初めてのホワイトデー『本当の美味な菓子がどういうものか、来月見せてやる』
今となっては、何故あの様なことを言ってしまったのか。中身はとっくに無くなったが、包まれていた袋をどうしても捨てられずふと眺めてしまう。
「ふん……」
様々な店の高級菓子を調べたが、どれも納得いかない。脳裏に、手作りとはっきり解る不格好な星のクッキーが過る。絶対店の味では無い筈なのに、何時までも甘く胸元を温めた。何もかもが初めてで、経験に無い感覚に応えるには。
「全く、仕方あるまい……」
冷静に考えれば、どの様な店を探したところで見つかる訳が無いのだ。完璧な美味など、日頃栄達の道を歩むこの私しか生み出せないに決まっている。
「……こんなものか」
キッチンに広がる道具、材料。あらゆる菓子の本で知識を得れば造作も無い。いざボウルと泡立て器を手に取り、早速試してみようじゃないか。
「何、テンパリングとは随分繊細だな……くっ、勝手にひび割れるな!は?ココアパウダーの量が多いだと……」
日頃から弁当も作るので料理の腕はあるが、菓子作りはまた勝手が違う。思い通りに行かない歯痒さに苛立ち、机に拳を叩き付ける。憤りが頂点に達した頃、漸く口角を上げられた。
「ふ、英才たる私に立ちはだかるとは……今に見ていろ」
この私に不可能など存在しない、余りある才能と努力で捻じ伏せてやる。ボウルを湯に浮かべ何度も繰り返し感覚を掴むうち、隣の席に居る長身の大型犬が不意に浮かんだ。
そもそも、何故お前などの為に。特段動く理由など無いと投げ出したい感情が現れたが、私がクッキーを食べた瞬間の眩い笑みがこびり付きチョコレートを溶かし続けるしか無かった。
「……では鍾会殿、部活がありますので……」
さっさと渡してしまえば良かったものを、何を躊躇うことがあったのか。気付けば放課後になっており、教室に残るのは私と隣の奴しか居ない。通学鞄を抱き込み、此方を横目で見ながら話しかけてくる。このまま、何も無かった様にする訳にもいかない。何故か心音が鳴り響き、鞄に仕舞ったままの箱へ手を伸ばせなくなる。沈黙が、続く。何故この私が、こんな想いをしなければならないのだ。先月のお前も、この感情を抱えて走ってきたのだろうか。急に悔しさが込み上げ、意を決し鞄に右手を突っ込んだ。
「待て、文鴦」
「はい……!」
背筋を伸ばし、此方に身体ごと向けてくる。何故だ、直視出来ない。お前を恐れるなんて、馬鹿げている。それでも、顔は黒板に向けたまま箱を伸ばすのが精一杯だった。
「先月言ったこと、覚えているな」
「は、はい……勿論です!宜しいのですか」
「この私が施してやるんだ、感謝しろ」
強く箱を掴む感覚が伝わり、心音が更に弾む。漸く視線は向けられると、両手で握り締めたまま表情を輝かせていた。
「ありがとうございます……開けても宜しいですか」
「好きにしろ」
私が選び上品に纏めた包装が解かれ、大きな掌が恐る恐る蓋を開くのに胸が騒めく。瞬間、瞳に幾千かの星が瞬いた。
「……素晴らしいです、何方の店のものですか」
「何を言っているんだ、そんなもの売っている訳無いだろう」
「え、では……」
発言につい苛立ち、頬杖を付く。
「本当の美味など作れるのは、この私に決まっている」
私が誇る最高の色艶、滑らかさを持つチョコレートの粒が並ぶ。お前などの為に此処までしてやったんだ、どこぞの品と一緒にするな。表情に驚きが滲むと同時に、見たことが無い程。
「……嬉しいです、鍾会殿」
一層星の輝きを増した、柔らかな笑みで。ただ勘違いして欲しく無かっただけの筈なのに、鼓動が激しく脈打った。
「あの、一口戴いても……」
「どうぞ」
応えれば、指先で一粒を口元へ運ぶ。称賛の一言くらい無ければ許さないと思っているのに、少し身体が強張るのが憎らしい。噛み締められた途端、此方の視線が釘付けになった。
「……凄く、美味しいです……」
寄りによって、何て顔をして言うんだ。頬を染め、何よりも嬉しそうに伝えられたら此方も体温の上昇を抑えきれない。
「……ふ、ふん……当然、ですよ」
もっと褒められて称えられるべき、と思っていたのに。たった一言だけで身が保てず、髪を捻って視線を外すしかない。ところが文鴦は再び蓋を手に取り、丁寧に鞄へ仕舞い出す。覚えていたから、ずっと隣で名残惜しく待っていた癖に。
「何だ、もう良いのか」
「はい」
何時もの大き過ぎる弁当さえ、すぐ食べ終わるだろ。首を捻ると、伏せた瞳を鞄へ向けたまま。
「無くなってしまうのが……勿体ありませんので……」
愚直過ぎて、ほとほと呆れる。この私を、何処まで掻き乱せば気が済むのだ。眩さに瞼を瞑り、胸から熱くこみ上げて。
「べ、別に……また作ってやらなくも無い」
何故余計な言葉が、口に出るのだ。早速一片の曇も無い、澄んだ微笑みを浮かべられてしまう。
「本当ですか!?嬉しいです……私もまた作って来ます!では、本当にありがとうございます!」
何処までも、忙しない奴だ。踏み出す脚を弾ませ教室を駆け出して行く背へ、不意に気が緩み言葉が零れる。
「……ふん、精々頑張るんだな」
私の、『特別』にして欲しいのなら。