ターコイズのカウチソファ、パールホワイトのテーブル、ブラックオリーブのカーテン。
それらは二人で住む事が決まってから行ったインテリアショップで買ったもの。これから同棲を始めるカップルだという事はおそらく店員さんにも筒抜けだったのだろう、何だか生暖かい目で見守られていたような気がする。
七基くんは何故か黒い色の家具ばかり選ぼうとしていて。好きな色はターコイズって言ってたのにおかしいな、と思い理由を尋ねてみると「楓さんの髪と瞳の色だから…」と小さな声で大きな爆弾を落とされた。なるほど、好きな色じゃなくて『好きな人』の色…つまり俺の色かぁ…!なんて自分で納得しながら自分で悶えたりして。顔に集まった熱がなかなか冷めなくて困ったのを覚えてる。
とりあえずカーテンは黒のものを買うことにした。いや…ほら、遮光性も良いしね。
と、まあそんな事があったりもしたけど。
買った家具たちが置かれただけのまっさらな部屋に積まれたダンボール。一人分の量と言うには多いそれらに、これから本当に二人で暮らしていくんだなと何だか感慨深い気持ちになった。
窓から外を見ると日が傾き始めていた。朝から始めた引越し作業が一段落して、身体は心地良い疲労感に包まれている。ちょっとひと休みでもするかとソファに腰掛けた。
…まあ大型の家具や家電は全部引越しロボと七基くんに任せきりだったから俺はほとんど何もしてないんだけど。でも七基くんも流石に疲れたのか、途中でギブアップして二人で荷物が運ばれていくのを眺めていた。ちょっと悔しそうにロボを見つめる七基くんが何だか可愛くて面白かった。俺はというと細々したものと衣服の入ったダンボールをちょっと運んだくらいで。それでも疲れを感じてしまうのはやっぱり俺も歳を取ったって事なのかな。アラサーだもんな、もう…と考え始めると何だか落ち込んでしまうのでここら辺でやめておこう。
七基くんと恋人同士になってから二年が過ぎ、彼と出会った時から数えるともう四年も経っている。俺が歳を取るのも仕方ないだろう。
そんな俺たちは今日から二人で住む事に…いわゆる同棲する事になった。
恋人になってから二年で同棲、というと世間的には早いのか遅いのか分からないけど。
けれどもようやく二人で住めるという事実に、やっぱりじんわりと胸に迫るものはあって。
俺たちが同棲に至るまでの出来事。それは思い返せば長くなるけれど───
高校の卒業式を終えた七基くんに「ずっと好きでした」と真正面から告白されて…物凄く驚いた、と同時に困惑した。十八歳になって高校を卒業した彼はもう未成年ではない。けれども俺にとっての彼は大人の俺が守らなければならない存在、という意識が強かった。七基くんの事は好きだけれど恋愛対象として見る事はできない。彼がずっと恋愛で苦悩してきた事は知っているから、とても心苦しいけれど…でも気持ちが無いのにそんな同情で告白を受け入れてしまう方が失礼だ。そう思って断ろうとした矢先、「主任が俺をそういう対象として見てない事は分かってます。だから…これから好きになってもらえるように頑張るから」と彼に先手を打たれてしまって…そのあまりにも真っ直ぐな視線に俺はたじろいだ。そして宣言通り、その日から七基くんの猛攻が始まった。いくらデートに誘われても、最初は断るつもりだった。けれども「だめ……ですか?」と迷子になった子どものように頼りない眼差しを向けられて───俺は無力だった。「だめじゃないです…」と俺が彼に屈するたびに、それはそれは嬉しそうな表情をするものだから…。
それでまあ、結局絆されてしまったのだ。でもあんなに格好良くて優しい七基くんに「好き」と言われ続けて好きにならない方がおかしいと思う。
そうしてついに負けを認めた俺は「俺も七基くんが好きだよ」と、ようやく彼にそう告げた。それは三ヶ月近く続いた彼との攻防が終わりを迎えた瞬間だった。すると気付けば彼に抱きしめられていて…俺もその震える背中に腕を回した。嗚咽を堪える姿を見て湧き上がるのはここまで待たせてしまった申し訳なさと、そして愛しさ。
この感情は正しく恋だと───心からそう思った。
…そうして晴れて恋人同士になった俺たちだったけど。
俺たちが住むのはHAMAハウスという名の共同生活の場だ。無論人目がある。付き合っている事は皆に内緒という訳では無かったけど、わざわざ大っぴらにするものでもない。
だから自然とそういう恋人らしい事をするのは週末の深夜、俺の部屋で…というのが暗黙の了解になっていった。
真夜中の俺の部屋で初めて七基くんとキスした時は年甲斐もなくドキドキしたものだ。間接照明の淡い光のなか、二人の影が重なってひとつになる───とても幸福な時間だった。それは唇どうしが触れるだけのおままごとみたいなものだったけれど。キスをする前のドキドキは形を変えて、そのいたわるような優しいキスに俺の心もぽかぽかと温まっていって…彼が淹れてくれたコーヒーを飲んだ時みたいにほっと癒された。つたないキスで一生懸命「好き」を伝えてくれる彼が愛しくて。
そんな初心で可愛いところも好きだなと、改めてそう思った。
けれどもどうしてもキス以上の事はできなかった。それはHAMAハウスという人目がある場所のせいという理由もあったけれど、何よりその時の七基くんはまだ十九歳だったから。法律的には問題ないのかもしれないが、十代の子とそういった行為をするのは俺の中の倫理に反する。だから七基くんが二十歳になるまではそういう事はしない、と彼にも伝えていたのだけれど…俺はふと思い至ってしまった。
でも七基くんが二十歳になってもHAMAハウスじゃ好きな時にできないよね…?
俺も健全な男子だ。もう言葉を濁さず言うが、好きな時に好きな人とセックスができないというのはこれ以上ない死活問題に思えた。そんな理由もあって俺は七基くんに同棲を提案したという訳だ。…最低と罵られても仕方ないと思う。
「二十歳になったら二人で暮らそう」と話を持ち掛けて、けれども流石に煩悩まみれの胸の内を明かす訳にはいかないから…「七基くんと二人きりでこれからもずっと一緒に過ごしたいんだ」と彼にはそう話した。…嘘は言ってない。それは紛れもない俺の本心だったし。ただそれだけが理由ではないというだけで。
俺の邪な気持ちは露知らず、純粋な七基くんは物凄く喜んでくれた。
「楓さんと二人でずっと一緒にいられるの…嬉しい。すっごく嬉しいです…」と涙を流して。俺はそんな彼を抱きしめながら痛む良心を抑えつけていた。いや俺だって勿論一緒に住めるのは凄く嬉しいけど!でも汚い大人でごめんね…。
兎も角そういう経緯があって今に至る、という訳だ。HAMAハウスの皆にも「付き合ってます」宣言と「同棲します」宣言を同時にして、驚いている人もいたし、そうでない人もいた。でも皆一様に俺たちを祝福してくれて…。俺は言いようのない幸福感に包まれた。昼班を中心とした皆に囲まれて幸せそうに笑う七基くんが可愛かった。
驚いている様子の無かった可不可と雪にぃにも、幸せになってほしいと告げられて。感極まった俺は思わず泣き出してしまった。俺の事は七基くんが幸せにしてくれるから、俺も彼を幸せにしなきゃ。そう決意を新たにした。
…そんな訳で色々な事があったけど、それでも俺は間違いなく言い切れる。
───今が人生で一番幸せだと。
「……さて、と。片付けなきゃ」
ソファの上で少し休憩をとった後、さて片すかとまずはすぐに使う食器類の入ったダンボールのテープを剥がす。
とりあえず七基くんが帰ってくる前にすぐに使うものは出しておかないと。
彼は今どうしても外せない打ち合わせの為に外出中だ。引越し当日にごめん…と何だか凄く申し訳なさそうにしていたけれど。仕事なんだから仕方ない。優しい彼は仕事に行くまでには大型の家具家電を運び終えられるようにと時間を調整してくれていたみたいだしね。
七基くんがHAMAツアーズ以外の企業からも依頼を受けて作曲するようになったのは最近になってからだ。
何せ彼は今をときめく覆面アーティスト、unloveだ。作曲依頼自体は以前から沢山来ていたようだけど…区長としての仕事もあり多忙を理由に断っていたそうだ。
けれど大学生になって新しい環境にも慣れてからは、作曲活動にもっと力を入れたいと思うようになったという。依頼も積極的に受けるようになった。
大学生、作曲家、観光区長…二足どころか三足のわらじを履く七基くんは相変わらず忙しそうだけど、それでも「毎日すごく充実してるよ」と笑顔で語ってくれて。その横顔はとても綺麗だった。
そんな彼の笑顔を思い出しつつダンボールから食器を取り出す。よく使いそうなものは棚の一番下へ。
一緒に買った真新しい器を片付けながら、ふと考える。
…来週の日曜日は七基くんのご両親と、それからお兄さんの六月さんにご挨拶に行く予定だ。
仕事で多忙な七基くんのご両親は長らく海外出張中で、日本への帰国が決まったのもついこの前だったそうだ。一緒に住む事が決まってすぐ、リモート通話で七基くんのご両親とお話して同棲の許可は頂いてはいるものの…緊張しすぎて何を喋ったかはあまり覚えてない。お兄さんの六月さんとも初対面だし、緊張するなと言う方が無理だと思う。七基くんは「うちの親も楓さんの事は優しそうな好青年だって言ってたし、俺もそう思うし。そんなに気にしなくて大丈夫だよ」と言ってくれて…ちょっと照れた。彼の言葉は心強い。けれどもなかなか不安は拭えなくて。
でもうちの両親と妹の椛もそろそろ海外から帰ってくる予定だから会ってほしいと言うと、今度は彼が動揺し始めてしまった。「失礼がないようにしなきゃ…」と念仏のようにぶつぶつ何かを呟いている七基くんを見ると何だか少し安心した。そうだよね、やっぱり緊張するよね。でも好きな人の大切な家族だから、俺もちゃんと認めてもらえるように頑張らなきゃ。
───お揃いのマグカップは一番目立つ場所に置いて…っと。よし、これでいいかな。
食器はあらかた片付いたし、すぐに使う日用品や生活雑貨なんかも出したし…とりあえずはこんなものだろう。
スマホを見るともうすぐ二十時だ。今から帰りますという七基くんからのメッセージが三十分程前に届いていたし、そろそろ帰ってきてもいい頃だろう。
そう思っているとちょうど玄関の方で物音がして。俺は出迎えようと彼の元へ向かう。
「───ただいま」
その声にはやはり少し疲れが滲んでいて。引越し作業の後に企業との打ち合わせというハードスケジュールだったから当たり前だろう。
けれども俺の姿を見留めると、途端に彼の口元が幸せそうにふっと緩んだ。それが嬉しくて、幸せで…「おかえりなさい」と返した俺も、多分七基くんと同じような顔をしていたと思う。
「…何か、こういうのってやっぱりいいよね。同棲してる感じが凄くするっていうか…てか楓さんが出迎えてくれるの嬉しすぎて、一瞬夢かと思った」
今も緩んだままなのか、口元を手で隠すようにして彼は何だか可愛い事を言っている。
「あはは、夢じゃないよ。今日から俺たちは一緒に暮らすんだから」
「そう…だよね」
「…でも俺も、何か夫婦みたいだなって思った」
え、と呆けたような声を出した彼の頬にちゅっとキスを贈る。
…夫婦みたいだなって思ったのは本当だし、夫婦といえばおかえりのキスはやっぱり必要なんじゃないかなと、そう思ったので。
それでもだいぶ恥ずかしい事をした自覚はある。
火照る頬には気付かないふりをして「ご、ご飯!なに食べよっか。もうこんな時間だしデリバリーでも取る?」と早口で捲し立てて逃げるように彼に背中を向ける。
これじゃ照れているのが丸分かりだ。おそらく赤くなっている顔を早く隠したくてリビングに向かおうとすると、突然後ろから抱きしめられた。
俺の首筋には彼の顔が埋まり、はぁっと熱い息がかかる。腹の前に回された腕は俺の下腹部の辺りを何だか怪しい手つきで撫でていて。
どくんどくんと鼓動が早鐘を打ち始める。
ああ、これはもしかして…『スイッチ』が入っちゃったかな。
俺のその予想は見事に当たっていたようで。七基くんは唐突に俺の首筋をかぷっと食んだ。
「ひぁっ!」
驚きのあまり俺の口からはそんなあられもない声が飛び出し、はっとなって口を手で隠してももう後の祭りだ。
回された腕に更に力が篭もる。さっき食んだ部分を今度はぺろりと舐める彼。時折肌に当たる八重歯がこそばゆくて、気持ちいい。
「…ご飯は後で、良いですよね?」
首筋をまるで味わうかのように舐めながら彼は問うてくる。…いや、一応疑問形ではあったがそこには有無を言わせない響きがあった。
観念した俺は彼に背を向けたままこくりと頷く。
……一度『スイッチ』が入ってしまった彼からは、もう逃げる事はできないのだ。
ベッドと少しのダンボールだけが置かれた薄暗い寝室。
…思えばこのダブルベッドを買う時が一番恥ずかしかったな。
ただ二人で一緒に寝るだけのベッドならばいざ知らず、このベッドの用途は勿論それだけではない訳で。
というかそんな事を心の中でひっそり考えてた俺、ほんと童貞みたいだったなと過去の自分に羞恥を覚える。
そんな面映い記憶が掘り起こされるベッドに横たわると、すぐさま俺の上に七基くんが乗って。
その瞳は欲に濡れてぎらりと光っている。いつもの優しい彼からは想像もつかない、明らかに昂った姿を見るのはこれが初めてではない。
…七基くんが二十歳の誕生日を迎え一緒にお酒を飲んだ後、俺たちはそのままホテルに向かい───ついに一線を越えた。本当は同棲してから、と思っていたけど…互いにもう限界だった。
とはいえ、まだ最後までは一度もしてないんだけど。お互いのものを触り合うだけで…それすらも片手で数えられる程度だ。HAMAハウスではやっぱり人目が気になってそういう事はできなかったし、同じホテルでその後も数回ほどしたけど…引越しの準備で忙しくなってからはそんな暇も無くなってしまったし。
けれど誕生日を迎える前から「二十歳になったら、貴方を抱きたいです」と言っていた彼からは強い意志を感じて。俺も抱かれる側としての覚悟は決めていた。
…まあでも、あんなに優しいキスをする可愛い七基くんだ。抱かれるのは俺とはいってもそういった経験はこちらの方がある訳だし、彼をリードするのも俺だろうと…そう高を括っていたのだけれど。
挿入しない、ただ触り合うだけの行為で…まさか俺があんな事に───七基くんがあんな風になるなんて。
その頃の俺には、そんな事が予想できるはずもなかった。
「…なに考えてるの」
彼の声にはっとする。思考に耽る余裕があるのかと咎めるように、七基くんの指先が俺の首筋に爪を立てる。
「っぁ、」
それはついさっき噛まれて、舐められたところ。そしてもう、気持ちいいと教え込まれたところだ。条件反射。パブロフの犬。快感を覚えた俺の身体がびくりと跳ねる。
そんな俺を見て幸せそうに…やさしく微笑む彼の顔がだんだん近づいてきて。
あ、と思った時にはもう唇が重なっていた。
「っ!はふ………ふぁ……んん」
すぐに舌が捩じ込まれて、俺の口内を好き勝手に蹂躙する。いつもの七基くんがしてくれるふわふわした優しいキスとは全く違う、乱暴で性急なキス。息継ぎの暇さえ与えられていないそれが…けれどもどうしようもなく、気持ちいい。
口付けは更に深くなる。ぐちゅぐちゅ、じゅうっと耳を塞ぎたくなるような激しい水音は鳴り止まず。舌が何か別の生き物かのように口の中で動き回っている。上顎を執拗に舐められて背筋にびりっと快楽が走る。舌が絡まり合って解けなくなって、彼の唾液まで甘く感じた。何も考えられなくなって脳内がどろどろとアイスクリームのように溶けていく。気持ちいい、きもちいい。もうそれしか考えられない。
ああ、でもこれはダメだ。きもちよすぎて…ダメになってしまう、かも。
「んぐ、ちゅ、ぁん、んむ……ぷはっ………ま、まって!」
何とか唇から逃れた俺の静止に、七基くんは渋々といった様子で動きを止めた。彼の瞳から少しだけ熱が引いていく。
口端から伝った涎を親指で拭う彼は、何だか凄く色っぽくて。こういうのを男の色気って言うのかな…ってそうじゃなくて。俺が言いたいのは。
「………き、きもちよすぎるから。ちょっと…待って」
それともうちょっと手加減して、と言葉を続けてちらりと彼を見る。今の俺は顔どころか多分全身が真っ赤だし、息も全力疾走した時のように上がっていて…きっと物凄く情けない姿をさらしている。
七基くんは何故かごくりと喉を上下させ、さっと俺から目を逸らした。
「…すみません」
やりすぎましたと項垂れる彼に何だか俺の方が申し訳ない気持ちになってしまう。別に責めている訳ではないのだ。ただ…気持ち良すぎておかしくなりそうだったから怖くなっただけで。
二人で並んでベッドに座り直す。彼の横顔は少し落ち込んでいるように見えて、俺の中の良心がちくりと痛む。
…七基くんがこうなってしまうのは初めてではない。
彼と初めてホテルで触れ合った時も同じだった。
どうやら彼は、一度理性を失うとまるでスイッチが入ったかのように人が変わるようで。わかりやすく言うと…まあ、ドSになる。
あの日───ホテルのベッドの上で俺のものを扱きながら、「ここが弱いんですか?」だとか「すごい、硬くなってますね」だとか「今触ってるとこ、ここが楓さんの気持ちいいところですよ」だとか…狙って羞恥を煽っているとしか思えない彼からの言葉責めに俺は死にそうになった。比喩ではなく。あまりの恥ずかしさと気持ち良さに本当に死んでしまいそうだった。
…けれども別にそれが嫌という訳ではなくて。そりゃもう少し手加減してほしいとは思うけど。でも根は優しいままの七基くんは待ってと言えばちゃんと止まってくれるし…ただ気持ち良すぎて訳が分からなくなるからそれが怖いだけなのだ、という事はもう彼にも伝えてはいる。けれども真面目な彼は、たびたび理性を失ってしまう自分が情けなくて許せないらしく。今もしゅん…と悄気て小さくなってしまっている。その姿はまるで飼い主に叱られて反省している犬のようで。笑ってはいけないと思いつつもつい吹き出してしまう。
「…可愛い」
あ、やばい。口に出てしまった。七基くんはあまり可愛いと言われるのが好きじゃないから、普段はなるべく言わないように気を付けてるのに。…心の中ではいつも可愛いと思ってるけど。
恐る恐る彼の方を見る。彼の瞳にはさっきと同じような欲望の色が宿っていて…。
ああ、これは本当にまずいかも。
強引に押し倒されて、俺はまたもや七基くんを見上げる。
その時、下腹部に違和感を覚えて…そろそろと視線を向けると、そこには明らかに質量を増した彼のものがあって。
ぶわっと身体が熱くなり、頭の中が混乱し始める。
え、いや今の流れで…どうして?もしかしてキスしてた時から勃ってた、とか…??
「楓さんは、よく俺の事を可愛いって言うけど……俺、男ですよ」
楓さん、と呼ばれるのにはもうとっくに慣れたはずなのに。今はその声が全く違って聞こえた。
兆した彼のものが俺のと擦れ合って…それだけで、気持ち良すぎて。目の奥がちかちかする。俺のものも硬さを増していくのがわかる。服を着たまま、擦り付け合ってるだけなのに。それだけでこんなに気持ちが良いなんて。
「可愛いだけじゃ、ないんですよ」
劣情を多分に含んだ彼の声が遠く聞こえる。何を言われているのかもよくわからない。彼が身体を揺するたび、俺のものと彼のものがどんどん硬く、熱くなっていって。イッてしまいそうになるのを何とか堪える。気付けば俺の腰も勝手に動いていた。挿れていないどころか手で触れてもいないのに。擬似的なセックスに湧き上がる快感を止められなくて。
もうこれ以上我慢はできそうもない。それは七基くんも同じだったのだろう、身体にまとわりつく布が邪魔になって俺たちはそれを勢い良く脱ぎ捨てる。ふたりで生まれたままの姿になる。
ギラギラと肉欲に塗れた七基くんの瞳が俺を射抜く。
───ああ、喰われる。
彼は腹を空かせた肉食動物で、俺は哀れな捕食対象。ベッドという名の皿の上で、今からぺろりと平らげられる、哀れな子羊。
…いや、哀れなんかじゃない。だって俺もそれを望んでいる。喰われる事を、喰われてひとつになる事を…望んでいる。
彼からの噛み付くようなキスを受け入れながら、俺はようやくひとつになれる悦びに浸る。
ふたりの身体が溶け合って混ざり合う。俺の中が彼によって満たされる。きっと…それはひどく気持ちがいいだろう。
夜はまだ、始まったばかりだ。
「………んん、」
窓から照りつける陽の光を感じて、重い瞼が徐々に開いていく。
そういえばまだこの部屋にはカーテン取り付けてなかったんだっけ、と頭の端で考えながら起き上がろうとすると、
「〜〜っ!」
突如腰を襲った鈍痛に、思わず枕に顔を埋める。
…重いのはどうやら瞼だけではなかったようだ。腰回りに広がる鉛のような倦怠感。昨日の引越し作業では、俺は軽めのものしか運んでいない。という事はやっぱり───
カッと身体が熱くなる。その痛みは昨夜俺と彼が繋がったという紛れもない証拠だ。というかお尻にも何だか違和感があるし。何かがまだ挟まっているような……
考えれば考えるほど自分の痴態が蘇ってきて、それを振り払いたくてぶんぶんと頭を振る。
この上なく恥ずかしい姿をさらしてしまった事は間違いないけど、でも。
しあわせ、だったな。
俺も彼も一回だけじゃ足りなくて、何度もお互いの身体を獣のように貪り合って。あんなに情熱的な七基くんを見たのは初めてで───
再び呼び起こされそうになる官能を何とか抑え込んでいると、コンコンとドアをノックする音と、「楓さん、起きてる?」と昨夜とはうってかわって爽やかな彼の声が聞こえた。
別にノックなんてしなくてもいいのに。でもそんな律儀な所も好きだなと思いつつ「起きてるよ」と腰に響かないよう気だるい身体をゆっくりと起こしながら返す。何だか声まで出しにくい気がした。…いやあれだけ喘いだらそうなって当たり前か。
ドアの開閉音と共に部屋に入ってきた七基くんは、コーヒーカップが二つ乗せられたトレーを持っていた。どうぞと差し出されたカップにお礼を言ってそのまま受け取ろうとするが、はっとして動きを止める。コーヒーをシーツにこぼしでもしたら大変だ。ベッドから降りて横に置かれていたサイドチェアに腰を下ろす。昨日は無かったはずのその椅子は七基くんが用意してくれたものだろう。そんな彼の気遣いに感謝しつつ。馨しい香りに癒されながら、受け取ったコーヒーを一口。
苦味と酸味の絶妙な味わいを舌の上で楽しむ。そのまろやかな口当たりにほっと心が落ち着いていく。
俺はどちらかというとブラックコーヒーが苦手だから、いつもミルクを入れる派だったけど。でも七基くんが淹れてくれるコーヒーだったら不思議とブラックでも飲めちゃうんだよね。
「美味しい…」という俺の呟きに、同じ椅子に向き合って座る彼は嬉しそうに口元を綻ばせて。
けれども俺と目が合うと気まずそうに視線を逸らす。昨夜の出来事が尾を引いているのだろう。
「…昨日はすみませんでした。俺、また暴走しちゃったみたいで…」
「ううん。俺もすごく気持ち良かったし……また、しようね」
頬をほんのりと赤らめながら謝罪する彼にそう返すと、ぼんっと音が聞こえそうなくらい急激に彼の顔が真っ赤になって…うん、ほんとに可愛い。あんなにぎらついていた眼差しもどこへやら。その瞳は今はチワワのように潤んでいる。昨夜のドSな七基くんとはまるで正反対の姿にきゅんっと胸の奥で音が鳴った気がした。…これがギャップ萌えというやつなのかもしれない。今にも消え入りそうな声ではあったけれど、彼は「は、はい…」と返事してくれて俺はとても満足した。
「その、えっと…」
その後も視線を彷徨わせていた彼だったけど、今度は俯いて…どうやら何かを言い淀んでいる様子だ。けれどもついに意を決したのかばっと顔を上げて。
「これからも、毎朝俺が淹れたコーヒーを飲んでください!」
……何だか凄く可愛い事を言われた気がして呆気にとられる。
というかその言葉の意味するところは、つまり───
「………それってプロポーズ、だよね?」
「プ、………えっ違、そんなつもりじゃ!いや違う訳でもないけど!!でもプロポーズだったらもっと格好良く…」
その後もぶつぶつと何事かを呟いている七基くんがおかしくて。どうやら彼にそういうつもりは無かったみたいだけど、俺は空いていた彼の左手をぎゅっと握りしめた。それだけでびくっと身体を跳ねさせるのが可愛い。手なんてもう何度も握ってるのに。それにキスだって何回も…というかもう口に出すのも憚られるくらい凄い事をしたのに。『スイッチ』が切れた彼は相変わらず初心でとても可愛い。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
もぞりと動いた彼の手が俺の手と絡まり合う。ふたりの体温が混ざりあってひとつになる。けれどもそこにはもう情交の名残は無くて、流れるのは幸福をこれでもかと詰め合わせたような空気。
「……はい」
しっかりと手を繋いだ俺たちは見つめ合って笑い合う。
やわらかな幸福感に浸っていると「ぐぅ」と気の抜けた音が辺りに響いて、そういえば昨夜は結局何も食べていない事を思い出した。まあ二回戦三回戦と激しい行為に耽った後、どうやら俺は意識を失っていたみたいだし…そうなるのも致し方ないというか。
けれども急に主張し始めた腹の虫に恥ずかしい気持ちになりつつ。七基くんは慌てた様子で「朝食ならもう用意出来てるんで!」と繋がれていた手を引いて俺をリビングへと連れていく。俺が昨日夕食を食べ損ねてしまったのを自分のせいだと優しい彼は気にしているのだろう。…気持ち良かったし幸せだったから全然気にしなくて良いんだけどね。
これからも……十年経っても二十年経っても、そしてその先もずっと───俺たちはこうして笑い合っているのだろう。
ふたりの幸せな日々は、これからも続いていく───