の違いから衣類も実に簡素なもので、フリルのついたドレス姿を見慣れていたケイにとって薄い布を体に巻きつけているだけのような衣類が不思議で仕方ない。
しかも頭部は神聖なものとして考えられているらしく、暑い中ターバンを巻いたり女もヴェールのようなものを被っている。
そんな文化の違いに少々身構えていたが、女官達はケイの世話を厭うことなく、想像以上に丁重に扱ってもらえたので故国にいる時よりも快適に過ごせていた。
更に故郷の国の衣類のままではこの暑い国では過ごせないからと、この国の衣装だという美しい薄い布を女官は持ってきた。
着せてもらったのだが、腹やら腕が露出されて落ち着かない。
しかし女官達の服装とよく似ているので、これがこの国の流儀だと思うと不服も言えず、仕方なくその衣類というか布を着て過ごしていたのだが、数日経つ頃にはその動きやすさと通気性の良さにすっかり慣れてしまった。
王との謁見が終わるまでは自由に動き回ることもできないが、かといってずっと室内にいるのも身体がなまるので散歩をしたいと申し出ると、中庭までなら自由に行動しても良いとの返事がもらえた。
早速見張りであろう女官のうちの一人を連れてちり一つ無い美しい大理石の廊下を通って中庭と呼ばれる場所へと向かう。
中庭には砂漠の地とは思えないほど緑が生い茂り、様々な花が咲き乱れ、中央には小さな噴水まであった。
目でその美しさを楽しんでいたケイは、あたりの様子がおかしいことに気づく。
これだけ広く、美しい場所に自分しかいないのだ。ここに来るまでに会った人間といえば警備の兵くらいだ。
王宮の奥深い場所にあるならば、もっと文官達や王族達がいてもおかしくないはず無のに、と疑問を口にすると、傍に控えていた少し年配の女官がゆっくりと口を開いた。
今ケイのいる場所はかつて後宮(ハーレム)と呼ばれ、王が各地から集めた美しい女達が大勢いた場所だったのだが、クーデターの際に皆逃げ出してしまったこと。そして人質とはいえ王族であるケイを受け入れるだけの場所がここしかないので、今ここにいるのはケイだけという話だった。
「…今度即位される王に奥方はいないのか」
「新たな王…ハルカ様はまだご結婚されておりません」
なるほど、と頷いたケイはここで新たなる王となる男の名を初めて知る。
以前の王やその近しい親族にはいない名だったので、傍系から王へとのし上がったのだろう。
傍系であるがゆえに人質にされた自分と、王になれる男との立場の違いに思わず自嘲するも、こんな場所で自らを哀れんでも仕方が無いと思ったケイは思い切りのびをする。そして喉が渇いたので水が欲しいと女官につげると、女官は庭から出ないようにとだけ告げて水を取りに行った。
久々に一人きりになったケイは、しばし広すぎる庭を散策するもすぐに飽きてしまったので、故国で身につけた剣舞の型を思い出しながら身体を動かしてみる。
ひと月も馬車や馬、最後にはラクダに揺られ、さらに到着してからは豪華な部屋に閉じ込められたままだった。そんな中でなまった身体は少し重くなっていたけれど、好きだった剣舞に没頭するうちに少しずつ関節や筋肉が動き汗ばんできた。
ひらひらと舞う白い布を気にしながら動くこと数十分。額から流れ出る汗を手で拭っていると、近くの茂みからガサガサと不穏な音がする。
「…誰だ」
音のする方へ声をかけると、植木の中から小さな影が現れた。
黒い髪に葉っぱを乗せたまま出てきたのは深い蒼の瞳をした小さな子供だった。
年の頃は10歳ほどだろうか。白地に金の装飾が施された衣装を重そうに引きずっているところを見るとそれなりの身分だとわかる。
さらに使用人たちと違って肌も白い。この国で肌が白いのは王侯貴族しかいないので恐らく王の縁者の子供なのだろうと考えたケイは、じっとこちらを見据えたまま動かない子供に向かって口を開く。
「…お前、名前は?」
「……」
美しい蒼の瞳がケイを射抜くも、子どもは何も話さない。
「おい、口がきけねぇのか?」
膝を折って視線を合わせてやるも、固まってしまっている。
こんなことなら側仕えの女官を下げるのではなかったと後悔するも、遅い。
「参ったな…ガキは苦手なんだよ…」
頭を掻いてそうひとりごちた途端「…ガキじゃない」と消え入りそうなほど小さな声が聞こえた。
「なんだ、話せるのか。迷子か?親は?」
尋ねてみるとそのガ⋯子どもはゆるく首を横に振る。
その悲しげな表情に、親はクーデターに巻き込まれ命を落としたに違いないと哀れに思ったケイは「悪かった」と声をかけるとその小さな手をとって「ついて来い。出口まで案内してやる」と告げた。
小さな手をつないだままだだっ広い庭の木々や花に彩られた道を歩き、出口を目指す。
「あの…」
「なんだ?」
「…だれ?」
警戒心が解けたのか子どもの方から質問されるも、よほど口下手なのか外見よりも幼い問いかけに思わず吹き出しそうになる。
しかし王宮でぬくぬくと甘やかされた子供ならこんなものか、と考えたケイは「名乗る時は自分から、と習わなかったのか?」と意地悪く聞いてみた。
「…自分から名乗ってはいけないって…じぃやが…」
なるほど、とケイは納得した。王族は常に身の危険に冒されているので自分の身分を簡単には明かせない。そんな教育を受けているのであれば、この子は確実に王に近い存在なのだろう。
「……俺はケイだ」
「ケイ。なんでケイは金の髪なの?」
「ここから遠い北の国から来たんだ。そこには俺みたいなヤツばっかりで、お前たちみたいな黒髪は逆にあまりいない」
後でじいや、とやらに不審者扱いされても困るので先に名乗ってやると、子どもは目を輝かせた。
「ずっとここにいるの?」
「さぁ…ここの新しい王様次第だな。居ろって言われたら居るし、帰れって言われたら帰るよ」
「ふぅん。…じゃ、じゃあ!ケイは何歳?好きなたべものは?動物はすき?」
矢継ぎ早に質問をする子供にケイは思わず苦笑するも、庭から王宮の廊下へとつながる場所へとたどり着いたので、つないでいた手を離してやる。
「ほら、ここまで来たら一人で戻れるだろ?」
「…ケイとまだ遊びたい」
ケイの何をどう気に入ったのかは分からないが、どうやら懐かれたらしい。ケイの白いズボンをキュッと握ったまま懇願する子どもの美しい黒髪を優しく撫でてやると、嬉しそうに頬を赤らめている。
視線を合わせるとエキゾティックな美しい瞳に吸い込まれそうになるも、しばらくして遠くから複数の足音と誰かを探し回る声がする。この子を探している者たちに違いないと判断したケイは身を翻し「またな」と告げる。
別にやましいこともしていないので隠れる必要はないのだが、元敵国の人間が王族の子に何かをしたと勘違いされるのも癪なのでさっさと元の場所へ戻ることにした。するとこちらでも女官が水差しを持ちながらケイを探していた。散策に夢中になっていたと謝罪し、女官が用意した冷たい水をいただく。
整った顔に不思議な魅力のある子どもについて聞こうと思ったが、縁があればまた会うこともあるだろうと考えながらゆっくり部屋に戻ると、部屋に残っていた女官たちが慌てふためいていた。
どうやら留守中に宰相がやってきて、明日の王の即位式後に王との面会があることを告げ、その際に身につける衣装一式を置いていったらしい。
仰々しい金の台に乗せられた白い布はシルクに金の刺繍が施されていて、ケイが見ただけでも非常に高価なものであることがわかる。
更に金のネックレスやルビーが埋め込まれたブレスレットのような金細工も添えられていて、女官たちは目を輝かせていた。
どうやら新しい王は人質である自分をすぐ処分するつもりはないらしい。
それがわかったケイは、ホッと力を抜いて窓際のカウチに腰掛けた。
「新しい王とは、どんなヤツ…人なんだ」
そう問いかけると年嵩の女官が柔らかく笑む。
「繊細でお優しい方です」
「…そうか」
「美しいお姿は初代王の写し身とも言われていて、神の加護を受けた深い蒼の瞳をされています」
もっと頭が良いとか、為政者として威厳があるとかいう言葉が出てくると思ったケイは肩透かしを食らった気分になる。クーデターが起きたばかりなのにそんなんで王としてやっていけるのか、と思ったが、女官たちの様子からして人民から愛されているのだろう。
戦などせずケイの故国とも和平や交易が盛んになって、うまくいけば自分もいつかまた故郷の土が踏める日が来るかもしれない。
そんな希望が湧いたケイは、その夜、この国に来てから初めて朝まで熟睡できた。
■
翌日は朝から女官達に花の浮かんだ風呂で磨き上げられた。
神の身代わりでもある王と謁見するには沐浴して身を清めないといけないらしい。
女官たちにされるがまま、ゆったりとした白のシルクの衣装を身に纏うと、額、耳、首、手首、足首に飾りがつけられた。ケイの肌に冷たい金属がひやりと当たる。
「ケイ様、お美しいです」
「……どうも」
最後に頭から白いヴェールのような薄布を被ったケイは適当に返事をする。
女でもないのに美しいと言われても嬉しくはない。つけ慣れないアクセサリーがシャラシャラと音を立てることに眉をひそめるも、金は魔除けなので正式な場では着用が義務だと言われれば黙るしかない。
準備が整ったケイは、導かれるまま長い廊下を歩いて玉座の間へと向かう。
大きな扉が開くと陽の光が天井から差し込む明るい室内に大勢の人間が見えた。この国の王侯貴族たちだろう。
不躾な視線を一身に浴びながら真ん中の赤い絨毯の上を歩いて、天井から布が垂れ下がった祭壇のようなものの前に座るとケイは頭を垂れる。
「北の国よりの来客、ケイよ。これから王のお言葉がある」
朗々とした張りのある声は、先日会った宰相のものだった。
沙汰を前にケイの握った拳に汗がにじむ。
「…ご苦労だった、北の国から来たものよ」
想像していたよりも高く幼い声に驚く。
「面をあげよ」
ゆっくりと顔を上げて前を見据えると、祭壇の布をくぐって階段を降りてくる小さな影が見えた。
「戦は終わった。両国の懸け橋となる客人として、この国でゆるりとすごせ」
そこにいたのは昨日出会ったばかりの小さな子どもだった。
昨日の怯えたような表情とは打って変わって、凛とした王族としての佇まいを見せていることに驚いたが、流石は王と言うべきか。
「…王の寛大なお言葉を賜り、身に余る光栄にございます」
そう言って再び頭を垂れたこの時のケイは、光の中で再会した子供と長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
■
王との謁見が終わり、部屋に戻って寛いでいたケイのところへ女官が走ってきたのは、夕餉も湯浴みも終わった頃だった。
「おっ、王がこちらへお渡りになられます!」
その言葉に驚いた女官達は慌てて部屋を片付け、香を焚き、湯上がり姿のケイをひん剥いて上等の布を着せる。
なんとか体裁が整った状態で床に額を付けた体勢で待っていると、数人の足音がした。
「じゃまをする、顔をあげよ」
こちとら疲れてんだ、本当に邪魔すんなよ。とは言えず、ガキ…お子様な王の言葉に従ってゆっくりと顔を上げた。
昼間とは違い、すこしゆったりとして装飾の少ない服を着たガ…王の顔を見ると、やはり疲れた表情をしている。
それはそうだろう、大勢の家臣や国民の前で儀式をやり遂げるだけでもこの歳の子供には酷なことだ。
疲れているなら部屋でさっさと寝れば良いのにと思いつつ、ケイはにっこりと余所行きの笑顔を貼り付けて口を開いた。
「大いなる神の祝福を受けた偉大なる王、ハルカ様のご来訪ありがたく存じます。また私の様な者へのご厚情も誠にありがたく、恐悦至極でございます」
ケイの口上に子供の王を囲む家臣たちが感心したように声を漏らす。
この国の作法を勉強しておいてよかった、と胸を撫で下ろしたケイの耳に「皆のもの下がれ、このモノとふたりで話がしたい。今宵はここで休む」というセリフが聞こえ、驚きのあまりケイは目を見張る。
渋る家臣たちを黙らせて女官達と一緒に部屋から追い出した子どもは、ズカズカと部屋の中へと歩を進めるとソファにどっかりと座り込んだ。
そして床に伏したままのケイに向かって「こちらへ来い、許す」とこれまた偉そうに宣うものだから、ケイは(何が許す、だ。クソガキが偉そうに)と心の中で悪態をつく。しかし仮にも一国の王にそんな事は言えないので、作り物の笑顔を貼り付けたまま立ち上がり、ハルカの横に一人分の空間を開けて腰掛けた。
「…困ったことや、足りないものはないか」
「はい陛下。大変良くしていただいております」
「何かあったら言うように…我が国はお前を粗末には扱わないと誓う」
「ありがたき幸せにございます」
まだ幼いながらも王らしくあろうとするハルカにケイは思わず吹き出しそうになるが、なんとか我慢する。
「あの…」
「なんでしょうか?」
とっとと寝るなり俺を解放してくれ、と願いながら笑顔を見せるも、ハルカは不満げに唇を尖らせている。
「もっと普通に話してほしい」
「は?」
「この前、庭で会った時みたいに話したい。ここには僕とケイしかいないから…ダメ?」
急に王様の皮を脱いで子供に戻ってしまったハルカにケイは呆気に取られる。
「…っくくっ…」
「な、なんで笑うの!?」
「いや、ふふっ、王様が夜にやってきて何を言うかと思ったらっ、ハハッ…」
「わ、笑わないで!」
堪えきれず笑い声を上げてしまったケイだが、ツボに入ってしまいなかなか笑いを止められない。
ひとしきり笑って溢れ出た涙を指で拭ったケイが横にいるハルカを見ると、眉を寄せて頬を膨らませていた。すっかり拗ねてしまったらしいハルカにやれやれ、と肩をすくめたケイは「笑って悪かったよ、王様」と優しく声をかけた。
「王様、じゃなくて。ハルカ」
「わかったよ。ハルカ様」
「様もいらない」
ハルカの真剣な表情にケイは思わず口を噤む。
玉座の間での面会の後に女官たちにこの小さな王について尋ねると、先王のやり方にいち早く異を唱えたハルカの父や年の離れた兄は何年も前に国外に追放され、生母もクーデターの動乱で城を出て、父や兄のいる国へと向かったこと。ハルカ自身は城下町にある乳母の家で匿われていたところ、初代王に似ている外見や口うるさい外戚がいないところを見込まれて王に祭り上げられたことを聞いた。
幼くして親兄弟と生き別れ、王として健気に勤めを全うしようとするハルカに国に売られたような自分の境遇を重ねたケイは、その艷やかな黒髪を撫でる。
「じゃあハルカ。俺の事はケイと呼べ」
「!うん!ケイ!」
素直に喜びを表すハルカに頬を緩めたケイは、ハルカに向かって右手を差し出して、その小さな手を握った。
「俺の国の友好的なことを示す挨拶だ。握手っていう」
「あくしゅ…」
「ハルカ、俺がここに来て初めての…友達第一号になってくれるか?」
そう告げると、ハルカの丸い頬がバラ色に染まる。
「!うん!ケイと友達になる!!」
きつく手を握り返したハルカの可愛さにケイが微笑むと、ハルカの頬がさらに赤くなる。
そしてふたりはどちらからともなく、互いの事を話し始めた。
ハルカは勉強や剣技が苦手なこと、ハルカの家族はケイの国の近くに今はいて手紙のやりとりができるようになったこと、ハルカが立派な王になったら呼び戻せること。ケイも乞われるままに故郷では雪が降る話や母の話をしてやると「ケイも母さんと離れてさみしいな?」と言って小さな手でケイの頭を撫でてくれた。
その優しさに、この子が王に選ばれた理由がわかった気がして「ありがとう」と心から告げる。
一刻ほど話をしたところでハルカのまぶたが重くなってきたことに気づいたケイは、腰を浮かせた。
「じゃあそろそろ寝るか」
「え?も、もっとケイと話したい」
可愛らしいおねだりに苦笑するも「また明日も話せるだろ?睡眠不足だと健康にもよくない、
チビのままでいいのか?」とケイがからかうと、ハルカは慌てて首を横に振った。
その様子に満足したケイはハルカの小さな体を横抱きにして寝室へと向かう。
「は、離してよ!自分で歩ける!」
「はいはい。オレより賢くて強くて大きくなったらな」
そう言って寝室のドアを足で開け、広々とした寝台にハルカの体を横たえると、ケイもその隣に自身の身体を滑り込ませた。
「一緒に寝てくれるの?」
「もちろん。残念ながらここには寝台がひとつしかないからな」
「うれしい…母さんの…寝台だ」
そう言われてケイはハッとした。初めて庭で出会った時も、この部屋やこの部屋にいるケイにやたら気にかけるのも母の姿を思ってのことだろう。
目を少し潤ませながらも涙をこぼさないように堪えている小さな王に胸打たれたケイは、その小さな額に口づけを贈る。
「!!??け、ケイ!?」
「…?なんだ?」
慌てふためき顔を赤くするハルカに首をかしげたケイがどうしたのか聞いてみると、接吻は愛し合うものしかしないのがこの国の習わしらしい。
「それは悪かったな。オレの国ではキスは挨拶なんだ。忘れてくれ、もうしない」
そう言うとハルカは「しないとは言ってない!」と言うやいなやケイの胸ぐらをつかんで、唇に触れるだけのキスをする。
「これでおあいこだから!!」
茹でダコみたいな顔をして威張る小さな王に、ケイは「わかったよ」と言って布団をかけてやる。
「おやすみ、ハルカ。良い夢を」
そう囁いてとんとん、と手で身体をさすってやると、ハルカの美しい黒い瞳が閉じて穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「寝顔はやっぱりガキだな」
かわいらしい願いを眺めながらそう独り言ちたケイは、自分も眠りにつこうと布団に潜り込む。
他人の温かさに触れるなんて何年ぶりだろうか。
自分はただの人質としてこの地で無為に過ごすことになっていたはずだが、少し事情が変わった。
この幼く小さな王に、自分の知識や技術を与え、立派な王にしてやりたい。
不思議とそんな気持ちが湧き上がってきたのだ。
ただの同情か、気まぐれなのかはわからない。しかし。そんな気持ちにさせる力がハルカにはあるのだろう。
地図を見ながら世界を教え、語学、政治、天文、社交儀、礼に対人心理。
教育係はすでにいるだろうが「友人」としてできる限りのことを伝えよう。
そう決めたケイはゆっくりと微睡みの中に落ちていった。
(つづく)