■の■■で■■■が■■■る。夏休みが終わって、きらめく日なたの時間が短くなり、そうこうしている間に時は過ぎゆき、あっという間に日が落ちるのが早く、肌寒くなった。
部活の完全終了時間が夕方5時半時、そこから着替えをしたりして完全下校が6時15分なので、帰る時間にはすでに辺りは暗くなりかけてくる。
「先輩、帰りましょう」
一つ後輩の喜多が、すっかり帰り支度を整えて、昇降口の前で軽く上下にホッピングしながら俺を待っていた。
「部活中は動いてるから暑いけど、汗かいた後って止まると途端に冷えますよね」
だからずっと飛び跳ねていた、と彼は言う。
「今そんなに寒がってたら、冬はもっときついよん。この学校、地味に山の上にあるから冬の寒さエグい」
「うわ、知りませんでした。最悪。俺、寒さにあんまり強くないんですよ。ほら、体温低いでしょ」
そっ、と確かめるように触れてきた手は冷たくもなく暖かくもなく、さらりと乾いていて人間の皮膚じゃないみたいだった。
学校の正門前から山を下るバスには乗らず、歩いて駅まで向かう。歩いても大したことのない距離だ。
一昔前に山を切り拓いて出来たニュータウンを抜けて歩く。老朽化が進んでどことなくくすんだ塀や家屋が建ち並んでいるのを横目で見る。
街灯が、ポッと音を立てて点った。
「うわぁ、先輩、空見て。……喰われてるみたい」
空の端にわずかに残った夕日のオレンジは濃い色をしている。それをさらに濃い紺色が浸食していくのを、喰われてるみたいだと表現する喜多は、うっすらと微笑んですらいる。
至近距離で、バサバサと羽音がした。俺は、子鹿のように驚いてしまう。
少し離れた場所で、カラスがカァ、と鳴いた。
「先輩、カラス苦手って言ってましたよね」
ふわりと芽を潰さないように俺の頭を庇った喜多が、クスクスとわらう。
「葉っぱ、食べられる度にトラウマレベル上がってる。夕方はあんまり襲ってこないけど、やっぱりビビるよねん」
「食べられても大丈夫なんですか?」
「しばらく調子悪いけど、いつの間にか復活する」
「……ふーん」
喜多はしばらく神妙な顔をして考え込んでいた。
街灯と、住宅から漏れる明かりのみの道が開けると、駅前の、やや明るく賑やかな場所に出る。
「先輩。俺、どうにかできますよ。カラス」
明るみに出る瞬間に、喜多が俺の耳にささやいた。
俺たちが学校を後にするときにバス停辺りで笑いさざめいていた集団が、次々に駅前のバス停に停車したバスのステップから下りてきていた。
喧かまびすしいその声にまぎれ、喜多の声は聞こえなかったことにしてもよかったけど
「生態系乱すのはよくないよん」
とだけ答えた。
「――そうですか」
少し残念そうに頬を膨らませて拗ねる喜多の横顔を見ながら俺は、初めて喜多と会った日のことを思い出していた。
* * *
その日は、なんとなく気が向いて、いつもは通らない道を通って帰ろうとしていただけだった。
夏休みの塾の夏期講習。折角ちょっと頑張って私立の中学に入ったはいいものの、部活に明け暮れて途端に勉強が疎かになった俺を心配した親に通わされている、短期間の補習コース。
本当はもっと部活に時間を割きたかったけれど、中学に入ってすぐの中間、期末の順位を見たら親が憂えてしまう気持ちもわからなくもなくて、部活を途中で早退して、この夏の後半は塾へ通っていた。
補習ですらちんぷんかんで、半ばもう投げ出したくなった帰り道、ちょっと真っ直ぐに帰りたくなくていつもと違う道に入った。
まっすぐ行って、大きな交差点を右に曲がって延々歩く、それだけの道なら、斜めに突っ切る方向に伸びるこの路地に入って行っても行き着く先は駅前なんじゃないかと単純に思ったからだ。
しかし、勢い込んで進んだ道は、実は全然まっすぐに進む道ではなかった。その事に気づいたのは、引き返すにはもうすでに億劫な程度の距離まできていた頃だった。
暮れかけていた空がどんどん夕闇に染まっていくのが不気味だったけれど、見上げた雲は普段見ることのない綺麗な色をしていて不思議と俺は上機嫌だった。暢気に、「これって山の方に進んでるみたいだけど、明らかに駅の方向じゃないんじゃないかなぁ。山に入れば、もっといい景色が見れるんじゃないかなぁ」なんて思いながら歩いていた。今思えば、治安的にアウトだろ、という山の方向へ鼻歌混じりで歩いていたということは、やはりちょっとヤバいことになりかけていたのかもしれない。
そんな俺を引き戻したのが喜多だった。
「何かに呼ばれてそこに入るんですか?」
山へと分け入る細い道の手前で、呼び止められた。
グレーアッシュの髪の、色の白い男の子。年の頃は、俺と同じくらいかいくつか上か。
「呼ばれちゃったんならそれなりの事情があるんだろうから仕方ないけど、そうでないならやめておいた方がいいですよ。多分、呼ばれた訳じゃないでしょ? 鼻歌歌いながらここ入っていく人みたことないですし」
「呼ばれる、とは?」
「わからないんなら尚更入らない方がいいんじゃないんですか。っつかこの前同じ小学校の子が左手やられたとこなんであんまり続くとちょっといやな感じというか。俺んち、すぐそこなんであんまり近所で事件起こされたくないっていうか」
「――……お前、小学生なの」
年下じゃん、とケラケラと笑うと、そいつは呆れたようにため息をついた。
「なんにせよ、とっとと帰った方が身のためですよ。ヘンなやつらがそこらへんうろつき始める前に」
「帰りたいのは山々なんだけど、今迷子中なんだよねん、俺」
こいつバカか?という顔で、そいつは俺の顔をしげしげと見た。なんだ、こいつ、ほっぺたに紅いぐるぐるがある。
「それ、そのほっぺたってオシャレでやってんの? それとも天然?」
「お守りですよ……って ほらぁ、日が暮れちゃったじゃないですか。もぉ、ホントとっとと帰ってください。送りますのでっ」
気がつけば、すっかりとっぷりと日が暮れていた。
そして、先ほどまでご機嫌だった俺の気持ちも、しゅん、としぼんでいた。
「――なんか、へんなの、いる」
「後ろ向かないで。目、合わせないで知らんふりして前だけ見て歩いて」
それでも目の端にしゃわしゃわ、と何かの触手みたいなのが蠢いて、俺はヒィッと悲鳴をあげた。
特に古そうな感じはしないのに明滅を繰り返す街灯や、ジジ……と漏電のような音を発する自販機、遠くから細く長く響く高い悲鳴のような風鳴と低く唸るような空気の振動。
喜多一馬、と名乗ったぐるぐるの子はそんな中を泳ぐように進んでいく。
「かわいい女の子とかじゃなくて不本意かもしれないけど、手、つないでおいてくださいね」
と言われるがままに繋いだ彼の手は冷たくもなく暖かくもなく、どこか作り物のようだった。
道中、喜多は、この町に伝わるコトワリ様という縁切りの神様の話や、町をうろつくへんなものについて俺に教えてくれた。
「他の学校区で、このあたりに近づいたらダメだって言われているのはそーいうあたりです。別に、ヤンキーが多いとか犯罪が多い、とかそういう治安が悪いって程度の話じゃなくて、もっと根深い、タチの悪い土地の神様がいるって話。実際に信じるか信じないかは別として、子どもが巻き込まれる事件が多いのは事実なので」
「――……」
「コトワリ様は、元々は縁結びとか縁切りの神様だったらしいですけど、ヒトの信仰が薄れてっておかしなことになっちゃってるんですよね。かなり暴力的というか。縁を切りたいと願って『ある言葉』を口にした場合、かなり強引な方法でそれとの縁を切りにかかります」
「強引に……」
「……生死が関わるとか、身体の一部持って行かれるとかそーいう感じですね」
そういえばさっき、喜多は同じ小学校の子が左手やられた、と言っていた。
背中がひやりと冷えた。
ひとしきり解説をした後、信じるか信じないかはあなた次第。と、テレビかどっかで聞いたセリフを吐いて、喜多は黙った。
俺はずいぶん平和なところで生きていたらしい。すっかり無口になった俺を気遣ってか、喜多が
「まぁ、俺の場合生まれた時からここに住んでるんで慣れてますし、これが普通なんで。住めば都、みたいなトコもありますから、大変そうだな、とか思わなくていいですので」とフォローを入れてきた。
「年下にフォローを入れられた……」
そう思ったら途端にものすごく情けない気持ちがこみ上げ来て、堰を切ったように泣けてきた。滂沱の如くボロボロと泣けてきて、なんか、これはおかしいぞ、と思った瞬間、喜多が険しい顔をして「これはまずい」と言って俺もろとも、道端の看板の裏に転がり込んだ。
「なんか、おかしいな、って思ってたんですけど、やっぱり先輩、コトワリ様に呼ばれてたっぽくないですか?!」
「先輩……」
「年上なので先輩でしょうが!」
突然のことにポカン、としてしまう。
あれ、涙引っ込んだ。
「ほら、神様が俺らを見失ったら大丈夫になった」
看板の裏からそろーっと覗くと、赤い鋏をジャキジャキ言わせる異形の何かが物凄い速さで駆け抜けて行って腰を抜かした。
「なんか、最近嫌なこととかありました?」
ーー嫌なことなんて、いっぱいあったよ。
小学校のとき、頭にくっついている葉っぱが目立って虐められた。気にしなければ済む程度ではなくて、学校生活に支障が出るくらいに。危害を加えられそうになって、これはもう逃げるが勝ちだ、ということで中学は親にも相談して私立に行くことにした。中学に上がってからはそれまでみたいないじめはなくなったけれど、その代わり勉強についていけなくなった。元々、そんなにポテンシャルが高い方ではなかったし。部活だけが心の拠り所だったけれど、それにも100%打ち込むことが許されなくて。
こんな生活『もういやだ』と思ってた。
ひとしきり小声で話したら、喜多が深くため息をついた。
「あー……やっぱりNGワード踏み抜いてましたねぇ」
「NGワード?」
「『もういやだ』って言っちゃったんですよね……」
「言ったかもねん」
喜多は、しばらく神経質そうな仕草で、親指の爪を噛んで考え込んでいた。
「でも、ソッコーでやられなかったのって、先輩は何らかの形で守られてはいるんだと思います。……おそらく、その葉っぱに。ああ、だから、直接呼ばれてる声は聞こえなかったのか」
喜多が葉っぱに手をかざして、うん、と納得したように頷いた。
「うん、やっぱり強い、この子」
じっ、と喜多が俺の顔を見た。
白くてきめの細かい肌の上に、鮮やかなぐるぐるをのっけた喜多は、よく見るととても整った顔をしていた。シュッと切れた目尻の跳ね上がりが少し狐っぽくて、神様の使いみたいだな、と思った。コトワリ様はお稲荷さんではないだろうけど。
「お前、イケメンね」
そう言ってやると、渦巻きの下あたりの頬がポポポッと薄ピンクに染まった。それを見たら、俺の方も急に恥ずかしくなって頬が熱を帯びた。看板の裏で小さく身を寄せ合って、頬を染め合って手を繋いで、俺らは一体何をしてるんだろうか。
あー、とかうー、とか言っていた喜多が、ようやく顔を上げた。
「あの、ここから逃れるためにはコトワリ様に五体満足な形のものを差し出すとひとまずは引き下がっていただけるんですけど、ワラ人形かなんか持ってます?」
「普通の町で普通に育った子がそんなの持ってる訳ないよねん?!」
「聞いてみただけです。でも、ないなら仕方ないかぁ……」
喜多が、真剣な顔をした。
「先輩。俺と、縁を結びませんか」
ポケットから、喜多は一体の小さな人形を出した。ほっぺたにぐるぐるのある、忍者のような服を着たマスコット人形。
「1人なら、これ一体で逃れられるんです。でも、俺は先輩を助けたいので、縁を結んで、1つとしてカウントされればなんとかなると思います」
「縁を結ぶ……」
「一生のお付き合いをしよう、ってことですよ」
「さらりと重たいこと言ったね」
俺の手を握った喜多の手は、相変わらず温度がない。逆側の手で、喜多は手にしたマスコット人形を落ちつきなく揉みしだいている。
「――それは、大変なことではないのん?」
俺と喜多との間に、幾ばくかの沈黙が横たわった。
「……大変なことですね」
なんとなく、なんとなくだけれど、喜多の温度のない手が、いつか熱を帯びたらいいのに。と思った。
だから――
「まぁ、いいよん。縁、結ぼう」と、申し出を受けた。
そこからはもう一瞬だった。
喜多が、マスコット人形に何かを語りかけて、空に高く放り投げた。その首が一瞬にして切り飛ばされて夜の闇に吹っ飛ぶ光景と、闇の中に染みこむように消え失せた異形の、機械油と焦げた何かみたいな残り香。
「これで大丈夫ですよ」
喜多がそう言って手を引き、看板の裏側から俺を外界へといざなった。
喜多は、異形が消えていった跡に落ちていた、小さい紅い鋏を拾い上げて大切そうにポケットから出したハンカチでそれを包んだ。
「俺と縁を切りたくなったら、これ、使ってください。家に帰ったら、誰にも見つからないところに大事に保管しておいてください」
握らされた鋏は、喜多の手と同じ温度だった。
「駅まで送りますね」
白い横顔に紅くうずまきを乗せた喜多の、うっすらと笑みを浮かべる横顔を、俺はきっと、ずっと忘れることはなくて、これからの人生で何度も思い出すんだろうな、とその時ぼんやりと思った――
* * *
「先輩、今日は無口」
駅に着いた途端、喜多が気遣わしげに俺の顔をのぞき込んで心配そうな素振りをした。
「んー……なんか、カラスで地味にダメージくらった。あと、おまえと初めて会った時のこと、思い出してた」
「そりゃ無口になりますね」
あの出会いのあと、喜多とは頻繁に会うようになった。
塾へ通うことが苦痛でなくなった俺はなんとか二学期には勉強も持ち直し、部活に打ち込めるようになった。
そして、あの時期からなのに喜多は私立中学の受験をほとんど対策もせぬままクリアして、次の春には晴れて山吹中学の生徒となって、意気揚々とテニス部に入部してきた。
そんな喜多とあれよあれよという間に、ダブルスを組むことになってから戦績がぐん、と上昇した。
なんか、喜多と出会ってからいいことずくめだなぁ。本人には照れてしまって言えてないけど。
「……カラスのことなら俺がなんとかできるので、本当、本気でアレなら頼ってくださいね」
「すごく頼りにしてるよん」
これくらいは言ってやってもいいかもしれない。
改札へと向かう階段は、線路のすぐ脇にある。
一緒に帰る道はいつも駅の階段下まで。十五分に一本の電車がくるまで、階段下で喋って時間を潰す。
電車が来たら、俺は電車に乗って、喜多はここからまた徒歩で家路へとつく。
……あの、夜の異形が潜む町へ。
神妙な顔をした喜多が、口を開いた。
「先輩、ごめんなさい。いつか言わなきゃって思いながら今まで黙ってたんですけど、あの時、別に縁を結ばなくてもそのまま朝まで待つか、大人に助けに入ってもらえれば普通に逃がしてもらえたんです。だからいつでも俺を――」
喜多が続けた言葉は、脇の線路を通り抜けた快速電車の音で聞こえなかった。
「先輩がカラスに狙われるの、俺のせいかもしれません。先輩、俺と縁結んだから……」
「……それで済んでたとしても、俺はあの時おまえと結ばれること選んでたよん。あの鋏、もうどっかいった」
迷わずにそう返すと、喜多は、くしゃりと破顔して「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします……ずっと、先輩のこと守ります」と小さな声で言って握手を求めてきた。
握った手は、少しだけあったかかった。
そこから俺たちは何を話すまでもなく、しばらく電車がくるまで、どこか、もじもじとしながらその場に突っ立って雑踏の音を聞いていた。
もうすぐ、電車が到着するというアナウンスが入った。
あまりに喜多がしゅん、としているので、別れ際、俺は喜多の耳許でこっそりと囁く。
――それでおまえが満足するなら、いくらでも守ってもらおう。
「ねぇ。やっぱりあのカラス、やだなぁ。襲ってくるかも、って思いながら道歩くの『もういやだ』」
改札を抜けて、また階段を下りてから、ちょうど滑り込んできた電車に乗り込む。この時間帯はそこそこに混んでいる。
扉横の、狛犬スペースと呼ばれる場所に陣取って外を眺めた。
……喜多、嬉しそうにしてたな。
こみあげてくるなんとも言えない感情に、知らず口元が緩む。窓ガラスに映った自分と、コツリと額を合わせて目を閉じた。
そうだ。明日はちょっと早めに家を出て、駅から歩いて登校しよう。いつもは上りだけバスを使っていたけれど、敢えて歩いて。
喜多にもちょっと早めに行くよ、って連絡入れておかなきゃだ。あと、スコップも持参で、って。
だって、明日の朝には――
道の途中でカラスが死んでる。
~ fin ~