浅き夢見し「い、ろ、は、に……どこですっけ」
坤は薬箪笥の引き出しをひとつひとつ開けては閉めるを繰り返している。
引き出しに平仮名が一文字ずつ振られているのに、何を戸惑っているのだろう。
離は本から顔を上げる。
「桂皮なら、ぬ、の引き出しです」
「あ、よくご存知で……」
坤はニマッと笑う。
「まあね、薬売りなので」
引き出しの中の物を取り出して、自分の乳鉢のほうに戻ると、坤はぱらぱらと乳鉢にそれを放り込んだ。
ごりごりごり、
桂皮が潰される音がする。
「いろは歌って悲しい歌ですよね」
「そうですか?」
「美しくても散ってしまう。誰もずっと同じ世には居られない。人間はこうも悲しいものだと子どもの頃から歌うのだなぁと」
ごりごりを続けながら、坤はぽつりと言う。
「百年も生きられない生き物なのに……そんなことばかりなぜ考えるのか」
いつになくしんみりした声だ、と離は首を傾げる。
「あの歌は……恋歌だと思いますがね」
「恋歌?」
坤は乳鉢から顔を上げた。その黄色の目がまん丸だ。
「子どものうちは意味が分からないから、真面目腐った解釈を面白がって大人が教える」
「どこが……恋なのでしょう?」
きょとんとした顔で坤は言う。
丸い眉が青くて、目に力が抜けるとひどく幼い顔になる。
「したことあります? 恋」
「いえ、したことはなくても、よく知ってますよ」
坤はふんふん、と何度も頷いてみせる。
「知っているんですか?」
「薬売りですから。そりゃあもう……たくさん見てきました」
分かってやっているのか、分かっていないのか。
先ほどとほとんど変わらない幼い顔ながら、少しだけ神妙な顔つきで坤は言う。
「じゃあ恋だと気づきません? 最後のあたり。まるで恋文じゃないですか?」
「言われてみれば……最後のあたりは」
坤は頷いた。
いつの間にか、乳鉢のごりごりも止まっている。これはどうも、と離は思いつつ、顔には出さない。
「でしょう? 誰かが気づいたときに終わってしまう、とても儚いものを歌った歌なんですよ」
「なるほどねえ」
坤はもう一度頷いた。
「気づいたら、浅い夢にたゆたっても酔うことはできない…………鈍感ですね」
離は言いながら立ち上がる。
「タバコ、吸ってきます」
「ああ行ってらっしゃい」
坤は笑った。
なるほどねえ、
離は坤の口振りを真似て言いながら、襖を開けて部屋を出た。
「あなたが気づかない間、私はずっと浅い夢にたゆたって、酔っていられるってことなんですよ」
ふふん、離はひどく小さな呟きを漏らして、笑みを浮かべた。