退屈の裏側で、渋谷の街に朝が降る(しずいと未満) 群青色に沈み、丑三つ時もとうに過ぎた空の下。頼りない光量の室内灯。
渋谷の喧噪を隠れ蓑に、路上パーキングに停車した社用車には先刻より沈黙が降りている。
ハンドブレーキを下ろしてからは、弥代の腕時計の針が三周ほど回っただろうか。一般的に健康な生活を送る人間であれば眠気で意識が朦朧としても何ら不思議のない時分。にもかかわらず、弥代は睡魔に引きずられることなく緊張感を保ち続けている。何だったら三十分ほど前までは、必要などないのにハンドルにかけた手を外す素振りすら見せなかった。まったく、その生真面目さには呆れてものも言えない。それでもなお背筋を伸ばしたままの弥代は、ただの一度も背もたれに身体を預けることなく、外の様子に目を配らせている。
こうなることは目に見えていたから、連れていくつもりなどなかったのに。新開と寮の階段を降りて相沢と合流した直後に鉢合わせ、おおよその理由を察せられてしまい。「どのみち次の店内代行でかかわる案件なら、たとえ下見だろうが運転くらいはさせてほしい」のだと訴えて聞かなかった弥代は。
初対面から現在に至るまで印象違えず、強情なことこの上ない。
(いい加減、楽にしたらどうなの……なんて)
顧慮したのち、ほどなくして無駄な考えだったと掻き消す。今が作戦前で、危険の及ぶ可能性が限りなくゼロに近い準備段階だろうと弥代には関係ないのだろう。車を降りて偵察へと赴いたのが、経験値も身体能力も遥かに上をゆく同僚たちにもかかわらず。微かに憂いを帯びた面持ちで、何かを確かめるように拳を握り締めたり両手を組んだりと忙しない。
俺はといえば助手席の背もたれに身体を預けて、ラップトップからのモニタリングを続ける。が、血生臭さが伴う失態など当然起きるはずもなく、退屈さにずり落ちた眼鏡を一定の間隔で押さえて所定の位置に戻すことしかしていない。
弥代としては、純粋に奴らの身を案じているのだろう。弥代は俺に似て表情の変化に乏しいが、俺と違って情がある。
「……節見さんは、やはりすごいです」
「何が」
静寂をひっそりと破った声かけに、俺は緩慢な動作で隣を見やる。心持ち前のめりになった弥代に言わせると。
「仕事柄、何が起きても不思議ではないのに。皆を信頼しているからこそ、こうして落ち着いていられるのですよね」
……何を言い出すかと思えば。反射的に弥代へ眇めた目を向ける。
こっちはただ退屈を持て余していただけだというのに、そんな聖人君子のような解釈をされるいわれはない。
「別に」
異を唱えようとして、だが直前に思いとどまった。
理屈を並べて否定しようとも、弥代のことだ。奇怪な理論を持ち出して、あの手この手で俺の評価を語ろうとするに決まっている。
おそらく繰り出されるであろう他意のない褒め言葉。真正面から受け止めるだけの気力は、今の俺にはない。
「動揺せず……は難しいかもしれませんが。無事に帰ってくるのが当たり前だって思えるくらいにはしっかりしなければ、と」
「……そう」
短く投げやりな肯定に、少しばかり表情を緩めた弥代の視線がぼんやりと、宙をさまよいはじめる。ここにきて睡魔が訪れているのだろう。
弥代の状態に気づいて閉口した俺はどう考えても冷たい人間だ。眠気を覚ますように、差し入れするなり話を続けるなりして最後まで運転役を全うさせるのが、この場面での正解だと知っている。敢えて仮眠を取らせるように、あるいはこのまま熟睡させて運転まで交代するよう仕向ける方が、色々な意味で楽だ。
(弥代が時折見せる強情な眼差しを、正面から受け止めるには骨が折れる)
やがて、うつらうつらと舟を漕ぎはじめた弥代を横目で見やる。
彼女の手元で時計の針が、四周を回ろうとしていた。もうすぐ気心知れた同僚たちからは、偵察の完了を知らせる喧しい声が届くだろう。
微かに白んでゆく空。
渋谷の街も、もうじき朝を迎える。