メロンパンバターの豊かな匂いと、小麦の生地が焼ける香ばしい匂いと、砂糖の甘い匂い。八つ刻の鼻腔をくすぐる香りが、ふんわりと秋風に乗って辺りを漂っている。
いつもの如く除霊依頼を一瞬で片付けた茂夫を連れて、霊幻は駅前を歩いていた。匂いの漂ってくる方向に視線を向ければ、駅の出入り口の脇にぴったりと駐まっている一台のキッチンカーが見えた。車体は緑色とクリーム色で彩られ、傍らに立てられているのぼりには、"焼きたてメロンパン"の文字が踊っている。
(……ちょっと小腹が空いたな)
隣を歩いている茂夫に視線を向ければ、小さくて丸い頭頂部が僅かに動いたのが見えて、彼もあのキッチンカーを眺めているのだと分かった。
ふむ、と霊幻は内心で呟きながら、人差し指と中指を己の唇に触れさせた。今の時刻は十五時を少し過ぎたところだ。茂夫は小学五年生のため、影山夫妻には遅くとも十七時までには彼を家へ帰すと約束している。ここから影山家までは、茂夫の歩調に合わせて歩くと二十分ほどだ。つまり、彼を家に帰すまで、大体一時間半ちょっとの余裕があった。
「なあ、茂夫くん」
「はい、師匠」
「今、茂夫くんが食べたいと思っているものを当ててあげよう」
突然のことに不思議そうな顔をする茂夫に、霊幻はニヤリと笑ってみせた。
「きみは今、メロンパンを食べたいと思っているだろう」
「えっ、なんで分かったんですか⁈」
驚きに満ちた視線を受け止めながら、霊幻は真顔で頷いた。
「俺には人の心を読む力があるんだ。だから弟子の考えてることくらい、手に取るように分かるぞ」
霊幻は出まかせを口にしながら、茂夫を連れ立ってキッチンカーのもとへと向かった。おやつを買い与えるにしても、茂夫が家で夕食を食べられる程度の量にしなければならない。けれど、子供と接する機会など社会人になって以降そうそう無かった彼にとって、十一歳の子供の胃袋のキャパシティは想像がつかない。
パンの大きさを確かめられないかとキッチンカーの中を見遣れば、車内では店主らしき若い男性が、備え付けのオーブンを開けている最中だった。中から引き出されていく天板には、黄金色に焼けたメロンパンが並んでいる。それを見た茂夫は、驚きに満ちた声をあげた。
「おっきなメロンパンだなぁ」
メロンパンの平均的な大きさなど分からないが、少なくともそれは、茂夫が目一杯手を広げても、覆い隠せてしまうくらいの大きさはありそうだった。
「家で食べるなら、律と半分こしてただろうな」
一個下の自分の弟のことを思い浮かべているのであろう彼の幼い口元には、今だけ少し大人びた優しい笑みが浮かんでいる。彼の発する"半分こ"という言葉には、恨めしさが微塵も感じられない。兄弟にありがちな食べ物を巡る争いは、影山兄弟に限っては無縁なのかも知れない。
霊幻はポケットの中の財布に手を伸ばしながら、メロンパンをショーケースに並べている店主に声を掛けた。
「すみません、メロンパン一つ」
「ありがとうございます、二百円です」
丁度の金額を渡し、パンを受け取る。店主から熱いですよと忠告を受けたので、包み紙の端の部分を掴んだが、それでもほのかに温かさが伝わってきた。
「ありがとうございました!」
店主のハキハキとした声にどうもと返して、霊幻は駅前のベンチへと足を向けた。ベンチの近くには花壇が並んでいて、濃淡様々なピンク色のコスモスが咲き誇っている。
しかし今、茂夫の関心は全て、花ではなくメロンパンに注がれていた。期待に満ちた顔でベンチに腰掛ける彼を見遣りながら、霊幻も隣に腰掛ける。包み紙越しにパンに触れて、先程よりも熱くないことを確認すると、霊幻は紙の端を折って食べやすくしてから、茂夫にメロンパンを渡した。
「食っていいぞ」
「師匠の分は?」
霊幻は、子供の頃の自分なら喜ぶんだけどな、と考えながら茂夫に向かって言う。
「これは、一個丸ごとお前の分だ」
「えっ、いいの⁈」
「おう。ただし、夕飯が食える程度の量を考えて食べること。これは修行の一環だから、真面目に自分のお腹と相談するんだぞ」
「僕のお腹と……?」
「そうだ。残った分は、師匠の俺が責任を持って食べる。出来そうか?」
茂夫は少し考えた後、ワクワクした顔で一生懸命真面目な表情を作りながら頷いた。
「出来ます」
「よし。じゃあ冷めないうちに食べろよ」
「はい」
茂夫は口を開けると、慎重に焼きたてのパンに齧り付いた。咀嚼するうちに、彼の目が驚きに見開かれていく。その様子に、霊幻は思わず笑ってしまった。普段は言葉数少なく、表情もあまり動かさない彼が、今は饒舌な表情を見せていた。
「焼きたてのパンて、美味いよな」
霊幻の言葉に、茂夫は一生懸命頷いた。
「師匠も食べてください」
「いやいいって、俺は……」
そう断った瞬間、きゅるる、と悲しげな音が霊幻の腹から発せられた。
(腹の虫め………)
己の格好の付かなさに恥ずかしさを覚えていれば、茂夫は珍しく、はっきりとした笑顔を霊幻に向けてきた。
「やっぱり、師匠も食べてください。一緒に食べた方がおんなじ気持ちになれて、もっと美味しいから」
「……じゃあ、少し貰おうかな」
霊幻はありがとな、と礼を口にしながら、差し出されたメロンパンの三分の一くらいをちぎった。途端、裂け目からもわりと湯気が立って、バターの香りが広がる。
齧り付けば、網目模様の入ったクッキー生地のサクッとした食感があり、続いて柔らかくしっとりとしたパン生地が、ほんの数回の咀嚼であっという間に溶けた。砂糖の優しい甘みと、バターのまろやかな塩気が舌に広がる。
メロン香料が入っているタイプではない、素朴な味。それが、空きっ腹に優しく沁み渡った。
「美味いな、これ」
自然と溢れた言葉に、茂夫がにこにこと笑みを返してくる。パンの温かさと同じ温度の温もりが、心に沁み入っていくようだった。
「お前はすごいなぁ」
「何がですか?」
霊幻は何でもないよと言いながら、小さくて丸い弟子の頭を撫でた。それから二人は、夢中でメロンパンを頬張った。
程なくして自分の分を先に食べ終えた霊幻は、柔らかそうな頬をもごもごと動かして咀嚼する茂夫を眺めながら、質問を投げかけた。
「お前さ、どんな食べ物が好き?」
唐突な問いに対して、茂夫はメロンパンを頬張りながらたっぷりと時間を掛けて考えた。そして、記憶を探るように視線を彷徨わせつつ咀嚼していたものを飲み込むと、そっと口を開いた。
「たこ焼き、とか?」
「いいな、たこ焼き。美味いよな。相談所の近くに店とかあったっけ………ってあれ、茂夫くん、メロンパン全部食べたのか?」
「あ」
「……夕飯食えそう?」
「………多分」
そう答えながら、茂夫は相談しそびれた腹をさすった。
「ごめんなさい……」
「いいって、謝らなくていい。お母さんには一応俺から話しとくから」
霊幻は茂夫の頭を撫でながら微笑んだ。
「美味かったか?」
見上げてくる幼い弟子の表情は、まるで好きなだけミルクを飲んで満足した子猫のようだった。
「はい」
「そりゃよかった。俺も食えて良かったよ。
……さて、そろそろ帰るか」
二人はベンチから立ち上がると、口元に付いた食べかすを似たような仕草で払った。
そして、ゆっくりとした歩調で夕陽が染み始めた石畳の上を歩きながら、甘く香ばしいメロンパンの匂いが漂う駅を後にした。
おわり