「はい。じゃ、かんぱーい」
「……か、カンパイ!」
いつもの居酒屋。ビールが並々と注がれたジョッキを高く掲げると、向かいに座る練牙さんもおずおずとオレよりも小さめのグラスを持ち上げた。分かりやすく肩を落とし、飼い主に叱られた犬よろしくしゅんと身を縮こまらせているその姿に、どうせ仕事でヘマでもやらかしたんだろうなと当たりをつける。無論、口には出さないけどね。硝子と硝子がぶつかり合う音がした直後、彼はぐいっと勢い良く酒を呷った。あーあー。そんな飲み方してたらすぐ潰れちゃいますよ?ただでさえ雑魚な犬が糞雑魚にグレードアップ、なーんて。いやダウンか。はは。
「てん〜!!!きいてりゅかぁ!?」
「はいはい、聞いてますよー」
ほら、言わんこっちゃない。ビール、チューハイ、日本酒。その他複数の種類の酒をちゃんぽんしまくった結果、飲み始めてから三十分も経たないうちにこの状態だ。もはや悪酔いする為としか思えない飲み方。発注ミスだか何だか知らないけど、たかが仕事でポカした程度でここまで自棄になるもんかね。出来が悪いくせに責任感は人一倍強いとか、難儀な奴だよね、ほんと。
顔を真っ赤にしたまま机に突っ伏す練牙さんはあまりにも無防備で、警戒心なんて微塵も感じられない。我ながらよくここまで手なずけたなーと思う。
オレの手によって首輪をつけられた野良犬は、酒精を纏いとろんとした瞳のまま、ふにゃりと口角を上げて。
「てんは……すごいよな、要領もいいし、仕事もできて、」
「えー?そんなことないですよー。オレは練牙さんの事、尊敬してるんですから」
その馬鹿みたいに真っ白な心の綺麗さに、ね。
オレの言葉の裏に隠された真意など露知らず、練牙さんは焼酎を片手に嬉しそうに口元を綻ばせている。そんな事を言ってくれるのは添だけだ、とか何とか言って。 ……ほーんと、頭のおめでたい犬。てかまだ飲むつもりなわけ?
「お、オレだっててんのことはそんけいしてるんら……」
「あはは。ありがとうございまーす」
「……オレも、添みたいになりたかった、な……」
………………は?
酒で濡れたその唇から、何気なく紡がれた言葉。
これといって深い意味など存在しない、無知ゆえの浅はかなその一言が。
まるでオレの脳という名のさかずきを、少しずつ酒で満たしていくみたいに。ゆっくりと蝕むかのように、じわりじわりと熱くしていった。
「……オレみたいに、ですか。へぇ、そっか。それはそれは……」
「てん?」
「あー、すいません。俺ちょっと急用を思い出しちゃって。そういう訳なんで、それじゃ」
強く握りしめ過ぎたせいかよれた札を卓上に置く。
もはや電子決済が当たり前の世の中だ。今ではほとんど出回らなくなった紙幣も、この店にはお似合いだろう。何せ今の時代に紙のポイントカードとかいう遺物が未だに現役な訳だし。
オレを引き止めたいのか、正面からじっと向けられる視線を無視して席を立つ。酒の影響か潤んだ色違いの瞳がオレを捉えて───ほんっと、オレの事大好きだよねこの人。
全身を焼かれそうなほどの熱を持った瞳を歯牙にもかけず、混雑してきた店内をこれ幸いと、森の中に木を隠すように。
オレはその場を後にした。
歓楽街のギラギラしたネオンが目に痛い。何とか客を引っ掴まえようとギラギラした目で声を掛けてくる女どもも、まあ別の意味で痛いけどね。そんな脂粉の香りが漂ってきそうな、噎せ返るほど欲の渦巻く通りの中で突然姿を表したのは何の変哲もないビジネスホテルだった。何ていうか、風俗だのラブホだのが溢れ返ってるこの辺りじゃ逆に目立つっていうか。
でもま、それが逆に面白いかもね。なんて普段は全く機能していない好奇心を擽られて、開いた自動ドアへと誘われるように足を踏み入れた、その時だった。
「んぁ……?今はそれどころじゃないんら……ともらちを、探してりゅから」
「まーまーそう言わずに!お兄さん、すっごい綺麗な顔してるからさ〜、ひと月で百、いや二百は稼げちゃうかも!」
「んー……?ひゃくえん……??」
「あっはは!そんなワケないでしょ〜。万だよ万、ほんっと面白いね〜お兄さん!てかよく言われない?モデルの西園練牙に似てるって───」
背後から雑踏に紛れて聞こえてくる声にため息を吐く。頭が痛くなりそうだ。
尾けてきてたのは知ってたけどさ、予定調和にも程があるでしょ。あー、めんどくさ。
何が起こっているのか全く理解できていない犬と、それでもなおしつこく食い下がるキャッチ……いや、スカウトか。傍から見てる分には面白い構図のはずなのに、こんなに苛つくのは何故なのか。
その苛立ちを、仮面の下に覆い隠したまま。何度目かも分からないため息を吐きながら、オレは耳障りな喧騒の中へと身を投じた。
「……この人、オレのなんで。勝手にちょっかい掛けないでくれます?」
腰を抱くようにして、ぐいっと練牙さんをオレの方に引き寄せる。酒が入っているせいもあってかぽかんと惚けていた彼は、言葉の意味をようやく理解した様子でじわじわと顔を赤くしていき───夜なのに真っ赤になってるのが丸分かりなんだけど。はは、おもしろ。
「ちょ、ちょっと!何なのキミ、急に出てきて……!俺はまだ彼に話が、」
そのまま踵を返そうとしたところで強く腕を掴まれた。暗くて色までははっきりと分からないが、よくある形の背広とネクタイに身を包んだ男。その姿だけ見ればどこにでもいる営業マンといった風体だけど。でも一目見たら分かるんだよね、本物か偽物かっていうのは。
汚い手で触んじゃねーよ、という意味を込めて。これ以上踏み込ませないように、壁を作るように。サービスするつもりでニッコリと満面の笑顔を向けてやった。
すると途端に気勢を削がれた様子の男に笑いそうになりながら。さっきまではあんなに鼻息荒くしてたくせにね。手の力が緩んだその隙に振り解き、練牙さんの腰を抱いたままさっき見つけたビジネスホテルへと足を進める。オレ達はそういう関係なんですよー、と見せつけてやるようにして。
背後には途方に暮れたように立ち尽くす男。ふわりと吹き抜ける夜風。隣りには顔を火照らせたままの憐れな犬。
さっきまではあんなに苛ついて昂っていたはずの感情の波が、すぅっと引いていくのを感じた。……オレってもしかして、結構単純だったのかもね?
ホテルまで僅か数メートルの距離が、足元のおぼつかない犬と一緒にいるせいか長く感じられた。けれどももう、あの男が追ってくる事はないだろう。そう確信しながら、音もなく開いた自動ドアを横目にしつつ。
犬につけられた見えないリードを引っ張るようにして、オレはフロントへと歩みを進めた。
適当に選んだ部屋の中は外観に違わず整然としていて堅苦しい。ホテルなのに全く落ち着ける雰囲気じゃない、というのがちょっと笑えた。ほんと、何でこんな風俗街に店を構えてるんだろうね。清潔に設えられたダブルベッドの白いシーツが、照明の光を通してやたらと眩しく見える。
室内をずっとうろうろして、どうにも手持ち無沙汰な様子でさっきから浮き足立っている練牙さんを前にして。面倒臭いとは思いながらも仕方なく口を開いた。
「───練牙さん、シャワーでも浴びてきたらどうですか?」
「…………て、てん、その……」
「ん?何ですか」
「……お、オレって!添のものだったのか!?」
は?何言ってんだこいつ。
ずっと様子がおかしいとは思ってたけどさ。部屋に入って開口一番に聞く事がそれかよ。
「あー……冗談のつもりだったんですけど」
「じょ、冗談だったのか!!?」
「…………何なら、オレのものになってみる?」
ついっと人差し指で犬の顎先を持ち上げながら問う。ほとんど変わらなかった彼の目線が上を向く、と同時にさっきの熱がぶり返したかのように綺麗な顔が薔薇のように真っ赤に染まっていた。あ、とかう、だとか意味の無い言葉を発する形の良い唇に笑いを堪え切れず、思わずふっと吹き出す。
「冗談ですよ、ジョーダン」
「ま、また冗談……!?」
「ほら、良いから早くシャワー浴びてきてくださいよ、酔い醒ましには丁度いいでしょ」
ね?と小首を傾げながら机上に置かれていたバスローブを手に取って押し付けると、彼はどこか物言いたげな様子ではあったが渋々シャワールームへと向かって行った。
ホテルに2人きりとかいう、女相手ならまあこのままセックスすんだろうなって場面だけど。
いくら顔が良くても練牙さんは男な訳で。最近じゃ同性同士も珍しくないとはいえあの犬には色気なんて皆無だし、流石にそんな気が起こる事は無いだろう。
……なんて、思ってたんだけどね。
───オレも、添みたいになりたかったな。
脳髄に痺れが走るように、その時ふと思い出したあの言葉。
オレみたいに、ねぇ。
ほんと、何も知らない犬はお気楽で良いよね。
酔っ払って前後不覚の状態に陥りながらも、それでも……あの目は確かに、オレの事を見ていた。熱に浮かされたような羨望の眼差し。紅潮した頬。濡れて艶めく唇。触れなくても手に取るように分かる───彼から伝わるその温度が、熱くて。
「……そんなトコまで、『重い』のかよ」
なんて、嘲るように笑みを零しながら。ふと違和感を覚えて目線を下に向けると窮屈そうに突っ張った下衣があった。……あー、マジで最低。あの犬で抜く羽目になるとかさ。いくら何でも趣味悪すぎでしょ。まあでもこのままにしておく訳にもいかないし、と仕方なく着ていたスラックスごと下着をずらす。すると勢い良く飛び出てきた性器を引っ掴み、適度に力を入れたまま左手で上下に扱いた。
「……………は」
ただただ、射精を促すためだけの雑な手の動き。そのままこの生産性の無い行為に没頭して、犬の事なんて頭の隅に追いやってしまえば良かったのに。
だというのに、何故。
「っく、」
……ああ、そうだ。
あの人にコレを咥えさせてみればいい。今時のトモダチなら普通にやりますよー?とか何とか言って。頭の足りない犬の事だ、馬鹿正直に信じて顔を真っ赤にしながらもオレの言葉にコクリと頷くだろう。
飴玉でも舐めるように、彼の熱い舌がオレの欲望にまとわりついて……。
ガタンッ
手の動きを速めて飢えを満たす事に躍起になっていると、不意に聞こえた物音によって強制的に思考が遮断される。
面倒に思いながらも緩慢な動作で首を曲げると、そこには呆然と立ち尽くす練牙さんの姿があった。……こいつの気配も分からないとか、どんだけ没頭してんだよ。
まるで中学生のようだと吐き捨てながら目線を下にやると、そこには黒々と光るドライヤーが落ちていた。さっきの物音はこれのせいだろう。犬はオレと目が合うと、慌てたようにぎゅっと瞳を閉じ勢い良く顔を背けて。
「おおおオレは何も見てないぞ!そうだ、よ、用事を思い出したからオレ、外に出て───」
上擦った声のまま捲し立てる彼をじっと射すくめた。途端に蛇に睨まれたカエルのように固まるその姿に思わず笑いそうになる。真っ赤に上気した顔は湯上がりのせいだけではなく───否、オレのせいだろう。その頬に手を伸ばして、オレはゆっくりと口を開いた。
「練牙さん。オレと気持ち『イイ』事、しませんか?」
指先に、玉のような肌の手触りを感じながら。
バスローブを身につけた彼の首筋から雫が垂れて、鎖骨の窪みへと流れ落ちていくのが見えた。