ふりだしに戻るうぃん。
気の抜けた音と共に窓から顔を出した王馬を見て、最原は「なんか人間みたいだな」と思った。
月も傾く午前二時、街によく馴染むはずの軽自動車が藍色の闇に浮いている。
ぬるい室温の寝苦しさに目を覚ました最原の着信が鳴ったのは、ほんの半刻前のことだった。通話ボタンを押すや否や何かを捲し立ててくる声が寝起きの頭に痛い。出なきゃよかったと咄嗟に後悔したものの、王馬を相手に寝たふりを貫くほうが厄介を招くのは経験済である。
散らかった話をどうにか要約したところ、「今から家に行く」のひとことで片付く話だった。拒否権のない最原はぼんやりと王馬を待ったが、まさか車で来るとは思うまい。
「一応聞くけど、免許はあるの?」
「あるに決まってんじゃん。ほら」
素直に差し出された免許証の中で王馬が澄ましている。丸みを帯びたゴシック体で刻まれたフルネームは、二年間と数カ月も見てきたはずなのにまるで違う名前のようだ。
それから、過ぎて半月も経たない王馬の誕生日と、何度探れど大まかな方角の見当すらつかなかった彼の住まい。ありありと書かれたそれを脳内の地図と照らし合わせるより早く、裏返しにして押し返す。備考欄はまっさらだった。
似合わないなと思う。教習所に通うのも試験を受けるのも、スカーフを外した姿でカメラの前でじっとするのも。普通に生きる大人みたいで、ちっとも王馬に似合わない。
「……本物?」
無礼極まりない疑いをかけられ王馬は笑う。どっちだと思う?そう問われ最原は考える。答えを探すように見上げた視界の端っこで月が明るい。本物でないと困るし、本物であってほしくない。どちらも本心だった。
「いつまでそこに突っ立ってんの?免許証まで見せてあげたんだから早く乗ってよね」
短く鳴らされるクラクションの軽快さに幾らか落ち着きを取り戻した最原は、ぎこちなくおじゃましますと宣言してから車内へ片足を踏み入れた。体を包む新車のにおいは化学っぽくて好ましくない。愉快そうに返される歓迎の一言とは裏腹に、硬いシートは来客を拒んでいるようだ。一瞥した車内はただ一言殺風景で、おもちゃ箱のような机やロッカーと持ち主が同じだとは到底思えなかった。
ゆるい長袖にハーフパンツを履いた王馬が、大人しくシートベルトに縫い付けられている。知らない姿ばかりだと目を瞬かせる最原を彼は急かす。シートベルトをしないと出発できないと、至極まともなことを言われてまた面食らう。
戸惑いながら引き出したシートベルトはひんやりしてさらさらで、最原はふと見上げた月のことを思い出した。近いようで手の届かない存在にもし触れたとして、その感触が案外身近なところにあったとしたら、僕はきっとがっかりする───風もない夜が最原の元へ取り留めのない考え事を運んでくる。ひょっとするとまだ夢を見ているのかもしれなかった。やさしくて居心地が悪くて、朝になれば消えてしまう、乳白色の夢を。そうであればいいのにと噛んだ唇はちゃんと痛い。
「しゅっぱーつ」
間延びした掛け声を合図に、ふたりを乗せた車はゆるやかに発進する。隣を見遣る気になれない最原は、フロントガラスの向こうへと視線を投げた。
最原にとって王馬は、埋まらないパズルのような存在だ。見せる要素のすべてが断片的で、ときどき繋がる。ピース数は定かでないし、完成させたものが王馬になるとも言い切れない───そんな感じの。
いま隣を見てしまったら、ひとつずつ拾い上げてきたつもりのそれらが崩れ去ってしまう気がした。
そのくらい、思いがけず見つかったピースを置く場所がわからないのだ。だからひとまず枠外へ。いつかおさまるべき場所がわかるまで、失くすことのないように避けておきたかった。
住宅街を抜けて駅前を過ぎ、学園とは逆の方向へ彼等は走り続けている。丑三つ時を超えてなおネオンのうるさい繁華街も遠退いて、とはいえまだまだ行動範囲内であろうに、徒歩とは勝手が違うのか同じ速度で流れる景色にいつまで経っても見慣れない。
いっそジェットコースターのように振り回して不安も安心も浚ってくれたらと思うが、生憎と運転はおだやかさを保っている。
それでも、いつもの調子で真偽が定かでない話に花を咲かす王馬の相手をするうちに最原の肩の力は抜けていく。クラスメイトの話、フィクションみたいな組織の話、神経を逆撫でるためだけの中身のない単語、聞き出さずとも筒抜けであろう最原の近況。座り心地の悪さも忘れるほどに見知った王馬がそこにいる。最原はそのすべてにツッコミとも相槌ともつかない返事をしていたが、終始どこかうわのそらだった。
一万人を超えるらしい王馬の部下のひとりが巻き込まれたという、ハリウッド映画さながらの事の顛末を一区切にして車内はふと静まり返る。
気付けば街の明かりも届かないほど遠くへ来ていた。行き先を尋ねてもよかったが、向かう先がどこであれ引き返す術はない。ここで置き去りにされたらどうしようと常なら背筋を冷やしただろうが、今晩に限ってはそんな心配の必要もない。だからこんなにも落ち着かない。
溜息が窓を丸く曇らせた。控えめなエンジン音が誘う眠気に最原は口をすべらせる。
「王馬くんはもう、どこへでも行けるんだね」
王馬はきっと、王馬ひとりでどこへでも行ってしまう。小学生の妄想みたいな方法で、忽然と。
それは最原の腹の底に居座り続ける確信めいた予感であった。同時に、そうなったとていずれは再び自分の前に現れるだろうと思っていたのだが、ひどい自惚れだったようだ。
王馬小吉というひとは、その気になれば跡形もなく自分の前から去って行くのだろう。現に探偵としての才を認められてここにいながら、彼の住所ひとつ探り当てられなかったではないか。だから平然と差し出される免許証が憎らしかった。隠し通そうと躍起になってほしかった。
ふたりは特別仲が良いわけでもなければ友達でもない。からかわれてすこし怒って、嘘をつかれて真意を探る。たったそれだけのことで繋がっていて、そこに理解も信頼もないけれど、最原は王馬と過ごす時間を嫌いになれない。
なのに、ただ同じ教室にいるだけの関係値さえ王馬の手加減と気まぐれで成り立っていた。対等ですらなかったと、今の今まで気付かずにいた己の鈍さと他人への無関心さが情けなくて仕方ない。
ガラス越しの夜を見る。真っ暗で何もない。ラジオも音楽もかからない車内は王馬が黙れば静かなものだ。虚無に放り出されたようで心細いのに、自ら招いた沈黙を破る度胸が最原にはない。元より返答に期待しない、半ば当てつけみたいなねごとのつもりだった。
もう眠ってしまおうと閉じかけたまぶたを、王馬の声が引き止める。
どこにでも行くよ。最原の言葉が繰り返される。ひと呼吸おいて、王馬は続けた。
「最原ちゃんのところにもね」
音もなく車が止まる。信号は赤らしかった。
思わず隣を見る。ハンドルに頬を預ける王馬と視線がかちあう。やっとこっち見たと言わんばかりに、まるい瞳をゆるく細めて笑っている。
たとえば見透かされる悔しさを言葉にできたなら、今から何かが変わるだろうか───考えて、考えて考えて、二の句が継げずにいる最原を見て王馬はまた満足そうに笑う。
悔しかった。王馬のことを、人より少し理解したつもりでいた。
恥ずかしかった。わからないとわかることで、わかった気になっていた。
蓋を開けたらきっと、きちんと見つめてすらいなかった。それでも王馬はこちらを見ていた。同じ時間を過ごしてきた中で、王馬だけが。
泣きそうだった。自分ばかりが子どもみたいで。