pleasant 静が誰かの名前を呼ぶのは、基本的に苗字だ。呼ばれる当人からの自己申告がない限り、年上も年下も同性も異性も関係なく苗字で呼んで来たし、これからもそれは変わらない――と思っていた。
ひょんなことから職場の人間から恋人へと関係が変わった相手を、どう呼ぶか。デスクに頬杖をついて悩みともいえない些細な思案にふけっていると、インターホンが鳴り、静は顔を上げた。
「遅くにすみません」
「いや、大して遅くもないだろ」
ドアを開けて迎え入れたのは、恋人である弥代。静が所有している本を彼女が探していると知り『今日は終日在宅してる。夜、取りに来れば』と連絡したのは数時間前のこと。本部で残業があるという彼女の来訪が二十時過ぎになるとは事前に知らされていたし、寮飲みの時はもっと遅い時間に新開や樋宮の部屋に行くのだから、遅い時間だとは感じない。
「何、早くあがって」
「え?」
「……本渡してハイ終わりってほど、薄情じゃないんだけど」
玄関のたたきで立ち止まったままの弥代に部屋へ上がるよう促せば、きょとんとした顔になる。
「これから何か用があるなら、そこに居ても別に構わないよ」
「いえ、用はないです。……ええと、では、お言葉に甘えてお邪魔します」
◆
散らかりがちな仕事部屋ではない床が見える寝室のローテーブルの上には、頼まれていた本。その隣にコーヒーカップをふたつ並べ、更に衣都の隣には静が腰を下ろすと、彼女は反射的に身構えてぴしりと固まった。
恋人同士の距離感に慣れないのか、はたまた交際している現状に気持ちが追いついていないのか。以前よりも近い距離に静が居ると、表情は平静そのものなのにぎこちない反応を示すのが、自分が恋愛対象として意識されているのだと実感出来て実に愉快だ。
静が微笑の浮かぶ口元にコーヒーカップを運んでも、彼女はカップに手を伸ばさない。
「……節見さんのそういう顔、久し振りに見ました」
「ん?」
その声に隣を見れば、僅かに首を傾げてこちらの顔をじっと見上げている。
「何だか楽しそう……?」
「楽しいからな」
ふたりきりで部屋に居ることには抵抗がないのに、隣同士並んで座ることには緊張を覚える彼女の感性が面白いと、自分だけが知っていればいいと思った。だから「楽しい」の理由はあやふやにして事実のみを伝えると、衣都は不審そうに眉を寄せる。
「あのさ。そんな身構えなくても、取って食ったりしないよ」
「それは……はい」
(そこで納得するのもどうかと思うけど)
素直に頷く彼女に、静も眉を寄せた。
交際をスタートさせたとはいえ、恋人らしいことは何もしていない。ふたりきりでの外出の機会が未だ訪れておらず手を繋いで歩いたこともなければ、ハグもキスも、それ以上のふれあいも当然ない。何か変わったことといえば、業務連絡以外のLIMEを送り合うようになったくらいだろう。それも決して頻度は多くなく、日に一度あるかどうかだが。
人との関わり合いが好きではない静が、一緒に過ごして居心地が悪くないと感じる相手は稀だ。思い返してみれば、会話のタイミングや声のトーン、沈黙している間の雰囲気に違和を感じなかったのが、弥代のことを意識し始めたきっかけだったのだろう。彼女の一挙手一投足、一言一句がやけに心に残るようになって、それが積み重なり今に至る。
気持ちが通ったことさえお互いに予想外で、好き合っているなら恋人になるのが自然な流れだと付き合い始めたものの、距離の詰め方を測りかねている。
理性的だとも淡白だとも自覚があるけれど、それなりに健康的な男なので、そういう欲が全くない訳ではない。
ふれたいか、ふれたくないかと問われれば、ふれてみたいと答える。大切にしたい相手だとは思う。しかし、大切にする方法がわからない。
そんなひとり問答を繰り広げていると、彼女がぽつぽつと今日の出来事を話し始めた。
レアのこと。カフェで食べたランチのこと。本部を訪ねて来たメンバーのこと。
「そしたら、吏来さんが――」
それを聞いた瞬間、勝手に体が動く。
「衣都」
話している彼女の名前を呼んで、返事を聞くよりも早く掠め取るようにキスをした。
◆
今まで気にもならなかった、自分以外の誰かを彼女が名前で呼ぶ行為。
(ああ、なるほど)
焼けつくような嫉妬ではなく、羨望に近い感情だなと自己分析をする。
「……」
「…………え」
(その顔は、初めて見るな)
目をまん丸に見開いた瞳が零れ落ちそうなその顔は、名前を呼ばれたことに驚いたのか、それとも急に唇を奪われたことに驚いたのか。他のメンバーと居る時には見たことのない表情を引き出せて、負けず嫌いの静の溜飲がほんの少し下がった。
「キス。嫌だった」
「嫌ではないです、けど……」
「けど?」
「今、そういうタイミングでしたか」
「タイミングだと思ったから、したけど」
「……」
「それとも、事前申告とか……聞いてからして欲しいタイプ?」
「いえ、そういう訳では……」
初めてのキスの直後とは思えない淡々としたやりとりが自分達らしいけれど、衣都の声色には流石に困惑が滲んでいる。
「衣都」
改めて名前を呼ぶと、びくりと体を震わせる。その反応に気を良くした静は、再び唇を寄せた。
◆
「ッ……」
「だいぶ色んなの見て来たと思ってたけど……まだ表情に幅あるんだな」
悲鳴を飲み込んだとも呻きとも取れる声が衣都の口から漏れ出るから、クツクツと喉の奥で笑いながら指の背で彼女の頬を撫でる。それが恥ずかしいのか顔を背けようとするのだが、その反応は新鮮で可愛いと静を喜ばせるだけだ。
「……節見さんが、こういうタイプの人だとは思ってませんでした」
「幻滅した?」
「してないです。ただ、ギャップが心臓に悪いというか……どうして今こんな状況なのかちょっとよくわからないというか……」
雰囲気に流されることなく真剣に考え込む衣都は、真面目で思慮深い。そして、そういうところが静の興味を引いて止まない。
「可愛いな」
「ちょっと冗談抜きで、ギャップが……その、どうにかなりませんか」
どうにかして欲しいと思っている風には見えない真顔で頼まれて、人としての在り方が矢張り面白いと再認識する。
「何かを可愛いとか、綺麗とか思う感情くらいはあるよ」
「それを初めて聞かされる方の身になってみてください……」
「……君のこと可愛いと思ってるって、言ったことなかったっけ」
「……なかったですね」
好意を伝えていても、可愛いと思っているとは伝えたことがなかったらしい。キスと名前呼びにただでさえ困惑していた彼女は、ほとほと困り果てたとばかりに逃げ腰になっている。しかし、当然ながらそれを見逃す静ではなく、問答無用で彼女の手首を掴む。それから、ゆっくりと手を滑らせて小さな手を握り――指を絡めて初めて手を繋ぐと同時に、再び唇を奪った。
「目、閉じないの」
「節見さんこそ」
ついさっきまでの困惑はどこに消えたのか、見つめ合ったままキスを受け入れる彼女の眼差しから目を逸らせない。今この瞬間、衣都の視界に入っているのは静だけ――そう思うと独占欲が満たされ、ぞくぞくと背筋に悦びが走る。
(ひとりが楽で好きだし、今もそれは変わらない。……けど、この感覚は面白いな)
単純に誰かを好きだと想うには、歳を重ねてしまったのかも知れない。彼女の澄んだ瞳を見つめ返しながら、そんなことを考えた。
◆
「……節見さんの手も唇も、温かいのが意外です」
不意打ちで感想を聞かされて、静の思考が一瞬止まった。キスも手を繋いだのも冷静に受け止めて言語化する衣都の思考は、自分の理解の範疇を超えるらしい。
「さっき、俺のギャップがどうのって言ってたけど……それを言うなら君の方があるだろ」
「褒められてる気がしないんですが」
「褒めてないよ」
(でも、そういうとこも悪くない)
心の中で付け加えた静は、唇の端に笑みを浮かべる。
(それと……)
意外だと思われないくらい慣れさせてしまえばいい。自分の何もかもを目の前の恋人に知らしめたいという欲が湧いて出る。
「目つぶって」
告げると同時に、衣都の唇を塞ぐ。
最初は探るように緩く。ほどなく、彼女の唇を温めるような――静の体温を移すようなキスを与えたのだった。