にょたゆり☔️🦁 獅子神敬さまは、私の最初のお客さまの一人だ。
美容専門学校の夜間課程を出て数年、派遣とはいえ運良く外資コスメブランドの美容部員として百貨店に配属された私は、その初日に、ブースの前でかちんこちんに固まっていた背の高い少女に声をかけた。
膝の抜けたスラックスに、サイズの大きすぎるおそらく男物のシャツと、ぶかぶかのジャケットを着て、高校生のようなローファーを履いた彼女は、「何かお探しでいらっしゃいますか」と声をかけた私に飛び上がって驚いた。
「あ、あ、あの」
「はい」
「……ごめんなさい、なんでもないです」
少女は大きな目をうろうろとさせ、それからぎゅっと口をつぐんで、すらりとした体を縮めるように背中を丸めた。
ローファーの踵を擦って後ずさろうとする彼女を、そのまま帰すのは、どうしても嫌だった。
私は背の高い彼女を下から覗き込むように言った。
「お客さま、リップをお試しになりませんか?」
「り、っぷ」
「口紅とも申します。よろしければ、お好みのお色をお探しいたしますよ」
にこりと笑ってみせると、彼女はぱちぱちとその大きな海色の瞳を瞬かせた。垂れたまなじりを彩る濃い金色のまつ毛が、かすかに濡れていた。
「でも、オレ、オレこんなとこ場違いで、」
「お化粧品をご覧になりたい方なら、場違いの方などいらっしゃいません。わたくしどもは化粧品を商っている、ただそれだけでございます。ご興味がおありなら、どなたでもわたくしどものお客さまです」
私はやや強引に彼女をブースの一番奥のスツールに案内した。背の高いスツールに腰掛けても、靴底がきちんと床に着いている。曲げられた膝は骨がはっきりしていて、ほっそりしたふくらはぎのラインがスラックスに浮いていた。
引っ詰められていても美しい金の髪に、前髪の陰で光る南の海のような大きな瞳、肌荒れを差し引いても大輪の牡丹のような華やかな顔立ち。
ただ着られればいいと言った服装と、それに包まれた伸びやかな肢体。
私には彼女の事情は何も分からない。詮索してもいけない。だがそれでも、彼女がとてもとても勇気を出してこのブースにやってきてくださったのだということだけは、痛いほど分かった。そんな少女をこのまま、嫌な思い出を抱えたまま帰すわけにはいかないと、ただそう思ったのだ。
獅子神さまはその日、四千円ほどのリップスティックをひとつ、お買い上げになった。美しいコーラルピンクの、甘い香りのする口紅だった。
以来十年近く、獅子神さまはこのブースによく通ってくださった。最初は初々しかった装いも、だんだんと垢抜けていき、それに伴ってお買い上げになるアイテムも増えていった。基礎化粧品からメイクアップアイテム、化粧小物までフルでライン使いをされるお客様は、それほど多くない。獅子神さまはコスメフロアでも有名な「上客」になっていた。
そのうちに、私は時々、自社の商品だけでなく、同じフロアの別ブランドの品をこっそり薦めるようになった。獅子神さまは「オレにはよく分からないから」と私やこのブースの美容部員の薦めるものをなんでも受け入れてくださるが、残念ながら我が社の商品も万能ではない。もっといいものがあるならば、それをお薦めしたい。私にとって、獅子神さまはそういうお客さまだった。
あの時の緊張に固まった、今にも泣き出しそうな少女が、花開くように大人の女性になった。
そのお手伝いをできたのが、そしてきっとこれからもそうできるのが、私には何より嬉しかったのだ。
「いらっしゃいませ、獅子神さま」
その日、獅子神さまは珍しくお連れさまとご一緒だった。獅子神さまより頭一つほど背の低い、黒髪の、華奢な女性だった。隙のないパンツスーツによく磨かれたミドルヒールのサイドゴアブーツをお召しで、ハイゲージのVネックニットにマーメイドスカートとジミーチュウのパンプスを合わせた獅子神さまとは、まるで対の人形のように不思議な調和を醸し出していた。
お連れさまは金縁の大きな眼鏡の奥から、赤みがかった瞳で私をじっと見つめた。
「今日はオレじゃなくて、こいつに見繕ってやってほしくてさ」
獅子神さまはお連れさまの背をとんと押して笑った。
「かしこまりました。どのような商品をお求めでしょう?」
「村雨、お前今なにもないんだよな?」
お連れさま——村雨さまは私からすいと視線を外すと、横目に獅子神さまを見上げてどこかうんざりといった様子で頷いた。
「言っただろう、獅子神。私は化粧の必要を感じていない。職業上不必要だし、場合によっては不衛生だ。日焼け止めだけあればいい」
「オレたちと出かける時に使ってほしいって話をしてんだよこないだからオレはよ! なあ頼むよ、オマエ一回納得しただろが。一式揃えたらオレがメイクはしてやるから。メイクした村雨が見たいんだよ。ばっちりメイクして、あのワンピ着たオマエとお出かけしたいの。頼むって。大体、オレの言うこと聞く約束だろ」
獅子神さまは村雨さまの肩をつかみ、切々と訴えた。獅子神さまがご友人をお連れになるのも、こうしてまるで駄々をこねるような仰りようをなさるのも、私は初めて見た。内心で感動に打ち震えているのはなんとか隠し通せたはずだ。村雨さまは、たしかに獅子神さまのご友人なのだ。それもかなりお近しい。
村雨さまは細い眉をきゅっと顰め、これみよがしに溜め息をついたあと、腕を組んで小さく頷いた。獅子神さまの顔色がぱあ、と明るくなり、つられるように村雨さまの薄い唇の端がわずかに上がった。
私は微笑みをたたえたままお二人をカウンターへお連れした。残念ながら今日はやや混み合っていて、人目を好まない獅子神さまをよくご案内する奥のスツールはもう埋まってしまっている。通路にやや近い席に村雨さまはお着きになり、獅子神さまは椅子を断られてその隣に添うようにカウンターにもたれた。
「基礎化粧品類はいかがなさいますか?」
「あー、その辺は今回はいいや。今オレと同じの試させてるとこだから、合うようならまた買いに来る。下地から頼んでいいか?」
「かしこまりました」
獅子神さまは基本的にここでしか化粧水もクリームもお求めにならず、かつ買い溜めをされるような方でもない。ということは、お二人は基礎化粧品をシェアしていることになる。ルームシェアなり同棲なりで生活を共にされているなら、環境は似ているもの考えて、ベースメイクのSPF・PA値は同程度のものをご提案するのがいいだろう。
村雨さまにお肌のお悩みなどを伺いながら——ほとんど全て「特に気になっていることはない」で終わってしまったが——下地とファンデーションを選び、ルースパウダーとチークを並べ、アイブロウペンシルとアイライナーをお出しし、アイシャドウはお色味を変えていくつか、マスカラとシェイディングは要らないと獅子神さまが仰せだったので、最後にリップをお持ちした。
リップスティック、リキッドルージュ、それにリップグロスのラインからいくつか、それぞれに村雨さまの肌色に合うだろうカラーを取り揃えて並べる。
マットやシアーといった質感の違いや使い方、色保ちなどをご説明すると、隣で獅子神さまが補足してくださった。
「こないだパン屋に行った時にオレがつけてたのはこれな。色は違うけど。で今日つけてるのはこっち、いわゆる口紅ってやつ。これは二タイプあって、発色がいいマットなのとシアー……ちょっと透け感のある色がある」
「あなたが今つけているのはマットとシアー、どちらだ」
「これはコーラルオレンジのマットだな。ただオレ、マットつけてもあんまりマットに見えないんだよな」
それはリップの質感が獅子神さまのお顔立ち全体の雰囲気に負けているからだ。獅子神さまは基本的にシアー・ツヤ系の質感がお似合いになるが、全体をそちらでまとめて鏡をお渡しすると、必ず「なんか弱そうじゃないか?」と仰る。獅子神さまにとって、メイクは一種の武装でもあるのだろう。どちらかといえば柔らかな印象でまとめるのがよいのではと私は思っているが、獅子神さまのお好みはもう少しクールな、強さのあるメイクであるらしい。
そこでアイライナーの色を強めにしてやや太く引かせていただいたり、アイブロウを少々地毛より濃いめの色で仕上げることをご提案させていただいたりしている。マットリップもそのひとつだ。あえてお顔立ちや肌の質感にそぐわない要素を入れることで、印象をずらして引き締める狙いだった。
これはある程度功を奏したが、こうして製品の持つマットの質感が土台となる獅子神さまによって中和されるという少々愉快な事態を引き起こしている。
村雨さまは獅子神さまにさらにいくつか質問をされて、それからリップをお試しになった。
その都度獅子神さまはいたく真剣な顔で村雨さまのお顔を覗き込み、顎に長い指を添えて右へ左へ傾けさせ、村雨さまご本人よりずっと厳格に精査されていた。
「うーん……マットだと思うんだよな、村雨には。で青み系っつーか、バーガンディとかプラムっぽい色が……」
「もうなんでもいい」
四本ほどタッチアップしたところで、村雨さまはげんなりとしたお顔で仰った。けれど獅子神さまはそんな彼女に全く頓着せず、机の上に並べられた商品の数々を眺めると、「ちょっと取ってくる」と言ってお止めする暇もなく通路側のリップ商品コーナーに駆けて行った。
「なんであんなに熱心なんだ……」
「村雨さまにお似合いになるものを選んで差し上げたいのでしょう」
すると村雨さまはちらりと私を見上げた。
「なぜ私の皮膚一枚のことを彼女があんなに気にする? 私の顔はそんなにふた目と見られないような造作をしているか」
それどころか、お人形のようだった。少々痩せ形ではいらっしゃるが、その分骨の細い鼻筋や、大きな眼窩を覆う切長のまぶた、薄くて形のいい唇がどこか儚げで鋭利な雰囲気を醸し出している。まるで獅子神さまの対として作られたようだと、お顔をじっくり拝見して私はますます思う。
それにしても村雨さまは、非常に——少々恐ろしくなるほど——聡明でいらっしゃるというのに、ことこの件に関しては、獅子神さまのお心がお分かりでないようだ。
「皮膚一枚のことではございますが、それよりも獅子神さまは単に、村雨さまに何かして差し上げたいのだと思いますよ。村雨さまにご自分の選んだものを身につけていただきたいと言い換えることもできますが」
「……一般にそれは支配欲とか、独占欲とか言わないか」
「そのような場合も、まあございますね」
すると村雨さまは黙って眼鏡のつるを押し上げた。
微笑ましく思っていると、不意に獅子神さまの大きなお声がブースに響いた。
「興味ねえつってるだろ!」
はっとそちらを振り返ると、こちらに猛然と歩いていらっしゃる獅子神さまのすぐ後ろを、大柄な男性がにやにやと笑いながら追いかけていた。
「ねえ、そんなこと言わないでさ。てかお姉さん結構キツい人? 元ヤンかな? 俺そういう子タイプでさあ。いいじゃん、飲みくらい、ラウンジのバーでいいとこあるんだよ」
苦虫を五、六十匹噛み潰したような獅子神さまのお顔に、私はようやく状況を把握した。あの男の顔には見覚えがある。以前、他ブランドのブースで強引にナンパまがいの行為を働いてフロア中に注意喚起が出されたクズ野郎だ。今度来たら即警備員を呼んでいいと言われている。私は後ろ手で後輩に合図を出しながら、獅子神さまの前に出ようと足を動かしかけた。
「——獅子神」
ひどく冷たく通る声が、ブースを打った。途端に誰もが口をつぐむ。出しかけた足が、ぴくりとも動かなかった。
村雨さまはするりとスツールから降りると、ほっとした顔をしてこちらを見つめている獅子神さまに近づいた。
「探していたものは見つかったのか」
「ああ、……うん。これ。バーガンディで、でもやっぱマットだとちょっと重すぎるかもと思って、こっちはグロスなんだけど……」
獅子神さまの手のひらから新作のグロスをつまみあげ、村雨さまは蓋を開けてしげしげとチップを眺めた。
と、そこにクズ野郎の大袈裟な歓声が割り込んだ。
「えーっそっちの人女の子だったの? うわごめんね、見えなかったわ。そっちの子も一緒でいいからさあ、俺と」
男の存在を無視して自らグロスを塗り終えた村雨さまは、ほんの少々踵を浮かせて、ごく自然に獅子神さまにキスをした。
男がぽかんと口を開ける。
目を見開いて固まった獅子神さまに構わず、二度、三度と唇を押し付け、最後に少し擦るように食んで、村雨さまは踵を降ろした。
「——ああ、やっぱり、あなたにも合う色だ」
村雨さまは天使のように——あるいは悪魔のように微笑んだ。
我に帰った男が喚き出そうと息を吸った瞬間、村雨さまの視線が初めて男を向いた。
途端に男は吸った息でひいと喉を鳴らして後ずさった。
「それで、あなたは、私のおんなに何か用か?」
なるほど、こちらも独占欲だ。
よろけた男の後ろに後輩が呼んだ警備員が到着したのを見て、私は手を上げて合図をした。
お客さま前回も申し上げましたが迷惑行為はご遠慮願います、と流れるように連行される男は、まだ呆然とアホのように凍りついたままだった。
クズ野郎が去ると、途端に呪縛が解けたように獅子神さまのお顔がかーっと紅潮した。
「な、な、おま、おまえ、村雨ッ」
「獅子神さま」
私はその隣からそっと声をかけた。ほとんどパニックを起こした獅子神さまの、涙で潤んだ青い目が私を見る。
「ベースのマットなコーラルオレンジにシアーなバーガンディのグロスをお乗せいただく村雨さまのご提案、大変お似合いでございます」
数秒の沈黙ののち、獅子神さまの「バカーッ」という大音声がフロア中に響き渡り、私は心の底から微笑んだ。