来週金曜日の十九時で「悪いんだが、どうしても他のやつに都合がつかなくてな」
その枕詞を置くなら端から僕に頼めば良かったのに、と内心感じたことは言うまでもない。
僕一人だったら、まず入らないだろう場所であることはまちがいない。師匠一人であっても同様だろう。だったら、僕と師匠の二人であったのなら、場違い感はやはり否めない。多少マシかという程度の話だ。
ビジネスではない都心のホテルは入り口がたくさんありすぎる。メインエントランスらしき広々としたホールに圧倒されるまま、ずんずん進んでしまう師匠へ着いていく。迷いのない歩みに見えるが、早いところ依頼を済ませたいという意思にも思えた。
吹き抜けの天井には不可思議に光を投げかけるライトがシャラシャラと垂れて、その下の拓けたラウンジを仄明るく照らしている。
「どうだ、分かるか」
「気配はしますけど、まだここにはいないみたいです」
二人用の席に案内され、沈み込むソファに背中をとられながらドリンクのメニューを見る。種類が多いし、難解な名前のお茶ばかりだ。一番下にあるブレンドティーで良いかな。
「そっか。まあ、まだ最初の回だしな」
「たぶん。もっと人が動き出してからじゃないですか」
「なるほどな」
コーヒーかな、と呟いてメニューを伏せた師匠は、依頼とはいえせっかくだから楽しめよ、と言った。
「てか、甘いもん平気だよな?」
「今更ですね。大丈夫ですよ、こういうところは初めてですけど」
ハイソな雰囲気に気後れしなくもないが、興味がないわけじゃない。おいしいものも、きれいなものも好きだ。
間隔のゆったりとした席からは、カウンターに並ぶスイーツの数々が眺められた。
ホテルのスイーツビュッフェに起こる怪現象を調査してほしい、という依頼である。
今まさに取ろうとしたケーキがなくなる。仕上げをしていた皿が消える。それくらいなら気の所為かもしれないが、客が席に持っていった皿からも消えたり、手荷物にも動かした様子が見られたりとなったので、対処に乗り出したらしい。
「随分やることがせせこましいというか……。嫌がらせなんですかね」
「霊のやることに理屈を求めてたら世話ないからな」
ものの見事に女性同士かカップルと思しき組み合わせばかりで、年の差のある男二人は目立つだろうと思いきや、客は誰も彼も並んだきらきらしい食べ物とお互いのことしか見ていない。だから、たいして視線は感じなかった。それでも、多少はきれいめの格好を意識してきた僕より、いかにも仕事着然とした洒落っ気のないグレースーツの方がちょっとばかり浮いている。黒は見たことがあるけれど、他のは持ってないのかな。
「ま、お出ましになるまでは普通に食ってよう。こんなとこめったに来ないし。金は心配するな、向こう持ちだ」
「そうですか。なら遠慮なく」
この場に馴染んでいないことなど、気にしていない風の師匠に伴われて席を立つ。
席に戻ると、僕に丸い紅茶ポットと温められたティーカップ、師匠にコーヒーの注がれたカップが届く。クリーム色の飾りに縁取られたプレートは端から気になった物を乗せていったら、あっという間にいっぱいになってしまった。情緒の欠片もない取り方だ。
「そんなにたくさん平気か?」
「一個ずつは小さいし、問題ないですよ」
「ならいいが」
艶々の赤い苺が生クリームの上に乗ったフレーズを大きく切り取る。スポンジの間にも薄切りの苺が入っていて、甘酸っぱさがクリームに包まれて優しく広がる。卵の黄身の濃さを感じるスポンジはしっとりふかふかで、苺とクリームの甘さを吸って口の中で解けた。
「うまそうだな」
「はい。こっちのチーズケーキもおいしいですよ」
レモンの薄切りが涼やかなレアチーズケーキは、フォークに取ると底のビスケット地がもろもろと崩れる。口に入れると爽やかなチーズのおかげでパサつくことはなく、すっきりとした後味だけが残った。
師匠のプレートにはこちらより少ないケーキと、軽食のミニホットサンドとトマトペンネ、それにコンソメスープが白いカップに注がれていた。初めから甘い物ではなくホットサンドを齧る師匠も、うまい、とさっそく口元を汚しながら呟く。おいしそうだから、僕も後で取ってこよう。
「出てきますかね」
「条件的には揃ってるからな」
濃いブラウンと黒が層になっているムースは、まったりと濃厚な焦がしキャラメルとチョコレートで、ナッツの香ばしさも感じる。明るい琥珀色の紅茶で口の中をリセットして、クレームブリュレの表面をスプーンで割る。平たいココットに、複雑な茶や黒のマーブル模様を描いているカラメルを割ると、バニラビーンズの粒々が散ったカスタードが顔を出す。取るときに焼き目をつけられたばかりのカラメルは、まだしゅわしゅわと音を立てている気がした。
「男性客がいるとき限定って……。わざわざスイーツブッフェなの、なんででしょうね」
不可解なことは必ず男性客がいるときに起こるらしい。また、季節で変わる企画内容が、点心がメインの飲茶のときやボジョレーヌーボーの解禁イベントのような甘い物でないときには起こらないのだという。
「さあなあ」
師匠の指が鮮やかな緑のマカロンを摘み上げた。あんぐりと一口で頬張ったものだから、栗鼠のように頬が膨れて咀嚼のたびに欠片が落ちる。色味から見てたぶん流行りのピスタチオ味だろう。
「もっと食いたいな、これ。何味だろ」
「ピスタチオじゃないんですか」
「あーそれか。うん、たぶん」
口元を舐めて適当さ加減を発揮しつつ、師匠は適温になったコーヒーを飲んだ。さすがにこの場の雰囲気で噴き出すわけにもいかないから、カップの表面を触って温度を確かめていた。カップの曲面をなぞる指は器用で、今日はなんだか言葉少なめな口も良く動くのに、物を食べるのが下手なのはいつまでも変わらない。
「マカロンってもっと大きかったら良いのにって思うんですけど、なんだかんだそのくらいがちょうど良いサイズなんですよね」
「なんだいきなり」
「いえ、前に円盤みたいな大きいのを食べたことがあるんですけど、食感がなんだかこれじゃないって感じで」
マカロンは歯に食い込むような不思議な弾力とカリッとした表面の食感が、手の平にころりと収まるサイズだからこそ釣り合いが取れているのであって、これより大きいとどっちつかずな食感になる。それに大きいほど上手に焼き上げるのは難しいんじゃないかと思った。
「こういうシャレたもん、食うんだ」
「まあ、食べますよ。頂き物だったり」
「ふうん」
師匠はまたコーヒーを口に運んで気の抜けた返事をした。カップで口元が隠れて、胡乱げな視線を寄越される。なんですか、その目は。
伝統的なクロテッドクリームとアプリコットジャムを添えたスコーンは、すごく紅茶に合う食べ物だと思う。スコーンを割って、ほんのり温かい内側にクリームとジャムをたっぷり乗せる。サクッと齧り付いて、甘くないこってりしたクリームに甘酸っぱいアプリコットの香りに、小麦の味を味わう。
「それ、どう。甘い?」
「ジャムは甘いけど、他はそんなに。スコーンですから」
「食ったことないんだよな」
「おいしいですよ。後でもう一回取ってこよう」
「粉もん好きだよな」
「そうかな」
「ほら、たこ焼きとか」
「同じ系統なんです?」
違うような気が、と思いつつ、プチシュークリームを一口でいく。ローストアーモンドが散りばめられたシューに、モカクリームが香ばしい。
ゼリーに行く前にお茶を挟む。師匠はまだ残っている大きなプレートを避けて、一回り小さいプレートを手元に寄せた。
「それなんですか?」
「クレープシュゼットな。オレンジと……カラメルか、これ。見た目より甘いよ」
小麦色にマーブルの焼き目がついたクレープが上等な布のように広げられ、たっぷりとオレンジソースがかかっている。
カシスとオレンジの透き通るゼリーのグラデーションを崩して、クレープを切り分ける師匠を見ながら、さっきオープンキッチンにあった円盤はそれかと理解した。
「……師匠」
「なんだ、欲しいなら自分で取ってこいよ」
「違います。出ました」
スプーンを置いて僕が言うと、師匠は声を顰めてどこだ、と短く尋ねた。
霊というものは浮遊しているイメージで、その実浮いてはいるのだが、天井に漂っていたり、机の下の暗がりにみっちり詰まっていたりと様々だ。
もっさりと明らかに部屋着の霊は、師匠の掛ける椅子の背後にひたりと伸び上がるように現れた。相手が動く前に、速やかに師匠との間に障壁を張る。
やせぎすで、凡庸な風貌をしているそれは、もし普通に「見えた」としたら、あえて視線をやるでもないどこにでもいる男に見えた。ただ、立ち上る悪意は人間の持つ生きている肉体に包まれたものではなく、剥き出しで噴き出すような、不定形のものだった。
「後ろです、動かないで」
大仰な立ち回りを演じては、他の客の迷惑になって依頼の達成に支障があるかもしれない。席についたまま軽く右手をかざす僕に、目だけ振り返った師匠が「迷惑行為の犯人であってるか聞け」と低い声で促す。
「あなたがやったの」
バリアで近づけない霊は、はっきりと自分を見据える僕にとまどっているようだったが、やがて焦れたようにその通りだと声なき声で言った。
悪霊スイーツ大好きと自称する霊は、聞くでもなく所業の訳をつらつらと語り始めた。生前、甘い物や綺麗な造形のお菓子が好きだったけれど、人の目が気になってこういった場には来られなかったことが心残りだったこと。自分には場違いに感じたし、一緒に行ってくれる相手もいなかった。
死んでしまって、初めは誰にも気づかれずに憧れの場所を探索できることが嬉しかったけれど、徐々に生きているうちに行けなかった後悔が嫉妬に変わった。特に男性客には、自分ができなかったことを悠々と楽しんでいるのが、妬ましくて仕方がなかった。
ましてや男同士で堂々と! と憎々しげな顔で吐き出す。なるほど、霊の言い分からすれば女性客ばかりの中でカップルや付き添いでなく、男二人連れの僕らは余程癪に障ったのだろう。
「でも、こっちには関係のない話だよ」
身勝手な理由で、かつ、いつでも突沸を起こしかねない重い悪意を隠さない霊に、情けをかけるつもりはない。周りに影響が出ないよう正面だけだった障壁を囲うように出して、消し飛ばした。
「終わりました」
「おう、お疲れ」
手を下ろすと共に、師匠の肩の力が抜ける。この場合はそうすべきとはいえ、余計なことをしがちな師匠が僕の言う通りにいてくれたのは、何だか珍しかった。
「なんつってたんだ、一応聞いておくけど」
「憧れと後悔からくる嫉妬ですね」
「それ、絶対端折りまくってるだろ」
「ちゃんと要点は押さえてますよ」
報告しなくちゃいけないんだからきちんと話せ、と師匠はきっと冷めてしまっているだろうカップに口をつけた。一応で聞いてきたのに細かい。
「新しいのもらってきてからで良いですか」
依頼だから構わないのだろうけれど、時間制の席ではあるのでどうせならおかわりしてから、と申し出れば、若いなあ、なんてぼやきながらの首肯が返ってきた。
「師匠は?」
「俺はいい……あー、いや。なんか適当に軽めの二、三個取ってきて」
「わかりました。苦手なのないですね?」
「ああ」
師匠は少しだけ口の端を上げてみせて座り直した。席を立つついでにコーヒーとお茶を頼んで、新しいプレートをもらいに行く。
さっき教えてもらったクレープを探して、きらびやかな甘い物の間を一人でまわる。頭には霧散していった霊の言葉が引っかかっていて、それがどうしてなのだろうと考えていた。
「師匠? 大丈夫ですか」
戻ると、新しい飲み物が届いていて、温かいコーヒーから緩く湯気が立っていた。けれど、手をつけられていないようで、カップを前にして師匠は項垂れて静かにしている。
「師匠」
「んん」
「え、師匠どうしたんですか?」
再度の声にのっそりと上がる顔を見て、その眠そうな瞼と赤くなった頬に驚いた。さっきまで何でもなかったのに、急に具合でも悪くしたのかと心配する僕の耳に、ふわふわとおぼつかない声が届く。
「ちょっと……酔っただけ」
「……酔ってるんですか?」
確かに言われてみれば師匠の顔色は酒に酔った人間のそれではあるが、いつお酒なんて、と思ったら、ちょうど今し方持ってきたプレートが思い当たる。
「フランベってアルコールは飛んでるんじゃあ……」
「酒は酒だろー」
若干、管を巻く姿勢になっているのを宥め、お冷やを飲ませる。アルコールに弱いとは聞いていたけれど、まさかフランベしたクレープでもダメだとは。
「報告はどうするんです」
「んー、後日あらためますって言やぁいいさ」
ぐたっと椅子の背にもたれる姿勢はすっかり砕けていて、余程酔っているのだろう。仕事でこんな姿を見るのは、何というか本当に珍しい。というより、初めてだと思う。
「もったいないから食べちゃいますけど、そしたら早く帰りましょう」
「えー、やだよ」
「なんでですか」
「だって、久々じゃん」
グラスの中で氷がカランッと音を立てる。その涼やかな音とは反対に、師匠の声はどことなくぐずついて湿っぽい。
「お前、最近忙しいだろー」
「暇ではないですね」
「だから、悪いとは思ったけどさあ。良いもん食えるし」
僅かに水の残るグラスは、手を添えるばかりになってしまっている。コーヒーは危なっかしいので、こちらにもらうことにした。
「そーいやそれどう、うまい?」
「すんごく甘いです」
「だろー。どれが一番うまかった?」
「難しいな。どれもおいしかったけど……。マカロンと、スコーンは普段食べないし、クリームもおいしかったかな」
「そうかそうか。なら、良かったわ」
コーヒーで引き立つクレープシュゼットの甘さと、オレンジ、それから洋酒の香り。
「来て良かったですよ。呼んでくれてありがとうございます」
ちょっと苦しいお腹に、口当たりの柔らかいアッサムを入れて、はっきりと言葉にする。酔っぱらいの目が幾度か瞬きをして、にまっと口元だけで笑った。
とりとめのない話から察するに、「久々」というのは僕とご飯を食べることで。忙しい僕を呼びつけるのを悪いと思って、でも、本当は一緒に来られたことを少なからず喜んでいる。何でもない風を装っていたけれど。
この人は平気に見えるし、何も気にしてなさそうに思える。けど、見えるだけだし、思えるだけなんだ。
「師匠、もうちょっとお水飲んでください」
「んー」
「もう食べられなかったら引き取りますよ」
「いや、食べる。このマカロンはもっかい食っときたい」
「じゃ、ほどほどにしといてくださいよ。気持ち悪くなっちゃわないように」
「わーかってるって」
「……急じゃなければ」
「ん?」
「ちゃんと言っておいてくれれば、都合つけますよ。また来れますから」
「そら、ふつーは予約取んないとだからなー」
そういうことじゃないんだけどなあ、と先ほどよりもさらに激しく食べこぼしながらマカロンを頬張るのを眺める。
いつも通りに見せた師匠の、新しく気がついた部分について、僕はどう感じているのか。自分自身のことながら正直はっきりしない。
ただ、もうちょっと、ちゃんと、見ておいてあげないとダメな気がするから、近いうちにまたご飯の約束を取り付けておこう。