可惜夜 不揃いな長さの髪が、慣れた手つきで綺麗に結われていく。
頬杖をついてそれを眺めていたものの、どうにも面白くない。その感情のままに、結い上げられた直後に髪紐を引っ張り、再び髪を下ろさせた。
「何すんだよ。せっかく結ったのに」
怒ったように言いながらも構われたことが嬉しいのか、彼の表情は緩んでいる。手にした髪紐を置いて顔を寄せれば、当たり前のように目を伏せ、彼は酷くあっさりと唇を受け入れた。
「んっ……ふ……はは…………そんなに名残惜しいのか?」
唇が軽く触れただけで離れても文句を言わず、包帯の巻かれていない私の頬を撫でて顔を覗き込む眼差しは、愛おしさが溢れている。
今はそれが、心底不満だ。忍びたるもの本心を表に出すことは未熟な証であることはわかっている。数多の部下を抱える立場である自覚もある。しかし現状にそれらの事実は無関係だ。
「……まだ早いんじゃない?」
ようやく発せられた言葉がこれで、彼はおかしそうに笑う。それを咎めるように抱き寄せると素直に腕に抱かれ、幼子を宥めるように背中を軽く叩いてきた。
「朝早いって言ってあっただろ。ちゃんと調整してくれたくせに、引き留めんなよ」
その言葉に返答をしないでいると、彼は苦笑いを浮かべる。
久しぶりの逢瀬ではあったが、彼は翌日の早朝から忍務があるらしかった。そのため一度学園へ戻る必要があり、日が昇る気配すらない時間に動き出す必要があるのだと、会った直後に酷く残念そうに告げてきた。それを聞いた直後は珍しいこともあるものだと思った程度だったのだが、時間が経つにつれて大人気なくも引き留めたいという思いが強くなり──今に至る。
「……随分楽しそうだね。私を置いていくことがそんなに楽しい?」
酷く楽しそうな彼が恨めしく、視線を向けると笑いながら頬に触れ、顔を引き寄せて唇を重ねてきた。そんな仕草一つで許してしまいたくなるのだから、我ながら随分と彼に甘い。
髪紐に伸びる手を止めず、唇を離すと同時に離れていく体も引き留めずにいると、彼は緩んだ表情のまま口を開く。
「普段と逆の立場になるからな。俺の気持ちがわかっただろ?」
普段であれば、先に帰るのは私の方だ。彼に見送られる時もあれば、寝ている間に帰ることもある。
こうして戯れ合いながらも見送れるのだからマシな方だろう、と告げてくる視線に今まで不満を抱えていたことは理解出来たが、立場が逆転したと言うのならば物申したいことが一つあった。
「逆の立場なら、もっと後ろ髪引かれながら支度していないとおかしいだろう」
予想外だったのか、その言葉に彼は体を硬直させた。そんなにもあっさり帰っていた覚えはないのだが──いや、寝顔を眺めていたのだから彼は覚えていないのか。今までのことを思い返しながら近付き、彼の手から髪紐を取って髪を撫でつつ疑問をぶつける。
「まさか、私が何とも思ってないとでも思ってた?」
「い、や……だって、寝てていいとか言う時、あるだろ……」
「あれだけ帰ってほしくなさそうな顔をされたら、名残惜しくて離れ難くなるだろう」
朝から理性を試してくれることばかりな自覚はないのか。少し咎めるようにそう呟きながら、髪を結い上げる。他人にやるのはどうにも難しい上に、長さが均一ではないことでより一層纏まりきらず、ぱらぱらと落ちていく。
「……俺だけが寂しいのかと思ってた」
呟かれた言葉に一瞬手を止め、不格好ではあるものの髪を結い上げてから項へ唇を寄せる。ビクッと肩を跳ねさせながらも咎めない様子に、少し笑って唇を離した。
「髪のひと房でも連れて行ってやろうかと思う程度には、共にいたいと思っているよ」
そうしないのは、その程度では満足出来ない自覚が────彼自身を連れ出してしまえる自信があるからだ。僅かな欲で身を滅ぼすことになりかねない。そう思って踏み留まれる時に踏み留まらなければ、広範囲に様々な影響を及ぼすことになる。
「……そんなことされたら、自分の髪に嫉妬しなきゃいけなくなるところだったな」
苦笑いを浮かべる彼は、何を言っているのかわかっているのだろうか。理性を試すなと伝えたはずだが伝わってなかったのか。
あまりにも無防備な彼に灸を据えるため、唇を離したばかりの項へほんの僅かに歯を立てる。
「……っ!?」
「帰したくなくなるような発言は控えてくれないと、帰れないようにしてしまうよ」
本気で言っているわけではないが、出来ないわけではないことくらいはわかるだろう。服が乱れたら容易に見える位置に残る微かな歯型を撫でて言えば、振り返って赤らめた顔で睨んでくる。その表情も帰らせたくなくなるのだと言うべきだろうか。それとも言ってしまったら見られなくなるだろうか。見られなくなるのは惜しい。
「そこまで言うならさっさと帰る! あ、まだ寝てていいからな!」
羞恥を怒りで誤魔化し、普段言われているお返しと言わんばかりにそんなことを言いながら彼は服を整える。先程の空気など微塵も感じられない佇まいだが、髪だけ私が結った状態──つまり、かなり乱れたままだ。
「髪の毛は直さないで帰るつもり?」
いくら忍務中は頭巾をするとはいえ、その頭で帰るのは目立つだろう。外ならばまだ急いでいるのだと誤魔化せるかもしれないが、忍術学園内ではどう言い訳をするつもりなのか。
そんな私の心配など気にした様子もなく、戸に手をかけた彼は振り返ってにやりと口角を上げた。
「髪は連れて行かせてやらないけど、俺は結ってもらった髪で帰ってやる」
それが仕返しになるとでも思った顔で去っていく彼に、言葉をかけ損ねてしまった。すでに空が白み始めた外を駆け、あっという間に遠ざかっていく気配を確認しつつ、溜息を吐いて寝転がる。
ただ髪を結っただけだ──それもかなり不格好に。それが髪をひと房連れ歩くのと同等の価値があると言いきるとは、末恐ろしいと言わずして何と言う。
(……次やるまでに練習…………いや、彼で練習すべきかな)
ただ結っただけであれほど喜ぶのだから、他人で練習したなどと言えば拗ねてしまうかもしれない。それはそれで見てみたい気もするが、生憎私は彼の機嫌は損ねたくないと思う程度には、彼に甘い自覚がある。
(櫛でも贈ろうか)
櫛ならば普段でも女装の時でも使えるだろう。いや、贈りはせず私が彼に使う専用のものとした方がいい反応をするだろうか。
(……あぁ、これは彼が拗ねるわけだな)
この場にいないというのに彼のことばかりを考えてしまう自分に、恐らく今までの彼もそうだったのだろうと思い至り、彼の温もりが僅かに残る布団から名残惜しくも起き上がった。