冬の寒さに書いた文字冷え込みの厳しいある冬の朝のこと。
「さむっ。」
家入はぶるりと身震いをしながら、古びた校舎の廊下を歩いていた。窓から見える空は鈍色をしていて、今日の午後から雪の予報が出ていたことを思い出した。気象予報士の話が本当ならば、それなりの積雪になるであろう。彼女は雪が積もって喜ぶような子どもではないので、邪魔くさいな、と思うだけであった。
教室が近付くにつれて、聞き慣れた喧騒が耳に届く。たった二人しかいない同級生が、また何やら騒いでいるらしかった。
半開きになった扉から中を覗くと、案の定夏油と五条が言い争いとまではいかぬ口喧嘩を繰り広げていた。
「いちいち突っかかってきて君は本当に鬱陶しいな!」
「鬱陶しいのはお前のワケ分かんねー前髪だろ!」
家入は最早二人に興味すらなく、騒がしいその横をすり抜けて自分の席に着いた。
空模様の方が気になり窓の方を見遣ると、今回の喧嘩の原因であろうものが目に入る。
それは、室内と屋外との温度差で生じた、結露を利用した文字。
白く曇った窓に『すぐる』『ブス』『バカ』『ゴリラ』と指で書いた跡があった。
(また五条がくだらないことをして夏油をからかったのか。)
家入は五条が誰よりも早く教室に来て、夏油のことを考えながら指で窓に落書きをしているところを想像した。
それは、最早。
(『大好き』って書いてるようにしか見えないけど。)
そう思ったが、彼女はお節介焼きな性分ではないので何も言わなかった。
欠伸を噛み殺しながら担任の教諭が来るのを待っていると、出入り口からひょいと後輩の七海が顔を覗かせた。少し困惑しているように見える。
「夏油さん、補助監督の人がお待ちですが。」
七海は夏油の背中に声をかける。
それに夏油はバッと振り返り、「しまった、もうそんな時間か!」と慌てた様子を見せた。そして家入の方を向く。
「すまないけど硝子、今日の分のノートを取っておいてくれるかい?それを伝えに来てたのに、馬鹿に絡まれてすっかり忘れていたよ。」
夏油は今日は朝から七海と共に埼玉県での任務の予定があり、本日の授業のノートを家入に頼みにわざわざ教室へと来たのであった。
だが扉を開けると待っていたのはニヤニヤ笑う五条と窓に書かれた幼稚な暴言。彼女は優等生に見えるが頭に血が上りやすく、本来の目的を忘れてつい目の前の喧嘩を買ってしまったのであった。
「ごめんね、七海。行こう。」
急に視界から無き者にされた五条は面白くなく、「馬鹿はおめーだろ」とか「おいシカトすんな」とか喚いていたが、夏油は七海を伴い全てを無視して教室を出て行った。
廊下まで追いかけて言い放った五条の渾身の「ブーーース!!」にも、決して振り返ることはなかった。
家入はそのレベルの低さに、溜め息すら出なかった。夏油に頼まれた通りにしっかりノートを取ろうとペンケースを出して授業の準備をしていると、不意に五条が隣りの隣りの席から声をかけてきた。
「なぁ硝子。傑の分のノートは俺が取るからいいよ。あのクソ女に恩売ってやんだ。」
そう言って五条はニカッと笑う。家入は「お前のノートは受け取らないんじゃない?」とは言えず、曖昧に頷いた。
その日の五条の授業態度は非常に良く、真面目に板書をノートに写す姿に夜蛾も感心していた。
が、
案の定、五条のノートを夏油が受け取ることはなかった。
五条がドヤ顔で差し出した青い表紙のノートは「何?ゲジゲジでも挟まってるの?いらない」と心底嫌そうな顔をされ、手に取ってすらもらえなかった。完全に自業自得である。
夏油が立ち去ったあとの五条は大荒れで、ノートを床に叩きつけて地団駄を踏み喚き散らしていた。
「素直に受け取れよ!可愛くねぇな!」
それを見かねた心優しい庵と怖いもの知らずの灰原が彼に声をかける。偶然近くにいた家入と七海も何故か巻き込まれ、一緒に談話室へと連れて行かれてしまった。
「……と、いうわけでして。」
家入から詳しい話を聞き、事情を知った庵と七海は「あー……」という顔で揃ってこめかみを押さえた。五条は椅子にふんぞり返るようにして座り、唇をへの字にひん曲げている。ぶんむくれといった様子である。
「なるほど、五条さんは夏油さんが大好きなんですね!」
空気を読まない灰原が、眩しいくらいの笑顔でそう言った。
「はぁ!?そんなわけねーだろ!!」
五条はガタンと音を椅子から立てて立ち上がり、灰原を睨みつけた。しかし、最強の術師にキッと睨めつけられても灰原はきょとんとするのみだった。
「え、違うんですか?」
「だっれがあんなブス女!」
「えっと、じゃあ、先週夏油さんと補助監督の男の人が渋谷で会っているのを見たんですけど、好きじゃないなら詳しく話さなくていいですよね…。お二人とも私服姿で、デートをしてるみたいに見えたんですけど。ついでに今日の任務に帯同したのもその補助監督さんだったと七海から聞きましたが……。」
庵が「灰原、全部話してるわよ」と呆れたようにツッコんだ。
「チッ、そいつ死ぬほど趣味悪ぃな!」
舌打ちをして悪態を吐く五条の背後から、何者かが「そんなことはないと思うよ」と声をかけた。
「うわっ、冥さん!?」
「ふふ、随分と可愛らしい作戦会議をしているね。」
その正体は、ミステリアスに微笑む冥であった。彼女が談話室にいつ入って来たのか、誰も気付かなかった。
「夏油くんは結構…いや、相当な人気者だよ。」
どこか愉快そうに言う冥に、五条は押し黙る。掴みどころのない彼女が相手では、少々分が悪い。おとなしく椅子に座り直して、冥の話を聞くことにした。
潮目が変わったことを察した他のメンバーも、口を挟むことはなく皆彼女の方を向いた。
「さっき話に出ていた補助監督は、現場で危ないところを夏油くんに助けられてね。それから彼女にぞっこんというわけさ。年は十歳近く離れているが、まるで関係ないと言ったような入れ込みようだね。まぁ、彼はそれなりに理知的で、しつこくし過ぎないように気を付けているようだけど。」
冥の話に七海が小さく頷いた。今日例の補助監督と一緒に行動した七海も、同じ感想を抱いたのであろう。確かに夏油への好意は感じたが、そのアピールは決して嫌悪感のあるものではなかった。
「あとは、中学時代の同級生からも熱烈なアプローチを受けているね。毎日のようにメールが来ているらしいよ。遊びの誘いはうまく断りながらも、適度に返信はしてるみたいだね。」
とか、
「夏油くんは異性だけじゃなくて同性からも慕われているようで、後輩の可愛い女の子からも想いを寄せられているみたいだね。つい先日、偶然を装って新宿駅の近くで待ち伏せをされているのを見たよ。」
だとか。
冥が夏油がどれほどモテるかを話せば話すほど、五条の眉間のシワは深くなっていった。
七海が「それらは一体どこからの情報なのですか?」と尋ねたくなった頃には、険しかった五条の顔は捨てられた子犬のようになっていた。澄み渡る青空を閉じ込めたような美しい瞳がうるうるしている。
「夏油くんには今のところ特定の誰かと交際している事実はないけど……。素敵な恋人ができるのも時間の問題かも知れないね。」
そう言った冥に、思春期の少年・灰原がやや興奮気味に言う。
「それって、夏油さんが誰かの彼女になっちゃうってことですか?」
「そうだね。」
「誰かと手を繋いでデートをしたり、キスしたり……。…え、エッチなことをしたりとかも、しちゃうってこと……ですか!?」
「ふふふ、そうかも知れないねぇ。」
「ひゃーっ!」と両手で頬を押さえた灰原を、「やめなさい灰原」と七海がたしなめる。その横で泣きそうな顔をしている五条を見て、庵はこれは好機と思い追撃をした。
善良な彼女は、五条と夏油がさっさとくっつけばいいのにと日頃から思っていた。普段から衝突が絶えないがそれは好意の裏返しで、どう見たって二人は両思いなのだから。
「そうよ五条!ぐずぐずしてたら夏油があんたの知らない誰かと、頭がフットーしちゃうようなことをやっちゃうかも知れないのよ!」
びしっと五条を指差した庵。途中から傍観者に徹していた家入が「先輩はまゆたんの読み過ぎですよ」と呟くように言った。庵の部屋には少コミが並んでいるらしい。
五条は『頭がフットー』の辺りは何のことかさっぱり分からなかったが、『ぐずぐずしていたら夏油が誰かに取られてしまうぞ』と言われたことは理解した。
五条と肩を並べて歩ける人物などは夏油ただ一人で、間違ったことをしたり言ったりしたときには厳しい態度でそれを正してくれた。同じように笑い合い、同じように喧嘩ができる相手は、世界中を探しても彼女しかいないだろう。
そんな夏油が誰かと寄り添い歩いているところを想像すると胸がズキズキと痛むし、裸で抱き合っているところなどを想像したら嫉妬でそれこそ脳が茹だってしまいそうだ。
(そんなん、絶対に嫌だ……!)
五条は皆がこちらを見ているので恥ずかしいやら腹が立つやら情けないやらで下を向きたくなったが、少しでも俯いたら涙がこぼれてしまいそうだった。
「傑を誰にも、取られたくない……。」
正直にそう言った五条の消え入りそうな声を、その場にいた全員が聞き逃さなかった。そして、皆同じようにして力強く頷いたのであった。
恋に打ちのめされ震えている彼の姿は年相応の少年そのもので、平素の不遜なそれよりもずっと好感が持てた。
「それじゃあ改めて、作戦会議を始めるわよっ!」
庵の号令で始まった『五条の告白を成功させよう会議』は、大いに盛り上がり、時に紛糾し、非常に実りのあるものになった。
「五条さんの顔の力をフルに使って本気で迫れば、さしもの夏油さんもクラッとくるんじゃないですかね?そして壁ドン、ってやつをして……。」
「なるほど。灰原、悪くはないわ。けど、少しベタ過ぎな気もするわね…。七海はどう思う?」
「速やかに部屋に帰って寝たいです。」
その秘密のミーティングが終わったのは、昼頃から降り始めた雪がすっかり止み、日付けが変わった頃であった。途中夜食を挟んだりもしながら、最終的には「そろそろ寝ろ」と注意しに来た夜蛾まで巻き込んでいた。
一方の何も知らない夏油は、一人自室のベッドの上で大の字になっていた。
(悟、純粋に厚意でノートを取っておいてくれたんだったらどうしよう。もしもそうだったら、悪いことしたよね……。)
「いらない」と言い捨てたときの、五条のひどく傷付いた表情が瞼に焼き付いて離れない。
家入に話を聞こうとしても、彼女はなかなか部屋に戻って来ない。
「今日は冷えるなぁ…。」
夏油は柔らかい羽毛布団に包まると、もう眠ってしまうかと目を閉じた。
(悟が素直にならないから、私だって素直になれないんだ。)
「傑〜っ!!」
窓の外から執拗に自分を呼ぶ声がして、夏油は目を覚ました。枕元の時計の時刻を見ると、六時を少し回ったところであった。
「傑、す〜ぐ〜る〜っ!!」
そうしている間にも、自分の名前は連呼される。他人の迷惑を顧みずにこんは馬鹿なことをする人間に心当たりなど、一人しかいない。
「うるさいな馬鹿悟!!今何時だと思……っ、…!?」
ガラッと勢いよく窓を開けた夏油は、眼下の光景に言葉を失った。
朝日を浴びて眩しく輝く一面の銀世界の中に、黒い制服を着た五条が立っている。鼻と手を真っ赤にしている彼は、こちらに向かって大きく両手を振っていた。
その足元には、
すぐる
ごめん
だいすき
と積もった雪に大きく刻まれていた。
この積雪を利用したストレートな愛の告白は、昨晩の作戦会議で決まったもの。
少女漫画マイスターの庵曰く、「ロマンチックに!でも回りくどいのはダメ!」らしい。
「傑!」
二階の窓から身を乗り出す夏油の姿を認めると、五条は嬉しそうにニカッと笑った。その髪の毛は新雪のようにきらきらと光っていて、夏油はその輝きがどんな宝石よりも美しく見えた。
「好きだーっ!!」
正に少女漫画のワンシーンのように五条が叫ぶ。
気持ちを伝えるために、彼が冷え込む早朝からこんな準備をしていたのだと思ったら、夏油は胸がいっぱいになってしまった。「恥ずかしいだろ」とか「呪力の無駄遣いをするな」とか「風邪を引いたらどうするんだ」とか、言いたいことはたくさんあったが、言葉にすべきはただ一つ。
夏油はすぅっと大きく息を吸い込むと、
「私もーっ!!」
と外に向かって叫んだ。
その声は木の上に積もった雪を振り落とし、澄み切った真冬の空に気持ち良いほどに響いた。