苦味を打ち消す甘さ ふわりと甘い匂いがして、思わず目を瞬かせる。密着するほどに近付けば微かに薬草の匂いはするが、離れていてわかるほど匂いが──それも甘い匂いがすることは、今までなかった。
「どうかした?」
「い、や……何か、甘い匂いが……したような……?」
あまりにも平然とされると、そんな匂いがすると思っているのは自分だけなのではないか、と思ってしまう。困惑したまま言葉にし、自分のためにもこの男のためにも気付かぬふりをすべきだったのではないか、と思い至ったが、男は仕方なさそうな溜息を一つ吐いて口布をずらした。
「やはりわかるか」
「……薬か?」
強くなった匂いに少し近寄って嗅いでいると、軽く息を吹きかけられる。塗り薬ではなく飲み薬でこれほど匂いが残るのは、忍びとしてはあまり良くないのではないか。
「薬ではないんだけど……いや、口直しが必要な程度には味が酷い薬のせいではあるね」
毒も薬も俺より遥かに口にしてきているであろう男の言う、口直しが必要なほどの薬とは一体何なのか。聞いたところで伊作のような知識はないためわかるとは思えないし、この男も素直に教えてはくれないだろう。しかし口直しとして使われてる甘味は何なのか──あまり嗅いだことのない、甘さの強い匂いを不思議に思っていると、男は低く笑い出す。
「気になる?」
「っ、そ、れは、そうだろ……!」
ほんの僅かに顔を傾けただけなのに予想外に近く、無意識に近付いていたことに気付いて咄嗟に離れようとした体を、腰を抱くようにして引き止められてしまった。
少し仰け反った体勢のせいで顔が近いことに動揺しながらも、否定するのもおかしいと思い肯定して睨む。すると酔いそうなほどに甘い吐息の男は顔を近付けてきたため、反射的に目を閉じた。
「んっ……む……?」
「甘い?」
「……まぁ、甘い、けど…………」
当然舌を絡ませてくるのだと思っていたのに、軽く唇が触れ合っただけで離れ、腑に落ちないまま答える。甘さはかなり強く、あまり馴染みがない味だ。だからこそ口直しとして使ったのだろうか、と考えていると指先で唇を撫でられ、男に視線を向ける。
「口直しだと言っただろう。いつものようにしたら苦くて堪らないと思うよ」
「……そんなに言われると、気になるだろ」
甘味の正体も気になるが、僅かに触れただけでも感じる強い甘さを打ち消すほどの苦味とはどんなものか、気にならないわけがない。伊作ほどではないにしても、他の六年生達よりも多くの薬や毒を飲んできているのだ。それらの苦味を上回るものがあるのなら、経験しておきたいと思うだろう。
「はぁ……嫌がってもやめてやらないよ」
「苦味程度でそんな嫌がるわけな、んッ……」
服を軽く引っ張ると呆れたように言われ、子供扱いするつもりかと思って口にした反論は塞がれてしまった。
口内へ入ってきた舌先は唇よりも甘みが強く、思わず軽く吸い付くと揶揄うように舌先を撫でられ、ゆっくりと舌が絡め取られていく。それでも普段より絡ませる気がないようで、抗議するように舌を伸ばせば渋々といった様子で普段通りに舌を絡ませてきた。
「んぅ、ん……ッ、ん……? !? ~~~~~ ~!?」
混ざり合った甘い唾液を飲み込み、上顎を擽る舌を引き剥がすようにして絡ませると急に口内に強烈な苦味が溢れ、肩が跳ねる。
(にっ、が……っ! 何だこれ!?)
散々甘かっただけに舌が苦味に適応出来ず、逃げるように縮こまる。本当は唇を離してしまいたかったが抱き締めて阻止されてしまい、じっとしていられなくて抱き締め返す力を強めながら、こんな苦味を感じつつも平然とした様子の男を睨む。
口内をぐるりと舌で掻き回す男は楽しんでいるようだったが、予想外にあっさりと唇を離し、混ざり合った唾液が零れそうになって慌てて口を噤んだ。
「吐き出していいよ。苦いだろう」
体を離し、口布を戻しながら言う男を今度は真正面から睨む。口吸いをした直後に唾液を吐き出すなんて、薬のせいとはいえ気分がいいものではないだろう。無理矢理吐き出させてこないということは、飲み込んでも問題はないということだ。
そう判断して一気に飲み込み、あまりの苦さに思わず目を瞑り、身震いする。それでも唇は僅かに甘く、舐め取るように舌先を動かして目を開くと、珍しいことに男が目を瞬かせていた。
「飲んだの?」
「ん」
飲み込めないとでも思っていたのだろうか、と思いながら口を開けて見せれば、男はじっと見つめてきた後、溜息を吐く。
「そこを抜けた先にある道から学園へ戻れば、途中で団子屋があることは知っているね。団子で口直ししてから帰るといい」
遠回しに今すぐ帰れと言われ、顔を顰める。恐らく薬そのものを飲んだこの男より、感じている苦味は少ないはずだ。だからこそ団子程度の甘味で口直しになると言うことなのだろうが、もっと強い甘味を知った後では団子程度で上書き出来ると思えない。
「今ここで、口直ししてくれよ」
先程と同じく服を軽く引っ張り、少し咎めるように言えば男は僅かに目を細め、戻した口布を下げて顔を寄せる。
「同じ味になってしまったら口直しも何もないだろう」
呆れたようにそんなことを言いながらも、男は軽く唇を重ねて舌先同士を擦り合わせる。僅かな苦味を甘さで薄めながらも馴染ませていくような行為に、本当に同じ味になってしまうのではないかと思い、男の服を握り締めた。
味も体温も溶け合うような口吸いをしばらく続け、団子屋になど寄る必要もなく──恐らく寄ったところでもう売ってないと思えるような時間になり、急いで学園へ戻る。
「おかえり留三郎。遅かったけど怪我でもした?」
「ただいま伊作。怪我はしてないぞ」
にこやかに、それでいて探るような眼差しを向けてくる伊作に対し、苦笑いをしながら返すと頭の上から足先までじっと見つめられ、一度視線を外してから再び視線を向けられる。
「留三郎、何か甘い匂いしない?」
「あー……そうか?」
無遠慮に匂いを嗅いでくるが、甘味の正体を教えてもらわなかったので俺からは何も答えられない。どうやって言い訳をしようかと悩んでいると、伊作が至近距離で顔を覗き込んできた。
「蜂蜜?」
「はちみつ……って、あの蜂蜜か?」
蜜蜂の巣から採れるという液体は、確かかなり甘いものだったはずだ。そう簡単に入手出来るものではないはずだが、タソガレドキは何か伝手があるのか、それとも口直し程度の理由で入手出来るほどの財力があるのか。
(下手したら部下が購入しただけ、って可能性もあるな……)
今まで口直しなど必要がなかったということは、薬の種類をわざわざ変えたということだ。新たな怪我をしていた可能性もあるが、少しでも体を楽にさせるために模索しているということに違いはない。それだけあの男に対して気を配っているのであれば、部下達が金を出し合って購入していてもおかしくはない。
「留三郎?」
「っ、あ、あぁ、えっと……よく匂いで気付いたな?」
考え込みすぎていたことに気付き、一歩下がって当たり障りのない言葉をかける。俺の反応を出処を探られたくないのだと判断したのか、伊作は特に気にした様子はなく口を開いた。
「薬にも使われるから匂い程度ならわかるさ。もっとも、高価だから使ったことはないけどね」
予算があれば試したいんだけど、と苦笑いする伊作に同じように笑い返しながら、使われる機会がなさそうなことに安堵してしまう。
あの甘い匂いを伴った口吸いは、しばらく忘れられそうにない。