慈雨と放浪ぽたり、ぽたりとシャツに小さな滲みができる。なんとなしに顔を上げれば、薄墨色だったはずの空は一部分だけ墨を垂らしたように浸食されていた。紫煙が空に溶けていく。
　早く目的地に向かわなければ。そう思いながらも足取りを早めることはしなかった。初期刀に天気が悪くなるようだから、早く帰ってくるんだよと言われていたのを思い出す。それは無理そう、と心の中で謝罪をしてまた煙草を咥えた。審神者になってから始めた煙草はすっかり生活の一部になってしまって、最早無しでは過ごせない。
　草花と土の匂いが強くなって、滲みができる頻度が短くなる。冷たいと思った時には手遅れで、髪もシャツもしっとりと濡れていた。髪が額に張り付いて気持悪い。駄目になった煙草を携帯灰皿に押し付けて、顔を拭う。滲んだ汗なのか雨なのか判別がつかなかった。
　審神者の放浪癖について、初期刀は何も言わない。ふらりと出掛けてしまうから、本丸が発足した当初は鬼の形相で怒られていたのだが、やがて諦めたらしく、無事に帰ってきてくれればそれでいいんだと審神者を出迎える。そうして温かいお茶を用意してくれるのだからいじらしい。
「いつも、待ってくれて、ありがとうね」
ぽつり、ぽつりと絞り出すように出した言葉は掠れていた。初期刀は目を丸くして微笑む。
「君にもそういう時間が必要だってことはわかっているからね」
急に居なくなられるのは困るけれど、と空になった湯呑みに追加のお茶を入れる。
「次は、ちゃんと言うから」
「そうしてくれると助かるよ、近侍の彼にもね」
「いつも一緒にいる訳じゃないでしょう」
「一番心配しているのは彼だろうに」
「ん、知ってる」
一口飲むと深い香りが広がって、前に好きだと言った銘柄を覚えていたのだということに今更気づく。
「もしかして君、わざとかい？」
「違うけれど……言ったところで心配するでしょう」
「それはそうかもしれないけれどね、それでも言って欲しいものだよ」
「そうかなぁ、」
そうだといいねと口の中で噛み締める。
それ以上、初期刀はそのことについて触れなかった。五年の年月は決して短いものではなかったのだと思う。全てではなくても、理解するには十分だった。
私が唯一選んだ、始まりの一振。刀の知識なんて何一つ備えていなかったものだから、一番美しいと思った一振を手に取った。ほとんど直観的なものだったにも関わらず、政府の職員に性質を聞かされた後でも、私の中には歌仙兼定以外の選択肢は存在しなかった。とはいえ、最初から相性ぴったり、という訳でもなく、むしろ衝突することが多かったように思う。
雅を己の美学とする歌仙と、風流は分からないけれど美しいものは全て愛でるべきものとする私。似て非なる精神を持つからこそだった。
例えば廊下。急いでいる時なんかは、ばたばたと音を立てて慌ただしく走り回ることが多く、その度に歌仙に怒られていた。風流じゃない、と。私は歌仙の言う風流が分からなかった。そういうものだ、と飲み込む他なくて、怒られるとそのわけを頭の中のメモに書き込んでいった。それでも頭の中のメモを取り出すのには時間がかかって、そうしてまた歌仙に注意された。
他人の好きなもの嫌いなもの、そういった趣向を覚えるのには自信がある方だった。超えてはならない一線を見極めるのに長けていたために、人には好かれた。上辺だけで良かったのだ。上辺だけでも人に合わせていれば、とやかく言われることもないから。
歌仙とだけはそれもうまくいかなかった。上辺を取り繕っても、共同生活という性質上、ぼろが出てきてしまう。歌仙のあずかり知らないところで地雷原を踏み鳴らす。
似ているからこそ分かり合えることもあって、万屋で食料を買い込んだ帰りに焼き物が並ぶ棚を二人であれこれ言いながら眺めるのは、習慣のひとつと化していた。大抵は眺めるだけで、（資金難のために）購入することはほとんどないのだが、一等気に入った焼き物を購入すると決めたときに見せる碧の輝きは、何より美しいと思う。