樹の下で眠る 目を覚ました時に最初に見たものは、男の胸板だった。
ぬいぐるみを抱きしめるようにがっちりと腰に手を回されているせいで身動きが取れなかった。男の柔軟剤と汗の香りに混じって草と土の香りがすることから、ここが野外であることを理解する。
どうしてわたしはこの男と野外で眠っているのだろう。
不自然に皺の寄ったシャツが、それが短くない時間であることを示していた。不思議に思いながら無防備に眠る水月くんの頬に触れてみる。
頬から下顎、それから唇。
指先で撫でるようにして下へ落としていく。乾燥肌なのか少しざらついていて、ずっと触っていたくなるとは言えない。けれど、わたしのものとは違う骨格が面白くて、なんとなく手を離せないでいた。
まばらに伸びた睫毛が微かに揺れる。
起こしてしまっただろうかと手を止めるが、まだまどろみの中に居るようでわたしは安心して彼を堪能する。夢に囚われたままの水月くんは平常より幼く見えた。普段が大型犬なら、今は子犬みたいだ。
わたしは水月くんのことを犬みたいだと思っている。
喜怒哀楽に応じてせわしなく動く眉と大きく開かれる口。愛嬌たっぷりで誰に対しても人懐っこい笑みを浮かべていて、水月くんが怒ったところは誰も見たことがない。普段は大人しいのにイベントでは一番積極的に動いて周りを引っ張っていく。さしずめバーニーズだ。
気恥ずかしくて本人には言えたものではないけれど。
胸に顔を埋めれば、とくん、とくん、と規則的な心臓の音が聞こえてくる。わたしは水月くんが生きていることに安堵して目を閉じる。
次に目覚めたときに最初に見るのは水月くんがいい。まだ眠気の残る頭でぼんやりとそう思うと同時に幸せだなと思った。地べたで転がる身体の痛みも、このぬくもりも、全てがいとおしい。
けれど自覚した瞬間に幸せは手のひらを抜けて零れ落ちてしまうのをわたしはよく知っている。
水月くんはわたしが初めてキスをした相手だった。
同じ中学に在籍していたのに、わたしたちが交わることはなかった。住んでいる場所もクラスも、部活も全部違っていて、共通点なんかひとつもない。通っている学校が同じだけの背景の一部に過ぎなかった。
高校に進学する際もどうやら同じ志望校の人が居るらしいという話を人づてに聞いたぐらいで、それが誰か知ろうとすらしなかった。重要だったのは友人たちの進学先で、他人のことなどどうでも良かった。
わたしが彼のことを認識したのは高校二年の夏が始まろうとする雨の日だった。わたしは雨の日が嫌いだったから、よく覚えている。
昼休みに図書委員として呼び出されたわたしは、図書室でひとり黙々と返却本を書架に戻していた。もう一人、図書委員が居たが体調が優れない様子だったので帰らせた。その図書委員の代わりに来たのが水月くんだった。
そのときのわたしと水月くんはクラスメイトだったが、顔と名前を覚えるのが苦手なわたしは同じクラスの人、としか彼を認識していなかった。だから名前を呼ばれたとき、わたしは面食らってしまった。
わたしの様子に水月くんは首を傾げる。
「あれ、違った?」
「ううん。合ってる。合ってるけど……」
名前を呼ばれるとは思ってなくて、とは言えなかった。わざわざ来てくれた相手にそんな失礼な真似ができるわけがなかった。
言い淀むわたしの返事を水月くんはじっと待っていた。急かすことなくわたしを見つめている。
「やっぱり、なんでもない」
「なに? 気になるんだけど」
「忘れて」
まだ書架に戻せていない本を手渡すと水月くんは肩を竦めて受け取る。わたしが何も言いたくないのを察したのか、それ以上聞いてくることはなかった。これを戻せばいいんだな、とひとりごとを呟いて書架の間を歩いていく。
手が空いたわたしはカウンターに行って名簿を探す。彼の名前を知りたいと思った。知ってどうするのかは考えていなかった。ただ、知ることから始めようと思った。
そうして名簿を開いてみたものの、多くの名前の羅列の中から彼にしっくりくる名前を見つけることは出来なかった。結局わたしが水月くんの名前を知れたのは、会議で席を外していた司書の先生が名前を聞いてからだった。
「水月、くん」
司書室で希望図書の集計を取りながらわたしが小さな声で反芻するとなあに? とにこにこしながら返事をする。呼んだだけだよ、と言えばそっかー、何かあったら呼んでいいからね、と頭を撫でられた。触られたことに驚くより先に、言葉が出る。
「わたしは妹じゃないよ」
「じゃあ何?」
「……クラスメイト。普通は、クラスメイトにこんなことしないよ」
「普通じゃなければいい?」
「そういう問題じゃなくて」
「どういう問題?」
とにかく、撫でるのを辞めてほしい。そう言おうとした口は水月くんによって塞がれる。キスされている、と気づいたのは水月くんが離れてからだった。
窓ガラスを叩きつける雨の音が大きくなって、世界の音がそれだけになってしまったような心地になった。向かい側に座っていた水月くんは体を乗り出すようにして机に手をついていて、わたしはぼんやりと大きな手だなと思っていた。
「ふ、変な顔」
そう言われてようやく事態を飲み込んだわたしは、どうして? と呟いていた。水月くんは答えない。わたしはもやもやした気持ちのままその後の授業を受けるしかなかった。