夜空の星から降る「アルバイトをやろうと思うんですけど」
長期休みに入ろうという浮足だった文月の中頃、冷たいお茶で喉を潤すモブが思い出したように話し始めた。
「やってるだろ?」
ここで、と意味でデスクを人差し指で叩くと、ここじゃなくて、と首を横に振る。まあ確かに、誕生日が早いからもう一般的なアルバイトはできる年齢だ。
「学校の友だちに、夏休みにやらないかって誘われてて」
「なんのバイトだ? 言っとくが、ライフセーバーはやめとけよ」
「泳ぐの自信ないし、やりませんよ。お祭りの出店の手伝いです」
学校の友だちというのは、こちらも顔ぶれを知っている中学校のメンツではなく、春に入学した高校の友だちのことだ。何度か名前だけ聞いたことのある一人が自営の家で、夏祭りに出店で参加するので誘われたという。
「夏祭りねえ」
納涼の文字が躍るポスターを商店街でも見た覚えがある。市の祭りだから相当大規模なものだ。友だちの家は家族経営で常勤のバイトもいないから、人手を募っているらしい。
短期で知り合いのところならば心配事は少ない。ただ、祭りの手伝いなら出店の内容で随分仕事が異なるだろう。
「何やるかは聞いてんの?」
「お団子屋さんです」
「祭りで団子?」
「もともと友だちの家がお団子屋さんなんですよ。お祭りだとたくさん仕込みをしなくちゃいけないそうで」
「ま、そらそうだな」
なるほど、となれば、焼きそばやたこ焼き屋のように鉄板をやることもないだろう。焼き団子はあるにしても油ハネは無い分安全だ。事前に物を用意できるなら、わたあめのように技術もいるまい。
「当日は売り子さんをやって欲しいんですって」
「大丈夫かあ? 調味祭りだったらめちゃくちゃ人来るだろ」
「他にも誘われてる子いたし、交代でやるんで。それより、バイトは当日と前後二日間なんですけど、夏期講習も出るんでこっちにはあんまり来れないかもしれません」
「そうか。ま、こっちのことは気にすんな。何事も経験だ、頑張ってこい」
「はい」
快く送り出したが、正直、盛大に格好つけた。
希望の学校に無事合格して順当に始まった高校生活は、モブの足を相談所から遠のかせるには十分な忙しさと充実ぶりであった。受験に本腰を入れた頃からのことだから随分になる。
(夏休みだし、もう少し来るかと思ったが)
あてが外れ、仕事的にも若干変更を要する部分もできたが、それよりも過ぎる一抹の寂しさが厄介だった。
巣立ちゆくものを引き止める傲慢を働く気はない。新しい環境に慣れるため日々忙しくしている姿は応援したいし、大きくなったと微笑ましく感じるのは嘘じゃない。ただ、それでもこうして顔を見せてくれる律儀さに、淡い期待を持たなかったと言えば、こちらは嘘になる。
去年の夏はモブが相談所へ来るようになって、初めてほとんど一緒に過ごさなかった夏だった。仕事は相変わらずだし、芹沢や一足先にどうにか受験を乗り越えたトメちゃんがいて賑やかなものだったが、ずっと当たり前のようにいたものがいないというだけで、ぽっかりと穴の空いたような気分だった。最高気温をぐんぐん更新する調味市のはずなのに、ひんやりと忍び寄るような寒さずっとが身の内にあった。
口にするつもりは毛頭なく、人知れず抱えるに限る感傷だ。
そんなことはないだろうが、もしも、うっかり、罪悪感なんぞ抱かせてしまった日には引き篭もるしかない。
「霊幻さん、やっぱり俺残りますよ」
「いいって、いいって。予約もねえし、このお祭り騒ぎじゃ客なんて来ねえよ」
渋る芹沢に手こずったが、何かあれば呼ぶ、の約束でどうにか送り出す。せっかくできた同級生の友だちなんだ。イベント事で大事にしなくちゃギクシャクすんだろ。学校で顔合わせるんだし。
モブが今日来れないことも知っていたから、夏祭りに誘われたことを芹沢は非常に遠慮がちに切り出してきた。よほど言い出しにくかったのか、見ている方が気の毒になる様子だったが、直前でなく一週間は前に言えたあたり社会人として成長したと思う。その時点で当日の予約はなかったし、あとは入れないように調整すれば良いだけのことだ。快諾した俺に意外そうな顔をしたが、せっかくできた社会的な繋がりを大事にしなくてどうする。これも社会復帰途上の部下を持つ雇用主の務めだ。
芹沢と違い、自ら姿を消したエクボは空気を読んでんだかなんだか。あの野郎、意味ありげな一瞥くれて、「いざとなりゃあ、シゲオが来んだろ」だと。
「来ねぇよ」
誰もいない相談所に嫌に響いてしまったのを振り払うよう、窓の外へ視線をやる。まだ明るい夏の空が徐々に夜へ向かって群青色を帯びていく。微かな喧騒はすでに届いているが、じきに祭りに最も相応しい時間になるだろう。
祭りの最中に、賑やかな雰囲気を厭う陰気な輩がわざわざ出てくるはずもない。そいつらは引き篭もって、祭りの喧騒も過ぎ去った頃にのそのそ出てきて管を巻くのだ。
それこそ、俺みたいに。
そいつらと違うとこと言ったら、独りよがりの寂寥を誰に溢すつもりもなく、溢す相手もいないということだ。
「せっかくだし、色々片付けるか! あ~~事務仕事が捗る!」
声に出した言葉に人間は引き摺られる。会計ソフトに打ち込む方はミスが出ると面倒だが、領収書を仕分け、台紙に貼ってファイルするという単純作業は、無心になるには打ってつけだ。あえて残して置いたことには、この際触れないことにする。
やっぱ博多の塩高けぇ……。でも、一番効く気がすんだよな。
電気代上がってんなあ。冷房はライフラインだから削れねえし。
そういや、トイレの洗剤しばらく買ってないな。後で確認するか。
蛍光灯のゴミ、今度こそ不燃ごみに出さないと。
……最近、たこ焼き屋のレシートないな。
形も素材もまちまちな領収書群を一目で分かるようにレイアウトして貼り付け、種別ごとのファイルに収める作業は、漠然と業務内容を振り返るのに良い。以前は新人向けに取って置いた雑務だが、実働部隊として稼ぎ頭となっている芹沢だけいつまでもやらせるのも悪い気がする。無論手が空いていれば任せるが、夏場は書き入れ時だからこの手の事務作業は少々滞り気味だ。
もっと前は、よくモブにやらせてた。
「……はあ」
どうしても、無心になり切れない瞬間がやってくる。気づけば手は止まっていて、目の前のレシートの束はもはや何も考えずに没頭するには力不足となっていた。
ここは一人で始めた。一人で始めて、飽きたら一人で閉めるはずだった。それがかれこれ六年、客も、客でない人間も途切れずに、従業員まで抱えている。
まずまずの充実感を得て、日々頑張れるのはモブがいたからだ。あいつが来てから、新鮮なことばかりで、おもしろくて、楽しくて。
でも、いつか、ぱったりと来なくなる日が来る。
もうモブの居場所は他にいくらでもあるし、これからもっと増えていく。子どもの時代は気づけば終わって、好きなところへ巣立っていくんだ。
子どもの成長は切ない。そう感じることは罪ではないが、引き止めるのは害悪でしかない。親の愛情とは時がくれば離れてやることに他ならないのだ。親ではないが、師というのもきっと違わないだろう。
望むのは自分の幸せではない。
コンコン、と響くのが控えめなノックの音であると気づくまでにしばらくかかった。よもや祭りの夜に奇特な客があったものだ。慌てて気持ちを切り替え、「どうぞ」と営業用の声を発する前に扉は開いた。
「あ、良かった。もう締めちゃったかと思いました」
こんばんは、と入ってきたのは、最近見慣れ出したブレザーではなく、Tシャツにジーンズ姿のモブだった。
「え、え?」
「電気ついてるのに、あんまり気配がないから何かと思いましたよ」
「え、いや、モブ!」
あまりにもいつも通りの様子で入ってくるから、問いかける言葉もままならず名前を呼ぶに終わる。勢いがついてしまったそれをモブは瞬きで答えた。
「お前、その、バイトは?」
応接テーブルに荷物を置いて続きを待つモブは、どうにか出てきた端的な質問にスッと窓の外を指した。
「……雨?」
とっぷりと暗くなっていて、窓ガラスは明るい室内を反射して外が窺えない。しかし、打ちつける雨粒に濡れ、水滴が幾筋もの帯となって落ちていくのが分かる。いつの間に
こんなに強い雨が降ってきていたのだろうか。
「気がついてなかったんですか?」
「集中してたんだよ、仕事で」
「もしかして忙しかったですか?」
「いや、それは大丈夫だけど」
しどろもどろになりそうな返事にモブは、良かった、と安堵の表情を浮かべた。そして、テーブルに置いたビニール袋をガサガサ漁って、中の物を出そうとしている。
「この雨でしょ? もうほぼほぼ売れてたんで、お客さんも来ないだろうからバイトのみんなは上がっていいってことになったんです」
確かにこの天気じゃ露天は商売上がったりだ。無闇にバイトの時間を拘束するよりは店仕舞いして、明日の片付けに精を出してもらった方がいい。しかし、そういうことならば早いところ家に帰れば良いだろうに。
「だったら、早く帰った方が良かったんじゃないのか」
「お土産貰ったんで一緒に食べようと思って」
正直に尋ねたのに明後日の返事が来る。微妙に会話のキャッチボールがなってない。
ガサゴソやっていたビニール袋からは、プラパックに入った団子が出てきた。醤油の焦げ目のついた焼き団子に、飴色のみたらし、よもぎ餡子と黒蜜のかかったらしいきな粉もある。祭り用に仕込んだのなら売れ残りは処分するしかない。大盤振る舞いも頷ける。
「いや、それこそ家族とさ」
「迷惑でしたか?」
「……いや別に」
むしろ逆だとは、言えない。
テーブルの上をお店屋さん状態にしたモブは、いそいそと勝手知ったるミニキッチンにおそらく茶を入れに行ってしまった。
忘れようと思っていた期待が、じわじわと浮かび上がってきていることに俺は気がついていた。
モブは単純に、忙しくて来れなかった部分を埋め合わせようとしているだけなんだ。律儀で親切な奴だから。もしかすると、芹沢あたりに今日俺が一人で仕事していると聞いて、不憫に思ったのかもしれない。
それでも嬉しかった。
「お団子温めますか?」
「すぐ食べんの?」
「お腹空いちゃって。休憩でちゃんと食べはしたんですけど」
「肉体労働だからなあ。電子レンジじゃ溶けるからいいよ」
二人分の湯呑みと急須を盆に乗せて戻ってきたモブとテーブルを囲う。夕食でも良いくらいの時間だが、こいつは間食だろう。
「あ、こっちはあっためた方がいいか。師匠、先に食べててください」
席に着いたと思いきや、モブはまだ開いていないビニールを持って電子レンジのもとへ行ってしまった。なんだろう、ときな粉黒蜜に若干咽せつつ齧りついて、独特の香ばしさとこっくりとした甘さを味わう。旨い団子だ、後で店の名前を聞いておこう。
微かにブゥンッと唸るレンジから中身は温まると共に立ち上る匂いに、ヨモギと餡を咀嚼しながら、はっとなった。
「隣の屋台で売ってたんですよ。最近食べてなかった気がして」
団子と似たようなプラパックの閉じた上蓋に張りつくソースとマヨネーズ、そこに渾然一体となった鰹節。爪楊枝が二本、パックの隙間から飛び出している。屋台って言えばこれですよね、とおそらくメジャーな感想ではないが、好物を前に綻ぶ顔には瑣末なことだ。
「師匠、気をつけてくださいよ」
「分かってるって」
そう言いながら、熱々のたこ焼きを頬張った。言わんこっちゃないとばかりに呆れた顔をしながら、冷ましてくれるのを期待して。
「大人になったって、来たいから来るし、心地良いからいるんですよ」