earnestness「付き合って貰っちゃって悪いね」
「いえ、こちらこそ。夕飯をどうしようか迷っていたので、誘って頂けて嬉しいです」
「そう? 俺としては、衣都にそう言って貰えて嬉しいよ」
笑い顔を浮かべた吏来が衣都の向かいの席に座った途端、スマートフォンから呼び出し音が鳴った。
「……」
鳴り続けるコールに、マナーモードにしておかなかったのは失敗だったと吏来が眉を寄せたのを、彼女は見逃さなかった。
「どうぞ、出て下さい」
「すぐ戻る。ごめん」
吏来は一旦席を立つと店外に出て、ため息をひとつ。それから通話ボタンをタップして、相手に煩わしさを気取らせないよう手短かに会話を切り上げた。
席に戻る前に、店内を興味深そうに見回す衣都の姿を遠目から観察する。
(こうして見ると、普通の子なんだけどな……)
派手だとか地味だとかこれといった特徴はなく、渋谷の街を歩いていればそこかしこで見掛けるタイプだ。なのに、共に過ごす時間が長くなればなるほど、ちぐはぐなものを内包している衣都に興味を惹かれている。
何気なく話を振っても、きちんと聞いて理解しているとわかる応対。仕事について話す時の、淡々としているようで感情がちらりと見え隠れする話し方が好きだ。表情が変わりにくいところを本人は気にしているけれど、吏来からすればそれも微笑ましく可愛く、不器用さも魅力的に思える。
プライベートの時間では吏来と話したことは些細なことでも覚えていて、職業柄、人との対話を得手としている吏来だが、それを差し引いても彼女と話すのは楽しく感じている。甘え下手なようでいて隙があるアンバランスさは庇護欲を掻き立て、同僚として以上の構いたい気持ちを強くさせた。
しかし、自他共に認める惚れっぽい吏来だが、彼女については「踏み込みNG」の指示を守って、今のところは一同僚の地位に甘んじている。
(でも、恋って落ちるものだから、理性でどうにも出来ないし)
逢が知ったら眉を顰めそうなことを考える吏来の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
◆
「この店、どう。衣都の好みに合いそう?」
「……!」
店内を眺めていた衣都は意識を散らしていたため、その声でようやく戻って来た吏来に気が付いたのか、驚いたように目を瞠る。しかし、それも一瞬のこと。いつもの表情に戻り「落ち着いた雰囲気で、素敵です」と頷いた。
彼女の年頃の女性が選ぶことは少ないであろう、クラシカルなバー。Aporiaのような明るく華やかな内装ではないが、オーセンティックバーほど敷居は高くなく、衣都を連れてくるならここだと当たりをつけていた店だ。
(気に入ってくれたみたいだな)
良かったと吏来が目を細めたその時、着信音を切っておいたスマートフォンが震えた。恐らくLIMEの通知だろうと無視を決め込むが、バイブ音が聞こえた衣都が「確認しなくていいのかな」とそわそわしているのがわかる。
「仕事じゃないから、大丈夫」
気にしないで欲しいと告げれば、衣都は困った風に眉を下げた。
「それならいいんですけど……あの、もしお忙しいなら、無理せず仰ってくださいね」
「衣都とデートしてるのに、こっち優先しないでどうするの。……で、何飲むか決めた?」
吏来の発言が引っ掛かっているのか「デート……?」と首を捻る彼女の反応は流して、メニューを差し出す。
「ええと……あまりこういうバーに来たことがないので、吏来さんのオススメを教えて頂けたらと」
この店は何を頼んでも外れなく美味しいけれど、折角なら楽しく美味しい時間だったと思って欲しい――そんな気持ちと共に、吏来から見た衣都らしい一杯を選ぶ。
「そうだな……衣都っぽい一杯目は、キティ。ああ、季節のフルーツカクテルが今は桃だから、それもぴったりだ」
「桃……」
「お、いい反応。じゃ、そっちにするか」
「はい」
◆
「衣都は今、恋してる?」
お互いに程良く杯を重ねた頃。吏来からの何ら脈絡のない問い掛けに、彼女は目を丸くした。
(その反応は、驚きからか……?)
吏来が自他共に認める惚れっぽい男だと、衣都もとうに知っていて。それでも尚、色恋にまつわる話題にふれたことが意外なのか、それとも彼女が人知れず恋をしているからなのか――理由を見極めようとまっすぐに瞳を覗き込めば、彼女もまた吏来をまっすぐに見つめてくる。
「吏来さんは、どういう時に『恋だ』って思いますか」
質問を質問で返された不快感はない。寧ろ、この歳になって恋の定義を問われたのが面白いと感じた。
(どういう時……か……)
誰かを好きだと思った時にはもう恋に「落ちている」から、こうだからと意識したことがない。
「そうだな……」
思考を整理するための時間稼ぎに前置きを零し、グラスに唇をつける。それから、遠くを見るみたいに目を眇める。
「ひと目見て欲しくなって、手を伸ばす時もある」
さらりと述べた明け透けな物言いに――話の方向性が急に変わったと、衣都が目をぱちくりさせた。
「……それは、おとなの付き合い的な」
「まあ、それなりにおとなですから」
「もしかして、さっきの電話とかは……」
「ハハ、違う違う。恋人じゃないよ。……ちょっと、色々ある相手だけど」
含みを持たせた言葉に、衣都がぽかんと口が開ける。
「あの、恋人候補の方がいらっしゃるなら、こうして私と飲んでる場合じゃないのでは……」
「うーん。多分、付き合っても半月くらいで別れるパターンなんだよね、この感じ」
「半月」
「うん」
「……付き合ってから別れるまでのサイクルが、早過ぎでは」
思わず彼女がぽろりと零した本音に、吏来は眉を上げる。
「でも毎回本気だから」
自嘲を浮かべる吏来を、衣都は何とも言い難い目で見た。
「本気なら……本気だからこそ、どんなに短いお付き合いでも、別れるのつらくないですか」
自分の恋愛観が褒められたものではない自覚がある。それなのに、衣都は真面目な顔と改まった声で心配してくれるから、こんな風に優しくされたら好きになってしまいそうだと、ふっと息を吐くような笑い声が漏れ出た。
「失恋の痛みを癒すのには、新しい恋が一番。だから、俺、いっつも恋してんの」
軽い微笑を右の頬だけに浮かべて告げると、衣都が何か考える風に唇を尖らせる。
「……あ。これだけは誤解しないで欲しいんだけど、俺は浮気もよそ見もしないし、恋人には甘えて欲しいタイプだから」
「……」
恋愛体質だけれど相手を傷つける恋はしたくはない、吏来なりのこだわりだ。しかし、それが本気なのかどうなのかと、衣都が眉をひそめた疑わしげな目でこちらを見てくるので、更に言葉を重ねる。
「割り切った関係も多いし、長くは付き合わなかったとしても、二股だけはしない」
断言した吏来の言葉を聞いた彼女は、ついと目を逸らし「そうなんですね」と呟く。その仕草が「いいな」と感じたから、敢えてそこを突き詰めてみようと思った。
「そうそう、さっきの話に戻るんだけど――どういう時に『恋だ』ってやつ」
そう切り出せば、衣都が反射的に姿勢を正した。
◆
シンプルだが拘りが窺える服装と、背筋の伸びた座り姿。テーブルに置いた手の、華奢な指。思慮深い眼差しに、品良く仕上げられたメイク。テンションの上がり下がりが少ないがぶっきらぼうではない、綺麗な言葉遣い。ふとした瞬間に垣間見せるどことなく影がある雰囲気に惹かれる男は、自分だけではないはずだ。
「食事や飲み会の時、必ず『いただきます』と言うとことか」
「……?」
「言葉を交わすと、どんな相手でも話を真摯に聞こうとするとことか」
「……」
「誰に対しても深入りしない、引き際の見極めの良さとか」
「…………」
「こんな面倒くさい男とサシ飲みして、恋バナしてくれようとしてくれるとことか。そういうちょっとしたことが自分の好みと重なって、会うのが楽しみになって『恋だ』って思うこともある」
幾つも挙げられる衣都の良さも、恋をするには充分なきっかけになるのだと――吏来が告げた言葉は、言外の意味を重く含んでいるように響く。その重さに、聡い衣都の目には困惑が浮かんでいて、その表情を引き出したのが自分だと思うと背筋にぞくりとしたものが走った。
「俺、恋愛してないと生きていられないから。ミカにも樹帆にも『気を付けて』って言われたでしょ」
「……それは、はい。言われました」
「まあ、もし俺が衣都に恋しても、衣都に好きになって欲しいとは思わないし言わないから。そこは安心して」
吏来を見つめる大きな目が、瞬く。その瞳に、意外だという感情が見て取れた。
「恋をしたら、相手にも自分を好きになって欲しいと思いませんか」
「俺が恋するのが楽しいから、片想いでも全然問題ないんだよね」
「……吏来さんの恋愛観、私にはちょっと難しいみたいです」
「そっか。じゃあ衣都は、どんな時に『恋だ』って思う」
吏来の問いに衣都は目線を左下に向け、唇を薄く開けたり閉じたりして言葉を探している。
「私は臆病ですから……誰かが求めてくれてるって実感すると安心して、そういう時に思うかも知れません」
「へえ」
消極的な対人スタンスが恋愛にまで及んでいるとなると、彼女の抱えるものは相当根が深い。「好きだ」と想われるではなく「求めてくれる」という言い方が引っ掛かり、これまでの恋愛経験がどんなものかとても気になる。
恋愛をしていないと生きていられない吏来には、衣都の受け身の恋愛観が難しい。しかし、それが悪いことだとは思わないし、いつか衣都が自分から求めたくなる誰かに出会えればいいなと思う。
「この世に生を受けたからには、やっぱり誰かを愛していたいじゃない? でも、愛することと愛されることは別だから、俺は愛していたいってわけ」
ウィンクを飛ばし冗談めかした吏来に、衣都が笑いを耐えようにも耐え切れず、笑みを口角に浮かべる。
「自分で言うのもなんだけど……今の、結構決まってなかった?」
「ごめんなさい。決まりすぎてるのが、一周回って面白くなっちゃって……」
心外だとばかり大袈裟に嘆いてみせれば、クスクスと声に出して笑ってくれる。
恋についての問答は有耶無耶になったし、衣都が恋をしているのかはわからないままだけれど、それでも言葉を交わしたのは無駄な時間ではなかったと――そう、思えた。
◆
「初めての衣都とのサシで飲みだし、記念に一枚撮っていい?」
スマートフォンを手に持って請えば、衣都は「いいですよ」とあっさり頷いてくれる。
「カクテル、美味かった?」
「とっても美味しかったです」
カメラを起動する間の雑談に頷いた彼女の口元には、揺れるような微笑が浮かんでいた。
(やっぱりこんな風に笑ってるの、いいな)
控えめながらも笑う姿は、いつもより親しみやすく見える。ふいのこの笑顔がいつでも見られる関係になれたら――浮かんだ想いを即座に打ち消して、軽口を叩く。
「自然体でいて、うん、そのまま。良い一枚が撮れそう。……この表情、俺がさせてるって思うの、クるな」
「……変な言い方しないでください」
笑みが消えると同時に、衣都の纏う雰囲気が変わった。顔立ちはいつも通りで、特段目を引くものではない。けれども、数秒前とのギャップが、吏来の心には何故か印象深く焼き付いた。
「戯言だと思って聞き流してくれていいんだけど……」
「……?」
「俺が衣都を傷つける行動は、絶対に取らない。衣都の誠実さにおかえしって言ったら変だけど……俺も誠実であると誓うよ」
「それは、さっきの恋をするとかそういう話と何か関係が……?」
唐突に誓いを立てた吏来を、訝しげに見る。
「ないかな」
「前に、吏来さんは秘密主義だと聞いたような……」
「秘密主義でも、誠実であることは可能でしょ。衣都の真面目なところも真摯なところも好きだけど、俺はきっと、その優しさにつけ込んで増長しちゃうから。自分に首輪つけとこうかなって」
「……首輪?」
逢からの「踏み込みNG」のお達しが解禁されれば、話は変わるかも知れない。それでも、吏来のエゴみたいな恋の相手にしてはいけない子だと、効くかどうかは怪しいブレーキをかけておく。
「まあ、あれよ。年長者からの何かだと思ってくれれば、それで」
その言葉に、衣都は曖昧に頷く。
(お、いい顔)
それを見逃さずにシャッターを押す吏来の瞳は、大切な何かを見守るようなやわらかさを湛えていた。