契り「なぁ……慕情」
重たい瞼を持ち上げ、絞り出すように名前を呼ぶ声も、目の前のその顔を向けさせることはできない。だが、次の言葉は違った。
「……結婚してくれ」
思わず顔を上げた慕情は、まるで風信の顔から妖魔が現れたかのように、ぎょっとした顔で見つめた。しばし静止したのち、やっと口を開く。
「この程度の傷で正気失うなんて無様すぎるぞ」
「正気を失ってなどいない」
どこまでも真剣な顔で風信は答えた。
さっきまでの戦闘が嘘のように、あたりは静まり返っている。
簡単な任務のはずだった。
二体の妖魔の討伐。等級からいって、一人一体ずつ片付ければ良いだろうと二手に別れた。風信が相手にした方は多少すばしっこかったが、相手の急所を素早く見抜き、寸分たがわず命中させた矢で妖魔は雲散霧消した。だが、拍子抜けしたような気分で慕情の方を見に行こうかと思ったその途端、突然目の前に、倒したはずの妖魔が再び現れたのだ。
しまったと思った時には、妖気に満ちた鉤爪が風信の喉を切り裂いていた。よろめいて後ろの木に体をぶつけながらも剣に手を伸ばす。
だが、柄が手に触れるより早く、鼻先を何かが光陰が如き速さで横切った。冷たい怒りのような光を纏う、長い銀の刃。
ぼやけてきた視界の向こうで、長い髪を揺らす姿が、ほんの数太刀で終わらせるのが見える。風信はどさりと木の根元に体が落ちるのに任せた。
振り返った慕情がゆっくりとやってくる。
こんな失態を見て、いつものように口を歪めて嘲笑うのだろうと思いながらも、体を起こすことすらできず、風信は眉間に皺を寄せた。
一つ瞬きをする間に目の前まで来ていた慕情は足を止め、風信の首元を凝視している。その姿がぼんやりと黄色く靄がかかっているように見えて、初めて風信は自分の体が霊光に包まれていることに気づいた。思いのほか重症らしい。
やけに重い手を持ち上げ、どくどくと不気味に脈打つ首元へ近づける。だが、すっと身を屈めた慕情にその手を払いのけられた。
「触るな。首がもげるぞ」
ぞんざいな言葉とは裏腹に、その目が心配そうに揺れて見えたのは気のせいだろうか。
一瞬ためらった後、膝をついた慕情はその白い手をすっと伸ばし、風信の首元にかざした。
その途端、温かいような冷たいような不思議な感覚に包まれ、風信は目を閉じた。
ああ、これが慕情の法力か。
傷ついた神官に彼が法力を使うのは何度か見たが、思えば自分がされるのは初めてだった。
皮膚を割く傷口が癒えるのを感じるのと同時に、黒くとぐろを巻くように己の体を蹂躙しようとしていた禍々しい妖気も、強く凛とした法力の力に置き換わっていく。
うっすらと目を開けると、目と鼻の先に慕情の顔があった。自らを包んでいた霊光は薄れ、目を閉じるように落とした瞼を縁どる彼の長い睫毛がはっきり見える。思わず目を奪われていると突然その瞼が上がり、風信は急いで目を逸らした。
「勘違いするな。一緒に派遣された時に死なれたら私の立場がないだろうが」
だがその言葉には、いつもほど棘がない。
気を抜いた自分を嘲笑って去ることもできただろうに。
だが、思えば、二人で戦う時に彼は風信のことを見捨てたりはしないのだ──決して。
流れ込む法力とともに、さっきまで石を詰められたかのように重かった体が、すっと軽くなっていくのを感じた。
どれだけ言い争っていがみ合って憎み合いながらも、いつもその奥深くには信頼があるのだ。
人であっても、神であっても、数百年たっても、潰えることなく。
そのことに気づいたとき、風信の口はその言葉を口にしていたのだった。
「私の聞き間違いか? 結婚…だと…?」
あの慕情が言葉を失っているのが可笑しく思いそうになったが、ここで笑うのは得策ではないということは流石の風信でもわかる。
「ああ、そうだ」
はっきりとした声で風信は答えた。
やっと動きを取り戻した慕情の眉がぴくりと動いた。
「なるほど。あの妖魔はそんな毒を持って……」
「違う」風信が遮る。
「俺は正気だし、毒にやられたりしていない」
「は……どんな冗談か知らんが、第一、男同士だが?」
「そんなことは今はもう関係ないと聞くが?」
大真面目な風信の顔を見て慕情が片方の口の端を上げる。やや調子が戻ってきたらしい。
「さすが巨陽殿、そのあたりの世事にだけは詳しいらしい」
その呼び名にいつもなら手が出るところだが、いかんせん今はどう見ても形勢不利だ。負けじと鼻で笑って見せる。
「おかげでいつの世になっても信仰が衰えない。羨ましいか?」
慕情は無視してすっと顔を背けた。風信は真面目な顔に戻り、続けた。
「どんなに困難な時でも、大切なその相手を思い、信頼し、助け合うという契りなら、男同士かどうかなんて関係ないだろう?」
慕情は無言で虚空を見つめている。
「俺はお前になら背を預けられるし、護りたいし、護られたい。ずっと共にいたいんだ。誓いを破ったりはしない」
「お前の……」慕情が、すっと顔を向ける。「お前のこれまでを知っていてそれを信じられるとでも?」
頬を張られたように風信の表情が固まる。「それは……あの頃は、まだ」
詰るように見つめる慕情の冷たい瞳を風信は見つめ返すことしかできない。
「あの頃はまだ未熟だった。俺は……選ぶことから逃げた。でも――」
「では聞くが」慕情が遮る。
「もし今、私と太子殿下が絶体絶命の危機に陥っていたらお前はどちらを助ける?」
「それは……」ごくりと唾を飲み込む。
「太子殿下はきっと血雨……」
「血雨探花の奴も助けに来られない状況だとする」
「で、でも殿下ならおそらく自力で……」
「謝憐も身動きできず、法力も法器も無い。助けられるのはお前しかいない。さあお前はどうする?」
どんな設定だと詰りたくなる。だが感情を纏わない慕情の目が、喉元を掴む手のように風信を捕らえて逃がさない。
ついに風信は目を落とした。
「そうなったら……たぶん……殿下を」
「は! だろうな……!」
勝ち誇ったように慕情がぐるりと白目を剥く。
「違う! つまり、とりあえず殿下を安全な所にやってからお前を助ける! お前ならそう簡単に死なないだろ! なんとしても生にしがみつくはずだと知ってるから……だから……!」
「もういい!」
荒い息を吐きながら二人はぎらぎらと見つめ合った。だが慕情の方が先に目を背け、脱力したように地面に腰をおろした。
「慕情、俺は……」だが次の言葉が見つからない風信に慕情は薄く笑う。
「もし迷わずに、私を助けると答えていたら――」
風信は思わずぐっと目を瞑った。だが慕情は続けて言った。
「そうしたら、お前のことを完全に見損なっただろう」
はっと顔を上げる。
「お前がそんな嘘を軽々と吐く奴になっていたらな」
「慕情……」
「わかっている。お前はそういう奴だ。無謀でもお構いなしに両方助けようと足掻くんだろう」
慕情はさっきまで風信に法力を送り込んでいた手をぼんやりと見つめていた。
「殿下を見捨てるようなお前なんてお前じゃない。そんな奴に助けられたって嬉しくはない。迷わず助けに行けばいい」
それで自分が死んだって別にいい、と自嘲的に笑う。だが、それは違うと口を開こうとした風信を鋭い視線で遮る。
「私だって――」
その途端、その薄い唇が小さく震え、言葉が途切れる。
「わ、私だって、お前なら……」
いかなる時も揺らぐことのない玄真将軍の目が、僅かに揺れた。
「背を預けられるし……いざという時は、お前と」
途端にその声が小さくなる。
「護りあい…たい……ずっと」
風で消えてしまいそうな呟き声を風信の耳はしっかり捉え、笑みが広がる。
「それはつまり……」
「否とは言っていない!」
おそらく精一杯であろうその答えに、風信は思わず慕情の方へ乗り出し腕を伸ばした。だが慕情はすっくと立ち上がり、伸ばした風信の腕はぐいと上へ引き上げられた。
「立て、帰るぞ」
立ち上がった風信の腕を、当然のように慕情は肩の後ろへ回した。まだふらつく体を慕情に預けるように歩く。
「やられて弱気になった惨めな南陽将軍の気迷い事だったなら今なら撤回させてやるが?」
さっきの一瞬が嘘のように滑らかな慕情の言葉を聞き流す。
「馬鹿を言うな。撤回なんかしてやらん」
「だが、巨陽将軍、そういう申し出の時には、契りとして何か渡すのではないか?」
前を向いたまま慕情が唐突に言う。
「は? いや、悪いがそういう用意は」
「だろうな。まったく、弓の使い手のくせに時機を見誤るとはやっぱり惨めだな」
そんな言い方はないだろう、と眉根を寄せる。
「まあいい。貸しということにしておいてやるから、今度でいい」
思わず横目で伺う。刀を振るって戦ってから随分経っているはずなのに、薄っすらとその白い頬が染まっているのを見て、風信はこっそりと笑みを浮かべた。
自分の弓の腕は確かだ。しっかりと射貫いたらしい。
ぴたりと寄せあったその体の温もり以上に、確かな契りの証など必要なかった。