admire 冷房の効いた涼しい自宅に引きこもっていたい――心の底からの願いも虚しく、どんな猛暑日でも仕事があればそうも行かない。そして酷暑の中、せっかく重い腰を上げて外に出たのに、仕事を終えて真っ直ぐ帰宅するのも味気ない。
(いつものバーって気分でもないし、久し振りにAporiaに行くとしますか)
確実にミカは居るし、運が良ければ衣都も居るかも知れない――そんな考えが脳裏をよぎった数十分後。思い浮かべた顔とは、予想とは違う場所で出会った。
「あれ、衣都」
「吏来さん……! お疲れ様です」
Aporiaが入居するビルのエレベーター。そこから降りて来たのは、会えたらいいなと思っていた相手で。名前を呼べば、不意をつかれたように大きな目をほんの一瞬だけ更に丸くした彼女は、こちらを見上げて挨拶してくれた。
「お疲れさん。今、帰るとこ?」
本部の定時には遅くバーの助っ人には早い二十一時過ぎ。中途半端な時間だと首を捻る吏来だったが、先日までのイベントの報告書をまとめていたのだと聞いて納得する。
「吏来さんは、本部……はもう誰も居ないから……バーですか?」
「そうしようかなって思ってたんだけど、衣都に会えたから予定変更」
「……?」
「帰るなら、寮まで送らせて」
「え……」
その申し出に、彼女の表情は変わらずとも「どうして」と困惑しているのがわかり、吏来は自然と浮かんだ笑みで目尻を緩めた。
衣都は自分のことを「平凡」だとか「普通」だと言うし、知り合ったばかりの頃は吏来もそう思っていた。けれど、人となりを知った今ではそんな考えはとうに消え失せていて、ある種のタイプの人間の目を惹いてしまう危うさには本人だけが気付いていない。
「ぼちぼち夏休みが始まって、若い子達が増えてるからさ。この時期はいつもちょっとだけ、駅近くでも治安悪くなるんだよね」
「そうなんですか……」
Aporiaに来て初めての夏だから今ひとつ実感がないようだが、人通りの多い道と時間帯だからこそ、何かトラブルに巻き込まれないかと心配するのは当然だ。こうしてここで出会って、彼女をひとりで帰すという選択肢は吏来の中に存在しなかった。
「……っていうのは建前で、俺が衣都と一緒に居たいだけなんだけど。寮まで夜の散歩デートなんて如何ですか、お嬢さん」
そう言って付け足すようにくすりと笑えば、思案げに目を瞬かせる。
「吏来さんの手間とか、迷惑になりませんか」
「全然。衣都こそ、迷惑じゃない?」
「いえ、治安の話を聞いた後ですし、正直有難いんですけど……」
「けど?」
「せっかく飲みにいらっしゃったのに、申し訳なさが勝るなと」
生真面目な声が、ほんの少しだけ弱くなった。
(こういうとこ、好きになっちゃいそう)
彼女の真面目なところも真摯なところも、吏来の気持ちを揺さぶるには充分すぎるほど魅力的だ。しかし逢からの「踏み込みNG」の指示がまだ解除されていないので、惚れっぽい自分の意識を恋心から逸らす。
「そんなに重く受け取らないで。衣都と居たいって俺のワガママなんだから、そこは『申し訳ない』じゃなくて『ラッキー』くらいの軽い感じで、ね」
どうしようといった風情の衣都の顔を覗き込むように少し身を屈めた吏来は、目を合わせて笑ってみせた。すると、彼女の目元がやわらいで、「よろしくお願いします」の声と共に微笑みが返ってくる。
(だから、そういう顔されたら好きになるけど……)
ミカにも樹帆にも『気を付けて』と忠告されているのに、吏来に対して全く警戒心を抱かないのは「男」だと認識されていないのか、職場の人間だから警戒されていないのか。
(それとも信頼されてたり……とか)
吏来を見つめる大きな目がいつもよりも澄んで見えて。その純粋な眼差しに、自惚れた理由を浮かべた自分が何だか照れくさくなった吏来は、ふと目を逸らしたのだった。
◆
熱帯夜の渋谷の街をふたり並んで歩く。もう夜だというのに一向に涼しくなる気配はなく、火照った体の熱が下がる気配もない。
「もうちょっと涼しくなってくれないと、ビアガーデン行こうって気分にもならないよね」
「ビアガーデン?」
「そう。もっぱらウイスキー党だけど、ああいうとこで飲むのも案外嫌いじゃないのよ」
「吏来さんがビアガーデンにいらっしゃるの、想像出来ないです。冷たいビール飲む姿が、あんまりイメージにないなと」
次第に小声になる衣都に、吏来は口の端を上げて笑って返す。
「俺、こう見えて夏男ですから」
「えっ」
「『えっ』って……そんなに意外?」
吏来の言葉に目をぱちくりさせて、おずおずと言葉を紡ぐ。
「……あ、そっか。お誕生日、もうすぐですよね」
「あれ、知ってた」
「皆さんのプロフィールには一通り目を通してますから」
「流石、代理」
感嘆した吏来に、衣都の涼しげな瞳が揺れた。その反応を見て、もしかしたら樹帆と恭弥と衣都で何か計画してくれているのかも知れないと察したけれど、それにはふれずに手で顔を仰ぐ。
「それにしても暑いね〜。あ、海へのお誘いなら、二週間くらいくれる? 仕上げてくるから」
「海?」
「え、水着デートしてくれないの」
「一体どうしてそんな話に……」
「俺が夏男って話から?」
「吏来さんが夏男なのはわかったんですけど、ツッコミどころが多すぎて何をどうすれば……というか、二週間くらいで仕上げられるのにびっくりです」
びっくりしている風には見えない真顔で、それでも律儀にツッコミを入れてくれるのだから面白い。
「戦ほどじゃないけど、俺も歳の割には頑張ってるのよ。あと、計画を立てることは好きだから、目標があればもっと頑張れちゃうってわけ」
そう言う吏来の体に素早く目を走らせた衣都は、見えるか見えないかくらい小さく首を縦に振って頷く。
「吏来さんが日頃から鍛えてらっしゃるのは、そうなんだろうな、と……。でも、二週間って凄いですよ」
「お、結構いい反応してくれるじゃん。……てことは、俺と海、行ってくれる?」
「それはまた別の話です」
「残念」
ひょうひょうと軽く肩をすくめる吏来に、仕方ない人だとばかりに彼女は目を細める。
それがあまりにも綺麗で、何故だか手を伸ばしそうになって。すぐ隣に居るのに手の届かない人みたいな憧れが募り、これはいよいよ好きになってしまいそうだと、他の話題を探した。
◆
玉川通りを渡って、人通りもまばらになって。もう暫くすれば、寮が見えてくる。
「明日からもっと暑くなるっぽいし、ゲリラ豪雨も増えそうだよねえ」
困った時には天気の話――捻りも何もないが、当たり障りない話題が一番だ。
「傘持ち歩くようにしなきゃですよね。明日の天気予報、チェックしてない……」
「晴れときどき曇りところにより一時雨」
「ん……? それって、全部うまく当てはまるのでは……」
何か腑に落ちないと首を傾げる衣都に「冗談だよ」と笑えば、「まんまと引っ掛かりました」と彼女も笑う。とりとめもないやり取りが楽しくて、今日みたいな夜に送り届けるのが、他の男じゃなくて自分で良かったと思ってしまう。
(他の男の前でもこんな無防備なのか……とか考えてる時点で、俺、だいぶ重症かも)
まるで波のように寄せては返す感情が、我ながら忙しい。一度意識してしまえば、体中が熱いのは熱帯夜のせいだけではない。
(……首、あっつ)
首の後ろに手のひらを当てて熱を確かめながら彼女を横目に見て、思うがままを口にした。
「……衣都にやられて、熱出そう」
他の奴の目に留まらないよう、自分のものにしてしまいたい独占欲が湧いて出てきたのを、軽口を叩いて誤魔化す。
「ええっ」
慌てる衣都の華奢な首筋に、つうっと汗が流れ落ちるのが見えた。それがぞくっとするほど艶かしくて、堪らず息を呑んだのを悟られないように、目線を前に向ける。
「水着デートは諦めるからさ。夏らしいとこ、衣都と行きたい」
「夏らしいところ?」
デートという言葉は聞き流すことにしたらしい衣都だが、吏来の提案に少々驚いている。即却下されなかったと気を良くした吏来は、言葉を重ねた。
「そう。夏と、衣都。そんな写真撮ってみたくなった」
感情の乱れを感じさせない穏やかな笑みを浮かべた吏来の真意を探るように、彼女が見上げてくる。目が合ったのはほんの一瞬。無言で数歩進んだ衣都は、自分の考えを確認するように、ゆっくり呟いた。
「そういうことでしたら……」
「お、ホントに? 言ってみるもんだな」
喜色を含んだ吏来の声に衣都がくすくす笑いを零し、細い肩が揺れた。
写真を撮ってみたいなんて、言い訳に過ぎない。彼女との時間を求めてしまう理由の答えは、すぐそこにある。
熱帯夜にのぼせ上がった頭でも、自分の心の行方を理解したのだった。