私の先生「何なんだ、あの女……」
今日は進路相談の筈だろう。天命館学園では二年生の春に行われる、担任からの個別面談。一年から引き続いての辛憲英先生と向かい合い、肝心の進路の話はほんの数分。まぁ私程優秀ならば口を挟まれる様なことも無いのだが、切り替わった話題が実に下らない。
『文鴦君とは、その後如何ですか?』
やれ『仲良くなられたのでしょう?』だの『ご友人との旨は胸を張って話すべきですわ』だの、駄洒落混じりに満面の笑みを浮かべながら根掘り葉掘り。ここ最近では最も疲弊した、もう何も話したく無い。
「……それで、此方に居らしたのですね」
気が付くと化学準備室の方向へ足を進め、まだ旧式とあいつが揃っていないことを見計らい扉を開ける。ローテーブルに緑茶を置かれ、少しずつ啜れば動かしたくなかった口でも言葉が奥底から湧き出て来た。
「……何故それ程、文鴦と私のことが気になるんですか」
「ふふ、げほ……それは担任として興味深いですよ……何せ、鍾会君ですから」
黒銀の混ざる髪を揺らし、またも嬉しそうに此方を覗き込んでくる。確かに私程優秀な生徒などいませんから、担任としては本望でしょうがね。此方としてはもっと、私自身を評価し称賛してもらいたい。
「ふん……尚更、私を褒めれば良い話です」
「確かにそうですが、それ以上に……先生としては嬉しいのだと思います」
私が実績を作ってやる以外に喜ばしいこととは、何なんだ。緑茶の湯気が喉を通り、柔らかく胸へ染み渡る頃に郭淮先生は再び口を開く。
「げっほ……鍾会君が『成長』してくれているからです」
「は?」
そんなもの、日々栄達の道を躍進しているに決まっている。それ以外、何があると言うのだ。
「心配だったのですよ……鍾会君がこのまま、本当に誰も必要としなかったら……と……辛憲英先生も、私もです」
私は一人で歩けた、寧ろ足手纏いが居なくて清々する。今も、その筈だった。ところが、郭淮先生の言葉で脳裏に過ってしまう。真っ直ぐな眼差しで、仔犬みたいに縋って来て。
『鍾会殿』
聞こえてくる声に、胸が熱くなるのは。嫌でも込み上げてくる感情を、吐露したくなってしまう。
「……私は誰よりも優秀なんです、他に何も必要無いのに……理解出来ない」
私より勉学も出来ない癖に、多少の身体能力と長身ぐらいしか取り柄がない癖に。私を苛立たせるのに、放っておけないなど有り得ない。それでも、考えてしまった。
私がお前の一番でなければ、許さないと。
「けほ……良いのですよ、沢山考えてください」
優しく言葉が胸に滲み、全身へ静かに巡る。
「……貴方が自身では無く、『誰か』について考えてくれたことが……喜ばしいのですから」
私は、私が居れば良かった。考える隙間が無かった。私だけの完璧な世界に何時しか入り込まれ、これ程戸惑ったことは今まで無い。
崩されていくのに、近づいてしまう。これまでより何故か色鮮やかな景色が、広がっていく。
「……それ、本当に良いことなんですか」
「勿論です……知識を得られる機会が、鍾会君は何よりお好きでしょう?」
当然の様に零れた笑みで、思わず眼を見開いた。言いたくは無いが、怖かったのだ。変わることが、私の信じた世界が壊れることが。それでも良い、栄達の道には選ぶべき分岐点もあるのだろう。私が進む道こそ、正しい世界の筈だ。
「当然です、私は誰より努力していますから」
脳裏を覆っていた靄が、少しだけ晴れたのを感じる。昔から子供というだけで見下してくる大人など、信用出来なかったのに。すると突如、白く細長い指先が私の前髪へと伸びて来る。
「げほ……ええ、鍾会君は本当に努力していますよ……お若いうちに沢山考えて、悩んで良いのです……必ず、貴方を良い答えに辿り着かせてくれますから……同じ様に、文鴦君も」
不思議だ、何時も私より知識もない癖に威張り散らす教師の言葉なんて聞きたくも無かったのに。この人だけは一つ一つが胸に刻まれ、撫でられた髪先から全身を温められていく。自然と、頬が緩んでしまう。
「……ありがとう、ございます」
滅多に他人へ告げたことの無い礼が飛び出し、視線を合わせられない。
「げっほえほ……私には話してくださり、とても嬉しいですよ……私の命ある限り、これからも是非頼ってくださいね」
「精々、長生きしてください」
「ふふ……有り難いお言葉を胸に、生きていきます」
今度、何か喉に良い薬でも探して来てやるか。すぐに事切れられても困りますから。私の輝かしい栄達の日々を、見届けて貰える様に。換気の為、先生が少し窓を開く。差し込む生暖かい風が髪を揺らし、薄紅が舞う。今年は遅かったな。毎年咲くものと気にも留めなかったが、瞳に映る花弁は妙に煌めいている。
「では甘いものでも食べて、鄧艾君と文鴦君の話でもしながら待ちましょうか」
「それ程話すことが無い様な……」
まぁ雑談相手だとしても、多少付き合ってやらなくはありませんけど。この私が『先生』と、呼べてしまえる人ですから。
それにしても今時、私の祖父母の家でも出ませんが。添えられた豆大福を頬張り、漉し餡の甘味につい口角が上がった。