ロストパラダイス 思えば、日々の生活の生活をすべて投げ捨ててしまいたいとふと願ってしまったことすら、運命の導きだったのではないかと思える。地下奥深くに繁栄した忘れ去られた都市、ロストガーデン。その一角に存在するトロニスという組織が所有する一室。そこだけがセイジの世界だった。明くる日も祭壇の上で祝詞を述べ、そこに住まう人々からの信仰を受ける日々。いつの日か、地上に蔓延したサブスタンスの穢れが取り除かれ、太陽の光をその身に受けるため。セイジは日夜、始祖様の声を聞き、祈りを捧げ続けるのだ。しかし、いつの間にかその当たり前の毎日が苦しいと感じるようになった。人々の救いを乞う声も、何者かの後悔の呻きも、すべて投げ捨ててしまいたいと願うようになった。その日はひときわ多くの声が聞こえてきて眠れず、セイジは身体を起こした。目を閉じてもやけに声が大きく聞こえて、寝返りを打ったと同時に目に入った扉の向こうが気になった。それは閉じられた世界の向こう側を見て見たいという、ほんの一握りの好奇心だった。人々が寝静まり、往来がなくなる瞬間、セイジはひとり部屋を飛び出した。何の気もなしに、ほんの一瞬世界を見て見たいと思っただけだ。その気まぐれな行動が、セイジの未来を変えてしまうことすら気づかず、純粋に。
教会の中とは異なり、ロストガーデンの街並みは眠ることがないようだ。ギラギラと輝くネオンのまぶしさに居心地の悪さを覚える。しばらく歩いてからネオンから逃げるように、セイジは手ごろな路地裏に滑り込んだ。立っているのも苦しくてゴミ箱の陰に身をひそめると、がたりとゴミ箱が大きく揺れた。思いもせぬ衝撃にセイジは思わず声をあげる。しかし、それは叶わなかった。何者かの手のひらを押し付けられ、セイジの声はくぐもって空中に消えてしまった。
「しずかに」
すこし掠れたその声は心地よくセイジの鼓膜を揺らした。優しくも強い意志を持つ声はまるでいつか本の中で見た湖畔に浮かぶ月のようだとセイジは思った。その声はセイジの困惑を他所に続ける。
「だめだ、もう動けない」
次第に手のひらから力がなくなり、その人物は座り込んでしまう。それと同時にお腹の虫が鳴きだした。
「お腹、空いているの?」
声の主はこくっと頷くとそのまま体を丸めてしまった。声の正体はセイジよりも少しだけ小さな背丈の青年だった。ブルーグレイの毛先がネオンの光を受けて柔く輝き、青年の顔を覆っていた。
「これ、よかったら」
夕飯に残していたひとかけのパンを差し出すと、青年は躊躇いもせず口に放り込んだ。顔を上げると同時に現れた黄金の瞳があまりにも美しくて、セイジは身動きが取れなかった。
「ありがと」
それだけを残すと青年は立ち上がり、立ち去ろうとする。なんだかそれが惜しくて、セイジは青年の袖を捕まえた。同じほどの背丈と会話をするのが久しいセイジは、言葉を上手くまとめることが出来ずにまごついた。
「まって、あの、君は……」
袖を引かれた青年は、少し面倒くさそうに立ち止まる。
「おれは、ニコ。パン、ごちそうさま。」
ニコ。名前を聞くだけでセイジの心はざわついた。
「僕はセイジ。セイジ・スカイフォール。ねぇニコ、また明日も会えるかな。」
セイジは何とかまた会いたくて、言葉をつづる。
「……分からない。」
その言葉にセイジはわかりやすく落胆した。少し溜息すら漏れていたのかもしれない。それを見てか、申し訳なさそうにニコは目をそらした。
「でも、気が向いたら、また来る。」
セイジは感情が顔に出るたちのようで、今度は嬉しそうに頬をほころばせた。
「また、パン持ってくるね!」
澄んだ青空のような瞳が、ニコを貫いた。その無邪気な瞳にニコは頷くことしかできなかった。
ニコは昼なのか、夜なのかわからない天井を眺めた。この場所はどうにも風通しがよくない。そのうえご飯もおいしくないと来た。だから、昨晩のうちにこのロストガーデンを出ようとしたが、空腹の末に動けなくなってしまった。そして一人の青年、セイジと出会った。それにあの青空を映したような瞳に逆らうことができず、また会う約束をしてしまった。気が向けば、と答えたが、果たしてあんな深夜に再び来ることはあるのだろうか。
再び同じ路地に足を運ぶと、真夜中を表したようなマントをまとった影がすでに佇んでいた。ニコの気配に気が付くとその影は音もなく駆け寄る。
「ニコ、来てくれたんだね!」
真っ暗なマントから覗く青空が輝く。ニコは口下手で、誰かと会話をすることが苦手だからこの手の人間が得意では無い。本当は約束をにしてロストガーデンから出るつもりだったのだ。しかし、昨晩のあの笑顔を思い出す内に気がついたらこの場へと足を向けていた。
「約束、したから。」
表情と違わず、セイジは嬉しい!と口にする。それから、おもむろにマントの中を探り、ニコにパンを差し出した。
「お前は、食べないのか?」
ニコの言葉にセイジは少し考える。
「うーん……僕は食べてるよ?でも、あんまりお腹空かないから。」
このロストガーデンでそんな贅沢な言葉が言える立場があるのだろうか、とニコは考えた。見たところ服装も華美なわけでもなく、ごく平凡な出で立ちをしている事から裕福な家庭の出身ではないことは明らかだ。
「それより、お腹すいてるでしょ?どうぞ。」
ニコにとって、この世でいちばん悲しいことは空腹であることだと思っている。