is here リビングでは二日酔いのメンターだけがソファに横になっていた。イエローウエストの研修チームにとってはよくあること、風景の一種で、フェイスは黄色のソファと一体化しているキースの目の前を素通りし、Uターンしてメンター部屋を覗き込み、シャワールーム、洗面所、一応はキッチンカウンターの裏側にも回った。
ジュニアの不在は知っている。朝も早いうちから元気に部屋を出ていく音に目を覚ましながらも、フェイスはそのまま二度寝を決め込んだ。全員揃っての休日、各々の予定も特に聞き出してはいなかったけれど――
「あー……ディノなら下にいるぞ、下に」
酒に焼けて嗄れた声は弱々しくも呆れを含んでいた。確かに二日酔いではない方のメンターの姿が見えないことを不思議に思ってはいたが、急を要していれば最初からキースを叩き起こしている。フェイスは何でもないといった口調で問いを返した。
「下って?」
「搬入口。荷物が多すぎて、本当にアイツが注文したものかどうかと……危険物の有無を確認してからじゃなきゃ運べねえって、ジャックが……」
ジャックが、の後に続いたであろうキースの言葉は、胃のあたりから迫り上がってきたらしい不快な衝動とともに飲み込まれていった。フェイス自身もアルコールはごくたまに口にするようになったが、こうなるまで摂取する理由や意味はわからない。キースは咽せたせいで余計に掠れた声で、水、と弱々しく唸り、上司のあまりの醜態に呆れよりも哀れみが勝ったフェイスは、お望み通りミネラルウォーターのボトルを運んでやることにした。
「ディノ、いつ頃戻ってくるのかな」
「大量の度合いが想像できねえうちから、アイツをすんなり部屋に入れてやるつもりか?」
フェイスの施しによっていくらか回復したキースの喉が、今度はげんなりした音を出した。何をそんなにたくさん購入してしまったのかは予想もつかないが、ディノの申し訳なさそうな顔は目に浮かぶようだ。
「まあ、いつものことだしね。また俺たちのために良かれと思って、便利グッズか何かでも買っちゃったんじゃない?」
「っとに、甘いっつうか何つうか……用事なら、電話くらいは取れるんじゃねえの」
「別に、何もないけど」
フェイスが答えたあとにあったのは少しの沈黙だった。変なことを口走った覚えはないというのに、キースの眉根は段々と中央に寄っていく。その口は珍しく慎重に、言葉を選んでいるように開閉していた。
「何?」
「あーいや……何つーか、アレだ、アイツは結構……大変だと思うぞ」
「何が?」
大量の購入品についてだろうか。その話は直前に済んだはずだ。二日酔いがたたって記憶能力に難でも出てきてしまったのかと、フェイスは再び聞き返す。対するキースもしばらくの沈黙を繰り返してから、諦めたように口を開いた。
「……好きなんじゃねえの?」
「……は? 誰が何を?」
質問に質問で返したのは、キースの問いに足りない部分を補うためだ。けれど、気まずそうにしているキースの言わんとすることは文脈から薄ら感じ取れた。フェイスが用もなくディノの姿を探し回ったことが事実でも、そこから導き出す答えにしては突飛すぎる。フェイスはキースの返事を待たずに反論に転じた。
「いや、さすがに意味がわからないんだけど。どうしてそうなるわけ? まだ酔っ払ってる? 量と回数を減らしたところで定期的にそういうふうになっちゃうなら意味がないよね」
「お、おお……落ち着け、オレが悪かったから」
「落ち着いてるけど。俺が動揺してるって思いたいだけでしょ? そういうの、悪趣味って言うんだよ」
「わかった、わかった。悪かったって」
キースはどこかが痛そうに目を瞑り、スウェットのポケットをまさぐった。数枚の紙幣を握りしめた手をフェイスに差し出す。
「ほら、これでココアでも買ってこい、な」
「子供じゃないんだから……」
ふと言葉を区切る。子供ではないのなら、無礼に対して食い下がるよりもここで手打ちにしてやる方が良いかもしれない。渋々皺の寄った紙幣を受け取り、ほっとしたような顔のキースを最後にひと睨みする。
「それ、ディノには言わないでよね」
「言わねえよ……つーか言わなきゃ良かったと思ってます」
さっさと行ってこい、というジェスチャーさえフェイスの神経を逆撫でする。本格的に頭を冷やした方が良いことは自覚しているが、それをキースから暗に示されるのも気に食わない。基本のスタンスが似通っていても、こういうところは相性が最悪だと思う。お互いに、図星を突き合うような性格だからだ。
部屋を出て長い廊下を渡り、エレベーターの下りボタンを押した。軽い音が到着を知らせ、中へ乗り込み、扉が閉じる。最近は暖かくなってきたのだし、ココアはアイスでもいいかもしれない。エレベーターにはフェイスのほかに誰も乗っていない。冷静になるにはちょうど良い空間だった。
「図星……」
己の呟きを合図にしゃがみ込み、膝の上で組んだ両腕に顔を埋める。よくよく考えなくても、あまりにもむきになりすぎた。むきになったということは、つまりそういうことで、キースはそれを見逃すほど鈍くはない相手で――握らされた紙幣の合計金額は、タワー内でココアを買うには多かった。二、三時間は戻らないと予想したのかもしれない。たとえブルーノースでお気に入りのガトーショコラを堪能させてもらったとしても、フェイスの気持ちが落ち着くとは思えなかった。恋心を指摘されたからではない。指摘されるまで恋心に気が付かなかったことによる羞恥心で、頭がどうにかなりそうだ。
「……ああ、もう」
行き場のない感情が、意味のない言葉として声帯を通り抜けていく。そのうちにエレベーターは一階まで降り切っていた。軽い音がしたあとに、扉が開く。ここまで誰も乗り込んでこなかったことを幸運に思いながら、さすがに立ち上がろうと足の裏に力を込めたとき、フェイスの頭上から声がかかった。
「あれ? フェイス?」
幸運は尽きてしまったようだ。驚くディノと目が合って、フェイスは立ち上がるタイミングを失ってしまった。エレベーターの扉が閉まりかけるのを、ディノの手が押さえた。
「どうしたんだ? 具合でも悪い?」
「だ……大丈夫、なんでもないよ」
フェイスは慌てて扉の間を抜ける。ディノも一歩下がった。
「本当に? ちょっと顔が赤い気がするんだけど……」
「ああ、うん、今日は暖かいし……冷たいものでも飲みに行こうかなと思って。ディノは? 荷物の整理、終わったの?」
体調に問題はないと証明するように貼り付けたフェイスの笑顔をディノはしばらく訝しんでいたが、荷物については概ね判別が済んだとの答えが返ってくる。花粉症対策用のマスクを、タワー内職員に配っても余るほど購入してしまったらしい。
「――マスクならより質の良いものを備品で用意していマス、って怒られちゃった」
「そ、そう……まあ、消耗品ならいずれはなくなるだろうし、役に立つんじゃない?」
「フェイス……! そうだよな、みんなにたくさん使ってもらおうっと! それで? フェイスはこれからどこに行くんだ?」
「あー、えっと……」
ディノの話を聞いているうちは落ち着いていたフェイスの心臓が、再びよくわからない動きを始めた。自分が目覚めてすぐに視界に入れたがった存在を意識した途端に、今までできていたことがままならなくなるのだから驚きだ。けれどキースは言っていた。「アイツは結構大変だと思うぞ」と。
その通り、何も知らない朗らかな青色がフェイスの姿を映している。今更慌てふためいても仕方がない気がして、フェイスはひとつ息をついた。
「散歩がてら、『アンシェル』に行こうかなって。ディノもどう? 理由は言えないけど、キースから臨時ボーナスも貰ってるし」
「ええ、気前がいいな……? もちろん付き合うよ、着替えてくるからちょっと待ってて!」
エレベーターの上りボタンを二回も三回も押しながら、ディノが足踏みする。部屋のソファと一体化している男については追加の水を与えておくよう伝えておいた。
存外普通に会話ができたことに安堵しながら、きっとそれなりに以前からこの想いを抱えていたのだと腑に落ちる。見るに見かねたのであろうソファ、もとい上司には二日酔いに良さそうなものを見繕って帰ることを決意し、罪悪感とけりをつける。
ディノが戻るまで十五分程度だろうか。エントランス一面のガラス窓から、遠目にだが外の景色を眺めることができる。これから二人で歩く道を照らす陽の光が、春の訪れを祝うように瞬いていた。