キミがくれたもの、おくるもの(レイン視点)寝室のベッドに腰掛け、間接照明の柔らかな灯りの下で本のページを捲る。
形式としてページ上の文字の羅列へと視線を滑らせ、字を辿ってはいたが内容は全く入ってこない。
今のレインの頭の中を占めているのはマッシュと最後にあった日に交わされた約束だった。
「今度のレインくんの誕生日は二人でお祝いしたいので、夜は予定空けておいて下さいね?あと、その日は泊めて下さい」なんて可愛らしいお願いを恋人にされて、期待しない男がいるだろうか?もちろん返事は是以外あるはずもなく、快諾した。
そして、約束通りに泊まりに来ているマッシュが風呂から上がってくるのを待っていたのだが、落ち着かない。
「お風呂お借りします」とマッシュが部屋を出て行ってから、そわそわと逸る気持ちとどこを見ればいいのかと彷徨う視線をどうにかしようと本を手にしてた。だが、視線は文字の上辺を滑るだけ、意識は部屋の外では何の意味もない。もう戻ってくる頃だろうか?いつ足音が聞こえてくるだろうかと、そればかりが気がかりで一向に落ち着ける気配はなかった。
頭に入ることはないが、ページの端から端までを視線でなぞりページを捲る。
作業と化した行動を何度か繰り返していると、ゆったりとした軽い足音が聞こえてきた。近づく足音にことさら集中していると、今までテンポよく進んでいた足音が寝室の前でピタリと止まる。
扉の開閉がとことん苦手なマッシュの為にと、軽く押せば開くとわかるように少し隙間を空けるのはいつものこと。きっかけは近づいて来る足音を拾いやすくするのが一番の目的で始めたことだった。
マッシュが親切心だと思っている事の方が副産物だ、などとは今さら言えないなと自嘲気味に笑っていると寝室の扉が小さくキィっと音を立てる。
何の役にも立たなかった本をパタンと閉じ、音のした方へと顔を向ければ待ちわびていた姿があった。
マッシュは貸した部屋着に身を包み、まだ湿ったままの髪を少し熱(ほて)った肌に纏わり付かせている。これを見れるのは自分だけなのだと思うと優越感にレインの気分も上がるというもの。
「お風呂ありがとうございました」
「あぁ、髪を乾かしてやるからこっちへ来い」
上がった機嫌の良さのままに呼べば、マッシュも嬉しそうな空気を纏わせて近づいてくる。
隣に座ったのを確認し、側に置いてある杖を手に取ると軽く一振りした。口頭呪文も必要ない馴染み深い使い慣れた魔法が、ふわりと優しい風を起こし、暖かな温もりを纏ってマッシュの髪に残った余分な水気を飛ばす。
わずかな風に持ち上がった髪がサラリと流れるのを見届け、少しばかり乱れた髪を手櫛で直してやる。マッシュがじっと大人しくしているのをいいことに、絡み知らずの毛先を何度か遊ばせ、それを誤魔化すように最後にぽすっと頭を軽く叩く。
「ほら、できたぞ」
「ありがとうございます。この魔法、便利で良いですよね」
「風と火の複合魔法だ。簡単そうに見えるだろうが、一つ調整を間違えば火だるまになる可能性もあるが⋯微調整がお前にできるのか?」
「ヒッ⋯なんっ⋯!!」
「俺はそんなヘマしないがな」
「レインくんのいじわる!」
「僕も魔法が使えたなら使えるようになりたかったな⋯」と呟くマッシュに、存外扱いの繊細な魔法だと教えたかっただけなのだが、どうやら怯えさせてしまったらしい。ビクリと身体を震わせ、不安に揺れる瞳を向けてくる彼を宥めるように声を掛ければ、「レインくんは時々いじわるですよね」と返ってくる。
それは、反論のしようがない事実だった。マッシュの素直すぎる反応があまりにも愛らしくて、気付くと口から滑り出てしまっているのだから。
だが、弟に「マッシュくんが本気で嫌がるようなことしたら、もう会わせないから。気をつけてね?」と釘を刺されてからは本気で意識して加減を間違えないようにしている。会えなくなるのは困る。懐に転がり込んできた時には、もう手放してやれる段階ではなかったのだから。それでも、「悪い⋯」と謝るのは口先だけ。
それはマッシュもわかっているようで「悪いと思ってないでしょう?」と返されてしまうが、その声は呆れを含んでいるものの声音は非常に柔らかい。
わかっていて許してくれている。
甘えだと許容される心地よさを噛み締めてフッと笑えば、マッシュは顔を逸らしてしまう。逸らされる間際に揺れた瞳も、わずかに頬にさした朱も見逃さなかったから、意味がもわかっていればマッシュの行動は可愛く見えて仕方がない。
そんな他愛のないやり取りに、レインは「あぁ、やはり心地いいな」と思わずにいられない。
二人きりで過ごせる時間が数週間ぶりであれば尚の事。
レインがイーストン魔法学校を卒業してからは、マッシュと会える時間は大幅に減ってしまった。
同じ寮内であるなら、一日に一度会うのは難しくなかったが、寮内と寮外では話が違う。まず、寮生は外出の際には外出届けが必要になる。特殊な理由があれば免除される事もあるが、マッシュは免除の対象ではない。これも気軽に会えない理由の一つだ。
だが、会えない一番の理由を挙げるとするならばレインの多忙さが一番の要因だったのだろう。神覚者であり、魔法道具管理局局長として働くレインは非常に忙しかった。通常の業務に加え、無邪気な淵源との戦いで破壊された街の復興支援。人手が足りないからと夜間の巡回警備にも当たっていたこともある。復興活動が落ち着くまでは仕方のないことだったのかもしれないが、それにしたっていつ休めばいいのかと問いたくなるほどには忙しい期間が続いたし、比較的以前と同じくらいに復興した今でも時期が悪ければ会えない日は多くなってしまう。
多忙な日々をやりくりして、会えるのは多くても週に一回。会えない時は一月もの時間が空いてしまう時もあった。
そんな中で、本日はレインがイーストンを卒業して初めての誕生日。
レインが仕事場に入った時から何かと騒々しく、誕生日パーティーという名目のバカ騒ぎがしたいだけの計画はダダ漏れで、「人をダシに使いやがって」と嫌気がさす一日の始まりをしていた。
誘われるものには容赦なく断りを入れ、段々と聞く耳を持たなくなった周囲には断固拒否の姿勢を貫き無視していた。
騒がしいのも人が多く集まる場も好きではないし、そもそも自身の誕生日というものに頓着していないので、祝われること自体にあまり関心がない。だと言うのに、しつこいと実力で黙らせるまで周囲は煩かった。
その点、昼頃に仲のいい友人が誕生日を祝いに顔を出し、プレゼントと祝いの言葉を残してサッと切り上げて行ったのは流石だった。
レインのことをよくわかっている。一部の例外を除いて、みんなこうであれば良いのに、そう思ってしまう。
定時には友人がくれたプレゼントのみを抱え、未練がましそうな視線を無かったものとして扱い上がってきたのだ。
それから自宅に戻り、普段以上に気疲れした体をソファーに沈み込ませていた所にマッシュが来た。
出会い頭に「お誕生日おめでとうございます。フィンくんと作ったシュークリームどうぞ。レインくん特別仕様のうさぎさんバージョンですよ」と、ほわほわした空気を纏って穏やかに言われ、あまりの可愛さと尊さに今日あった嫌な事が吹っ飛んだ。
そして、現在は約束通りに泊まりに来たマッシュと寝室で二人きりの時間を過ごせている。
明日の休みはもぎ取っていて、なかなか会えない恋人とゆっくりと過ごせるとなれば浮かれない人間はいないだろう。
「せっかくの二人きりなのだから、そろそろ構って欲しい」と、逸らされたままのマッシュの頬へと手を伸ばす。
触れた頬をなぞれば、マッシュの意識がレインへと向く。髪の間からチラッと覗いたマッシュの瞳に、先程口にしていたような不満の色は微塵も感じられない。同時に、逸らす間際に見せた恥じらいの色も消えてしまったのは少し惜しくも感じる。
交わす先にあるのは、朧月のような淡い光彩を集めた理性的な瞳。この瞳ももちろん好きだ。けれど⋯。
(見逃してしまったさっきの目が、今欲しい⋯)
無垢に瞬くその双眸が、甘さを含んで見つめてくる瞬間を一度でも知ってしまったら貪欲に求めずにはいられない。
マッシュの頬に添えていた手を頸まで滑らせて軽く引き寄せると、何の抵抗もなく近づく身体。
求めれば応えてくれる。
嫌な事は嫌と言う人間が、物理的に敵うはずもない相手が、受け入れてくれているからできる事。許されている、信用されている、その事実は心を酔わせるのに充分すぎた。
あと少しでお互いの唇が触れる⋯⋯⋯そんな時にレインの唇にそっとマッシュの指が添えられ、一瞬何が起こったのかわからずに動きが止まった。遮られたのだと気づき、このタイミングでの”待った”に思わず眉を顰めてしまう。
「何だ⋯」
「少し、待ってもらっても良いですか?」
遮るタイミングというものがあるだろうと不服そうな物言いになってしまったが、マッシュが何の理由も無くそんなことをする人物ではないことも、マッシュなりの行動原理があることも知っている。
レインが納得できる答えかどうかは別として、こういう場合はちゃんと聞いてやろうと決めている。
「どうした」と問いかけようとした時、レインよりも先にマッシュが口を開いた。
「レインくん、お誕生日おめでとうございます」
「あぁ⋯ありがとう。だが、それは来たときにも言ってくれただろう?」
「うん、でも⋯⋯あれは今のレインくんにだから」
(今の、俺に?⋯こいつは何を言いたいんだ?)
マッシュが何を伝えたいのかがわからない。今とは、一体何を指して言っているのだろう?
謎かけのような言葉にレインが怪訝な顔をすれば、マッシュは続ける。「君にまだ言えてなかったので」と、それは嬉しそうな声色で。
「まずは、十九年前のこの日に生まれてきてくれたレインくんに、生まれて来てくれてありがとう、ですね」
その言葉にレインは、目を見開き息を呑んだ。
マッシュの言った”今のレインに”の答えは分かった。けれど、何で今なのか、どうしてこんな時に、なぜ?と、問いたいことはいくらだって胸の内には溢れていた。なのに、驚きすぎて声の出し方がわからない。
だが止めなくては。マッシュが「まずは」と言っていたのをしっかりと耳にしていたから。
今日という日に絡めて何を言おうとしているのか⋯⋯最後まで聞いてはいけない、そんな予感が脳内に警鐘を響かせる。
今の一言にすら、ここまで動揺してしまっているのだから、きっと、耐えられない。だからと、マッシュへ静止のために伸ばした手は、彼に触れる前に握り締めることになる。
レインを見ているはずのマッシュの目は、レインを通して何を見ているのか。愛おしいものを見るように細められている瞳と、合わさっているはずの焦点が実を結ぶことのない違和感がレインの動きを鈍らせた。
「一歳と二歳のレインくんはどんなだったんだろう?きっと、元気いっぱいで可愛いかったんだろうな。そうしたら、その頃のレインくんには元気に過ごしてくれてありがとう、がいいのかな?それから、三歳のレインくんにはね、可愛い弟くんができて良かったねって。羨ましいくらいの素敵な兄弟になるよって教えてあげたいな⋯。僕ね、今のフィンくんとレインくんを見て兄弟って良いなって、すごく思うようになったから⋯だから、その頃のレインくんにも自慢の兄弟ができたねって言ってあげてたいなって⋯」
(お前は、俺を通して昔の俺を見ようとしているのか⋯⋯)
面影なんてきっと無いのに。弟のフィンですら朧げな記憶しか残っていないだろう。それも、両親がいなくなってからのつらい頃の記憶。自分でもそれ以前の、幸せだった時間を思い出せない。当時は思い出すわけにはいかなかったから。縋ってしまえば立てなくなってしまいそうで、もう思い出す事がないように心の奥底にしまい込んでしまった。そこからは時間が経ちすぎてしまって、もう思い出すことすらできない。
(俺が、捨てたと思ってたものを、お前は拾おうとするのか⋯⋯)
握り締めていた拳にさらに力が入る。そうでもしなければ溢れそうになる何かを堪えきれそうになかった。
動けないままのレインを一瞥して不思議そうに首を傾げ、「あっ」と閃いた表情を一瞬浮かべると、開いていた距離を無くされてしまった。徐に伸ばされた手が背に回され、苦しく感じない程度の力でぎゅうっと抱きしめてくる。
抱きしめることはあっても、抱きしめられることはほとんど無い。心構えができていない状態で感じる最愛の体温に、護るために厚く覆っていた心の氷をじわじわと溶かされていくのを感じる。自分を、残されたただ一人の家族を護るために必要だったそれを⋯⋯。
堪えようと、必死になっていたのに、マッシュは加減というものを知らない。
「フィンくんと、二人きりになってからフィンくんをずっと守ってくれてありがとう。僕なら、じいちゃんが突然いなくなってたらきっと今ここに居なかったと思うから⋯レインくんは凄いね。フィンくんを守ってくれて、フィンくんの為に生きてくれてありがとう。そんなレインくんが居てくれたお陰で、今のフィンくんが居るし、フィンくんと僕は友達になれたんだと思う。フィンくんは性格が優しいからかな、魔法も優しくってね、それでね、困ってるといつも助けてくれるんだよ。フィンくんのあの優しさって、きっとご両親やレインくんの優しさから生まれたんだろうね。二人のご両親の事は僕にはわからないけど、レインくんがとても優しい人だから、きっと、そうなんだと思う⋯」
努力を努力として認められる、守ったことを誇れと促してくる。自分がいたからこそ今があると訴える声は優しい。
一見するとフィンを褒めているようで、実際に褒め倒されているのはレインの方だった。
それが分かってしまったレインは堪らない。
(マッシュ、もう、十分だ⋯もうやめてくれ⋯)
止めたいのに、静止の声は喉に詰まって言葉にならない。
優しい言葉だけが細雪(ささめゆき)のように隙間なく降り積もり、ヒビ割れてしまった場所さえも覆い隠して隙間ごと埋められていく。
もう心を押し殺す必要はないのだと、そう言われている気がして⋯嬉しいのに、胸が締め付けられるように苦しいのはなぜなのか。
受け入れてしまいたい心と、長年様々な事に抗い続けて生きた心とがせめぎ合っているから、だから、こんなにも⋯⋯。
もしも、これを言っているのが他の人間だったなら、きっとここまで心に響いていなかった。一瞬の躊躇も無く、「人の心に土足で踏み入るな」と怒っていたかもしれない。それなのに、マッシュの言葉も声も春に降り注ぐ日差しのように暖かくて、怒ることも跳ね除けることもできそうにない。そのどちらも、受け入れてしまいたいと絆された心が抗っている。
堪えきれなくなった感情が溢れだし、じわりと視界を滲ませる。とっくの昔に機能しなくなったと思っていた涙腺は、どうやらまだ正常に働いているらしい。
両親が死んで、フィンを親代わりとして守らなくてはと誓ったあの日から涙なんて出たことが無かった。
泣いてばかりの弟を慰め、薄汚い欲に塗れた大人の悪意から守るのに必死だった。
だが、それももう終わった事だ。そう、終わった過去なんだ。
だから辛くても泣けなかったあの頃の気持ちまで拾い上げて包み込もうとしないで欲しい。本当に、もう充分すぎるほどに受け取ったから⋯⋯。
何とか踏みとどまっていた決壊寸前の心と涙腺に、優しすぎる耳心地の良いテノールが最後の後押しをしてくる。
「ねぇ、レインくん。僕と出会ってくれてありがとう。たくさん、助けてくれてありがとう。レインくんが色々と手助けしてくれてたのちゃんと知ってるよ、僕。それから、好きになってくれてありがとう。いつも忙しい中、一緒にいられる時間を作ってくれてありがとう。僕はね、そんなレインくんが大好き。だから、生まれてきてくれてありがとう。君が生まれてきてくれたこの日を、僕にとっても特別な日にしてくれて、ありがとう⋯」
(あぁ、もうだめだ⋯⋯抑えきれるわけがない⋯⋯)
認識してしまえば、認めてしまえば、もうダメだった。
マッシュの背中を掻き抱くように力一杯に抱きしめ、顔を見られないようにマッシュの肩口に押し付ける。
一度溢れ出した涙は止まらない。一番多感な年頃に泣けなかったのだから、止め方だって知らなかった。
止めどなく流れる涙のせいで、濡れていく肩は冷たいだろう。なのに、マッシュはなにも言わない。それどころか、どこか楽しそうによーしよーしと頭を撫でながら背中をポンポン叩いている。
まるで子供をあやすような態度は気に入らない。だが、一定のリズムで叩かれる感覚に覚える安堵感と、伝わる体温の暖かさがさらに涙腺を刺激してくる。
籠った熱を吐き出したいのに、口を開けば引き攣った喉の奥から嗚咽が漏れ出てしまいそうで歯を食いしばった。これ以上、不恰好な姿を晒したくはない。
今更と、もう手遅れだと思われていても、声をあげて泣くなんてできやしない。
一度、落ち着くまで離れてしまえばいいと僅かに残る理性は囁くが、矜持を保つための行動をとるより、この温もりを一瞬でも手離してしまうことの方ができなかった。
元より手離すつもりなど毛頭無かったのに、"離さない"では無く"離せない"になってしまったから。
離したら最後、ダメになるのは自分の方だ。だから、震える両手に力を込めて、奥歯を噛み締めて不器用に泣くしかない。
そんなレインに呆れるでもなく、笑うでもなく、ただ撫で続けていたマッシュに「いいこ」と囁かれ、レインは困惑する。
口にするつもりの無い事が思わず出てしまった、そんな感じに聞こえ、言った本人は無意識だったようで自覚した様子はない。だからこそ、本気で子ども扱いされていると取ればいいのか、子どものように振る舞ったって気にしないのだと言われていると取れば良いのか判断に迷う。
「お前は俺をどうしたいんだ」と訴えたくてもできないもどかしさに、ギリッと鳴るほどに奥歯を噛み締めた。
ーー本当に、この恋人にはとことん敵わない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
涙が目尻を伝う感覚が無くなり、息苦しいほどに乱れていた呼吸が落ち着きを取り戻した頃、マッシュをキツく抱きしめていた腕の力をようやく緩める事ができた。
少し距離を取りはしたがどう対応したら良いかなどわからない。
自分の不甲斐なさやら情け無さのぶつけ所に迷い、元凶の一端となったマッシュを恨めしそうに睨んでしまったのは最早クセのようなもの。悪気はなくともこれは無いだろうと謝罪を口にしようとしたのだが、発言するのマッシュの方が早かった。
何を思ったのか、「レインくんの目元、兎さんとお揃いですな」と軽い口調で揶揄ってるとしか捉えられない物言いに、さらにギッと睨みつけてしまったのは仕方がないと思う。
けれど、自分が思う程には強く睨めてはおらず、怖さの欠片も無いのだろう。そうでなければマッシュが目の前でああも楽しそうな雰囲気を出していられるはずがない。
何とも言えない脱力感に「はぁ⋯⋯」とため息を吐き、レインは起こった事実を反芻してみた。
キスしようとしたのを遮られるまではこんな事になるとは思ってなかった。マッシュも直前まではレインの行動に合わせようとしていたように思うし、それは気のせいではないだろう。
唐突の"待った”がかかり、そこから流れが変わったのも確かだ。けれども、冷静になって思い返してみればマッシュの普段とかけ離れた饒舌ぶりは疑問点が多い。閃いたからと言って、マッシュは咄嗟にああもスラスラと話せるほど器用な人間ではないし、あれだけの内容は事前にある程度話す事を決めていたはずだ。
それは、どうして?その疑問の答えを上手く聞き出せるだろうか?
「突然、どうしてこんな真似を⋯?」
高圧的に問い詰めるより、淡々と事実の確認だけをして待つ方がマッシュには効果がある事をレインは理解していた。だから、ただじっとマッシュを見据えて話すのを待った。
「えーっと、レインくんの誕生日のお祝いをどうしたら喜んでくれるかな?ってフィンくんに相談しまして⋯⋯」
「それで?」
「⋯今まで考えてた事とか、思ってる事とか全部言ってあげたらきっと喜ぶと思うよって言ってて⋯。あのタイミングを逃したら言い出し辛いなぁって⋯それで、こうなってしまいました⋯」
おそらく、レインに話した内容はフィンに事前に話しているし、フィンはそれを知った上でGOサインを出したからこうなった。
マッシュの「こうしたい」をフィンは何より優先しただろう事は容易に想像がつく。そしてマッシュも⋯⋯フィン自身もフィンの言葉も信頼しているから同意が得られれば行動に移してしまう。
今のレインがどんなに求めても得られないマッシュとの時間の共有は、フィンが独占していると言っても過言ではないほどに一緒にいる。四六時中共に過ごす間に築かれた絆は計り知れないくらいの強固さで、羨ましくて堪らない信頼関係が今回ばかりは恨めしい。ただ、それだけ一緒にいるフィンにも予想が付かない事もあるのだろう。
マッシュは言葉が終わる前に視線を気まずそうに逸らしていた。それは、マッシュの思い描いていた結果とは違う結末へと辿り着いたからなのかもしれない。
そうなのだとしたら、期待を裏切れたのだとしたら、内容はともかくとして悪くない気分だった。
それだったら、普段ならしないことをあと一つくらいしたっていいだろう。
ちゃんと嬉しかったのだ。誰より心許している相手から認められることも、常は口下手なくらいの口数しかない人間が言葉を尽くしてくれたことも。それから、苦心し迷いながら生きたこの十数年という歳月を、それで良かったのだと優しく肯定された事が何より救いだった。押さえ付けることに慣らされた心が、歓喜に震えるほどに。
自他ともに口下手な自覚はある。けれど、こんな時にまで口を噤んだままで良いはずがない。
言わなきゃ伝わらないなら、言うしかないじゃないか。
「⋯人間、嬉しすぎたり感極まっても泣けるもんだって、初めて知った。⋯嬉しかった。ありがとう」
「⋯はわわっ!レインくんが素直!!」
「今日くらいはな⋯」
尽くしてくれた言葉の数々に対する返答としては、あまりにも言葉数が足りない。
その自覚はあったし、マッシュの驚きの声にはいつもと変わらない不器用な返ししかできなかった。
流石に呆れられるかとも思ったが、マッシュは優しく目を細めるだけで何も言わない。何も言わないが、目が庇護対象を見守る時のように優しくて、「これは、また子ども扱いされてるんじゃ?」と考えかけたところで、考えるのをやめた。
何だか、もうどうでもいいような気がしてきたのだ。
「⋯寝るか」
「そうですね」
泣くという行為は体力や気力の消費がやたらと激しい気がする。頭の働きも鈍ければ身体は鉛のように重く感じるし、少し気を抜いただけで瞼がくっ付きそうでいけない。
せっかく、恋人が特別だと言ってくれた日に泊まりに来てるというのに、何もできそうにない現実に歯噛みする。ほんの十数分前までは期待に浮かれきっていたのにと、こんな筈では無かったと項垂れるのを誰が止められよう。
今日はキス一つまともにできていないけれど、してしまえばそこで止まれる自信は無い。
潔く今日は諦めるか⋯とレインが思っていると、マッシュが何か思い出したかのように「あの⋯」と声をかけてくる。
「レインくん⋯ちょっとこっち向いてください」
何だと声の方を向くと、マッシュの手がふわりと頬に添えられた。
優しい手つきで撫でる感触に何が起こっているのかと困惑したまま視線を上げると、すぐ間近にあったマッシュの瞳と視線が交わった。見慣れているはずのその瞳が、今日は一段と綺麗に思えてレインは魅入ってしまう。けれど、その時間は長くは続かず、ハチミツを煮詰め溶かし込んだように甘さを含んだ瞳は瞼の奥へと隠れてしまった。一際大切なものを仕舞い込む時のようにゆっくりと時間をかけて⋯。
(勿体ねぇな⋯もう少し見てたかったのに⋯)
名残惜しさに、ぼうっと閉ざされた瞼を見つめ続けていたので、焦点が合わないほどにマッシュと距離が近くなっている事にレインは気づけなかった。
異変を感じる事ができたのは、誰かの吐息がレインの唇を掠めた時だ。"誰か"など、この場では一人しかあり得ない。
働かない頭が事態に追いつき始めた直後、ふにっ、と柔らかい感触がレインの唇へ訪れる。
レインの唇に今触れているものも唇だと理解するのに数秒を要し、唇だと理解したものは唇同士の先が僅かに触れ合う距離をとった後、下唇だけをなぞるように軽く啄んできた。
それが、レインがマッシュへ普段の軽い戯れの時にしているキスの手順だとわかり、レインは瞠目する。いつもは、マッシュからねだられる事はあっても、するのはレインからだったから。
一度だけマッシュは自分からしようと挑戦した事があったのだが、その一回は失敗に終わり流血沙汰になってしまった。そこからは、キスしたい時はねだる方針にしたらしく、マッシュからそれらしい行動はなかった。マッシュがねだる時に見せる照れた様子や恥じらう仕草が可愛いからと、レイン自身も気にしたことはなかったのだ。
(これは、なんだ?何が起こっている⋯⋯??)
処理しきれない情報に呆然としていると、瞼の奥へと隠されていたマッシュの瞳がわずかに開かれた隙間から姿を覗かせる。
閉じられる前の瞳に湛(たた)えられた甘さは未だ消える事なく、レインを捕らえ、ふっと蠱惑的な笑みの形へと変わった。
マッシュの細められた瞳はどこか挑戦的な色をしていたようにも感じ、一瞬前とのギャップに動揺したレインは動くこともままならない。
そんなレインを見つめたまま、マッシュは流れるような動作でやや顔を傾けて下唇を食(は)み直し、今度はおまけとばかりにちゅうっと軽く吸ってくる。戯れというには少し艶っぽい接触はほんの一瞬だけの出来事で、唇は軽いリップ音を余韻に残して離れていってしまった。
(はっ!?)
どうにか事態の把握ができないものかと考えを巡らせようとしたが、困惑したままの頭では情報の処理などできるはずもない。ただマッシュを見つめることしか出来ずにいると、マッシュが頬に添えていた指を滑らせ、レインの唇をすりっと一撫でした。最初に右から左へと軽く触れる程度に辿らせた指を、今度は輪郭をなぞって指先が反対側へと反芻する。
何に納得したのか、満足そうに頷くと指を引いたが、マッシュはチラッとレインを伺うと首を少し傾げた。不思議そうにレインの口元を見つめ、さっきまで人の唇を撫ぜていたその指を自身の唇へスッと滑らせる。
その行動にレインは雷に打たれたような衝撃を受けた。
キス直後の間接キスは視覚から得る破壊力が凄まじいと知ったのだ。
”これ以上のキスはしないけれど、名残惜しいんだからね”そんな風にも捉えられるマッシュの行動はレインの胸の内をざわつかせる。間接キスなんて何の意味があるのかと、直接すれば良いのに無駄なだけだろうと思っていたのに⋯⋯これでは間接キスに浮かれる人間のことをバカに出来ない。奥ゆかしさすら感じさせるその様子に惹かれないわけがなかった。
目を逸せないままでいると、マッシュは意味ありげな上目遣いをレインへと送り、ふっと表情を和らげる。
ほんの僅かに上がった口角に、それが笑みなのだと、笑いかけられていると理解してレインは更に困惑するしかない。
(はぁっ!???)
あまりの混乱に動けずに居ると、マッシュはイタズラが成功した子供のように茶目っ気たっぷりに言うのだ。
「おあずけのままだったので僕からしてみました。それから、レインくんの真似っこもしてみたんですけど⋯」
レインは思わず目元を手で覆った。
普段される事のない不意打ちを食らった衝撃だけでも相当なものだったのに、男の本能を的確に突いてくるような事までしておいて真似っこなどと宣う。
(俺はそんな事までしていないし、教えた覚えもないぞ⋯⋯)
どこで覚えたのか、誰に刷り込まれたのかと問いただしたい気持ちはあった。けれど、それは今じゃなくていい。今はそんな気力も体力も残っていないから。だから、起きたら絶対抱き潰すし、事の仔細を身体に聞いてやろうとレインは心に誓う。
「⋯⋯っ!⋯起きたら、覚悟しておけよお前⋯」
声が絞り出すように低くなってしまったのは変に力んでしまったから。
それをマッシュがどう感じ取っているかなど今のレインに考える余裕はなかった。
(クッソ⋯こんな風に育てたのは誰だ?⋯いや、俺か⋯)
そんなつもりは毛頭なかったなどとは言わないが、ぶっちゃけ自分好みに育ちすぎてしまった感が否めない。
嫌いなところなんて元々なくて、大きく変わって欲しいところもそう無かった。ただ、「もう少しだけこうして欲しい」を伝えると、マッシュが「いいよ」と許容してくれるから、思ったままに、感じたままに”ちょっとしたお願い”を許される限り積み重ねた⋯⋯レインがした事なんてそれだけだったのだ。
なのに、いつの間にか、これ以上は自分の好きな性癖はないだろうくらいまで詰め込まれているといった結果になっていた。
現状で、既に許容量いっぱいだったところに新たに捻じ込んでくるのがマッシュらしいといえばらしい。良くも悪くも型にハマらないのは彼の長所であり短所だから。
本当なら、今すぐにでも「自分のとった行動の責任を取れ」と押し倒してやりたい。煽るような素振りを見せて期待させたのはそっちなのだと言って⋯⋯。そうしたいのに、今は十数年ぶりに泣いたせいか、瞼は重いし、倦怠感は酷いしで自分の身体一つ思い通りに動かせないのがもどかしくてたまらない。
マッシュもなんとなくレインの不調を察しているのか、レインの横へコロンと転がると、「おやすみなさい」と言ってさっさと目を閉じてしまった。
後ろ髪を引かれる気持ちは捨てきれていなかったが、マッシュがこの様子なら諦めも付く。
レインは胸中にある万感の思いを吐き出すように深く息を吐き出し、マッシュの隣へと横たわった。
マッシュに「おやすみ」と囁いてレインは目を閉じる。
思いがけない事ばかりが起こる一日だった。
それでも、これほど満たされた気持ちで終われる誕生日は今までなかったと思う。
なんだかんだで良い日だったと、それをくれたマッシュには感謝している。だから、最後に「ありがとう」そう伝えようとしていたのに、レインの口から言葉が出ることはないまま意識を手放してしまった。
その日のうちに言えなかった事実に、少しの後悔でレインの眉間の皺が普段通りになるまでは、あと五時間⋯⋯。