赤い小鳥 1
男の子は何でできている?
カエルとカタツムリ
そして子犬の尻尾
そういうものでできている
❈❈❈
真吾は百目にメモを渡す。
「それをピクシー達に渡して、集めるよう頼んで欲しいんだ。」
「わかったモン。これは何を作る材料なんだモン?」
「新しく構築した魔術で試したいことがあるんだよ。」
メモに書かれた材料の数を数えながら、百目は不思議そうに首を傾げた。今まであまり見たことのない物ばかりだ。リストの一番最後に、ピクシー特製の強い鎮痛薬の名前がある。
百目のあどけない仕草に、真吾はフフっと笑った。
「お願いできるかな?なるべく早い方がいいんだ。」
「任せるんだモン!」
はりきって部屋から出て行く百目を見送ると、真吾は所狭しと本が積み上がった、重厚な飴色の書斎机に戻った。
通常が林ならばもはや密林と言える雑然レベルの机の僅かなスペースに、おびただしい量の計算式、図式、メモ書きで紙面が埋め尽くされた紙が散らばる。
真吾はその中から一枚を手に取った。そこには先程百目に話した魔法陣が書かれている。
真吾はふっと短く息を吐いた。何度綻びがないことを確認しても不安が残る。
数本の単魔術を重ね、それを土台とトリガーにして、一度だけ見たことのある二式の魔術を発動し融合させ、その器に最後の魔術一式を乗せる。理論上では可能なはずだった。器を構築する所までは問題ない事も確認している。
連携させる式はその一つ一つが複雑な構造を持つ魔術だ。それらが均等に干渉し、正常に稼働するかが最大の難所だった。
その工程は、検証実験はできない。失敗も許されない。
真吾は暫く魔法陣を見詰めると、広い書斎机の反対側に回り、積み上げられている本の下の方から一冊を引っこ抜く。上に重ねられた本は、だるま落としのようにストンと着地した。
紙を引き裂いただけの栞が何本も挟まるページをめくる。
脳内で何度もシミュレーションし、エラーを見つけては改修してきた。見落としは無い筈なのだ。
(こんなにも不安なのは本当に久しぶりだな。)
悪魔召喚に何度も失敗し悔しがっていたあの頃が懐かしい。疲弊しながらもどこか楽しいのは、あの頃の気持ちを思い出しているからなのかもしれない。
❈❈❈
百目から受け取ったメモを確認すると、ピクシーの二人は顔を見合わせた。
「急ぎだって言ってたモン。」
「用意はできるけど、不思議なリストだね。」
「凄く珍しい材料もあるよ。」
「悪魔くん、新しい魔術を考えたんだモン。」
約一ヶ月間真吾は書斎に籠もっていた。その間一歩も部屋の外に出ず、誰にも会わず、愛息子の一郎や大親友のメフィスト二世にさえ部屋の扉を開かなかった。真吾の引き籠もりはいつもの事だが、二人にも会わないのは初めてだった。
ちゃんと食べているのか、休んでいるのか、気を揉んでそれももう限界という所に、漸く部屋の鍵が開けられた。
やつれた笑顔で渡された紙。
悪魔くんは何か大事な事をひとりで抱えているのではないか、と百目は心配でならなかった。大人になった悪魔くんは隠し事が多くなった。何かに悩んでいても相談してくれず、訊いても笑ってはぐらかされてしまう。
昔は何でも話してくれたのに。
「学者に見てもらったら、悪魔くんが何をしようとしているのか分かるモン?」
「分かるかもしれないけど」
「分からなくていいよ」
赤ピクシーと青ピクシーはお互いを見てうんうんと頷き合う。
「きっと大事で必要な事なんだよ。」
「悪魔くんだもん。大丈夫だよ。」
「そうなんだモン?」
みんなは悪魔くんの事を信じている。百目も勿論信じている。ただ、無理をするから心配なのだ。何を考えているのか知りたいのだ。
(誰かに話して楽になる事なら話して欲しいモン。)
自分では頼りないだろうが、メフィスト二世や一郎になら打ち明けてくれるだろうか。
❈❈❈
百目から、真吾が扉を開けたと連絡をもらったので、メフィスト二世は仕事もそこそこに、消化が良く栄養価が高い弁当を作り急ぎ会いに来たが、生憎書斎に真吾の姿はなかった。
書斎机にもソファにもいない。床に落ちてもいない。
念の為に滅多に使わない寝室も確認するが、やはり姿はない。ベッドを使った形跡もない。
「何だよ、やっと久しぶりに顔が見られると思ったのに。」
体調のチェックもしたかった。真吾の健康は自分が支えていると二世は自負している。
溜息を吐いて応接テーブルの上に弁当を置くと、メフィスト二世は机の上に目を遣った。百目の話によると、真吾は一ヶ月間新しい魔術を構築するのに夢中だったのだそうだ。
飲食睡眠を忘れてどんな物を作っていたのだろうか。二世はヒントになりそうなものはないか半ば見付ける気もないで周囲を見回した。
本の塔は変わりない光景だが、心なしかいつもより片付いている。書き物をするための羽根ペンと常備されている無地の紙も綺麗に整えられている。書き損じや、作成途中の物もない。
二世は暖炉に目を遣った。そう少なくない枚数の紙を燃やした痕跡が残っている。書き損じは丸めて暖炉に放り込むのが真吾のいつものやり方だ。
ふむ、と二世は顎に拳を当てた。
その場で体をクルリと一回転し、部屋全体を見渡す。なんの異変もない、いつもの、やたらと物の多い埃っぽい部屋だ。
(一ヶ月間閉じ籠もってこの状態か。)
片付けたな、と云うのが感想だ。しかもいつもの散らかし具合に調節している。
(これは何かあったな。)
二世はまだ温かい暖炉の前にしゃがみ、炭になった紙を抓んだ。ポロポロと崩れて落ちる。
復元することも可能だが、二世は手をぱぱっと払うと立ち上がった。
解決策も見付けたようだし、隠したいのなら詮索するつもりはない。だが。
(言い訳くらいはしてもらおうかな。)
❈❈❈
ピクシー達が急いで集めた材料と薬を受け取ると、真吾はとても嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう、ピクシー、百目。とても助かったよ。急がせてごめんね、珍しい物もあったから大変だっただろう?」
こんなのなんでもないよと、ピクシーの二人は本の上で誇らしげに胸を張る。百目は心配そうに真吾を見上げた。
「悪魔くん、あんまり顔色良くないモン…メフィスト二世と一郎悪魔くんには会ったモン?二人とも、とっても心配してたモン。」
「一郎が?」
心底驚いた顔をする真吾に、今度は百目がびっくりする。
「当たり前だモン!悪魔くん、ずっと部屋から出てこなかったモン!」
「いや、多分一郎が心配していたのは僕じゃないよ。」
フフと笑う真吾の言う意味が分からない百目とピクシー達は目をパチクリする。
「どういう事?」
「それは誰?」
「ごめんね、秘密なんだ。」
一郎とメフィスト三世との約束なんだ、と困り顔になる。思わぬ三世の登場に、余計にわけがわからなくなった百目は全身の目をグリグリさせた。
「メフィスト二世には特にね。」
いたずらっぽく目配せする真吾に、何だか楽しい秘密の共犯者になったようで、赤ピクシーと青ピクシーは内緒だね!と確かめ合い、口元を抑えてクスクス笑った。
❈❈❈
翌日の朝、真吾に呼ばれて書斎に来た百目は、部屋に入るなり、テーブルの上に置かれた金色の鳥籠に目を奪われた。
美しい蔓薔薇の繊細な細工がキラキラと朝日を反射する。
鳥籠に思い切り顔を近付け、興奮して鼻から息をフンフン吹き出す百目に真吾は苦笑する。
「気に入ったかい?百目。」
「凄く綺麗だモン!悪魔くん、小鳥を飼うんだモン?」
「いいや、鳥は飼わないよ、閉じ込めたら可哀想だ。」
「この鳥籠なら小鳥さんも喜ぶモン。」
「そうかなぁ。」
さて、と真吾は杖を手に取る。
「しばらく留守にするから、もし誰かが訪ねて来たら僕はいないって教えてあげて欲しいんだ。」
「どこに行くんだモン?」
「具体的な場所は言えないけど、新しく考えた魔法陣を実験しに行くんだよ。一人で行きたいから、行く場所を知られてメフィスト二世に探しに来られたら困ってしまうからね。」
ボクは秘密守れるモン!と頰を膨らませる百目に、真吾はごめんねと微笑んで頭を撫でる。
「一郎悪魔くん達にも秘密なんだモン?」
「そう、これは僕の秘密なんだ。」
「悪魔くんは秘密がいっぱいなんだモン。」
そうだねと苦笑いすると、真吾は鳥籠を手に下げ、マントを被せた。一瞬少し顔を歪ませたように見えたが、じゃあ行ってくるね、と百目に向けた顔はいつも通りの穏やかな笑みだった。
❈❈❈
ベッドに小さな義父が埋まっている。義父がベッドを使っている姿を見るのはいつぶりだろうか。
枕元に立ち、両ポケットに手を突っ込んだまま顔を覗き込むと、滝のような汗を掻いた青白い顔の真吾が、うっすらと目を開いた。
息子の姿を認めて力なく微笑むその顔に、一郎は苛立つ。
「これはどういう事だクソ親父。」
「心配して様子を見に来たのかい?」
開口一番で悪態は酷いな、と真吾は苦笑いした。
質問に対して質問で返すいつもの真吾のやり方が、今は矢鱈と癇に障る。
「質問に答えろ。」
「あの子なら心配ないよ、今はもう安全な所にいる。もう誰の干渉も受けない。」
真吾はそれが心配で来たんだろう?とにっこりすると、もう用は済んだとばかりに瞼を落とす。
「メフィスト二世にも知られていないはずだ。大丈夫。」
「そう云うことじゃない。」
「同じ事をそう頻繁にはできないから、もし今後またこんな事が起こった時に備えて、対処方法は三世くんとしっかり相談しておくんだよ。」
「うまくはぐらかせているつもりか。」
「一郎。」
真吾は重い瞼を上げ、怒る息子の暗い目を見詰める。
「君の思考の基礎は安定していない。でもそれは君が成長している証でもある。強みにも出来るんだよ。だから強みにしなさい。迷う時にあらゆる選択ができるように。最良の答えを導き出せるようにね。」
今日は帰りなさいと、目を細める。真吾は、もうこれ以上一郎の対応はしないと言っているのだ。一郎はこの件に関し事実を知る機会を永遠に失ったようだ。
有り難い説教を聞きに来た訳では無い。
一郎は舌打ちをし、簡単にあしらわれた恨みと悔しさを込めて腹の底からクソ親父と吐き捨てた。
無理をさせるくらいなら自分が処理するべきだった。
こんなことだからいつまで経っても義父にとっての自分は幼い子供のままなのだ。
一郎は真吾の熱い頬を片手で包んだ。
「一郎?」
一郎は応えず暫くそのままじっと真吾を見詰めた。口に出せない言葉が胸の中で溢れる。
やっと離した手を見詰め、二度握ると、一郎はベッドから離れた。
真吾は部屋から静かに出て行く一郎の背中を見送り、ふっと短く息を吐く。
一郎がこのまま大人しく研究所に戻るわけがないから、関わっていそうな使徒達に聞き込みをして回るだろう。ピクシー達が用意した材料の目録を知れば、確信するだろうか。
真吾は熱と痛みで朦朧としながら、余計なことを口走っていなかったか自分の言葉を確認する。
真吾が何をしたのか、一郎はきっとある程度推測できている。知識や機転に関しては真吾に引けを取らない。
この姿を見て動揺していたようだったが、それは推測と異なる状況だったからか、それとも、推測通りの状況だったからか。
真吾はもう開けていられない瞼を閉じた。
一郎は結局顛末を知らずに終わるのだ。可哀想だとは思うが、一郎を守るためでもある。一人で、誰にも知られず、自分だけの力で終わらせたかった。
(僕も大概嫌な大人になったな。)
みんなごめんよ、と呟くと、真吾は深い眠りの底に引き摺り込まれていった。
2
偽物の男の子は何でできている?
真っ白な魂といくつかの言葉
そして首のない天使
そういうものでできている
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それを一目見ると、真吾は困惑して首を傾げた。その反応をじっと見守る子供達の表情は固く強張っている。特にメフィスト三世はもう既に厳しい叱責を受けたかのように完全にしょげていた。真吾の目が見られないでいる。
「僕がいるね…」
「ストロファイアの人形だ。デザインの根拠は、過去僕に見破られている事実を知っていながらもこれを採用したと云う事は、ただ単に嫌がらせだろうと推測する。」
「伯父さん、ストロファイアが送り込んで来たんだ。目的は恐らく、ソロモンの笛。」
「以前は聖水で対応出来たのだろう?」
三世がちらりと相棒に目を遣り、言い難そうに俯く。
「…銃が撃てなかったんです。」
一郎は目を背けるでもなく、真吾の次の言葉を待っている。
魔界へ送り帰したところで、また同じ事が繰り返されるだけだろうし、どうしたものか扱いあぐねて真吾を呼んだようだ。
そうホイホイ作れる物でも無いだろうにと、真吾は自分そっくりの偶人に歩み寄り、しげしげと眺めた。
魔術によって椅子に縛り付けられた偶人は、抵抗する様子もなく、人間たちの遣り取りをのんびり眺めていた。成程話には聞いていたが、姿形はまるで鏡を見ているようだ。ただその背中には、真吾は持たない、艷やかな赤い翼があった。
彼を作った天使の翼とよく似ている。
偶人は真吾と目が遭うと、にっこり笑った。真吾は腕を組んでうーんと唸る。
「この子は…そうだね。」
はっとした顔をして、三世が真吾に顔を上げる。伯父は信じていた通り、ちゃんと生き物として見てくれるのだ。
「取り敢えずこの子は僕が引き取って、暫く様子を見よう。何か方法を考えないとね。」
真吾は三世を振り返ると、安心させるように表情を和らげた。
「その方がメフィスト二世にも見付かり難いだろうし。」
三世は口を引き結びじっと真吾を見詰めた。
早く一人前になりたいと日々努力している三世を知ってるから、真吾には彼の悔しさがよく分かる。
対処出来なかったと二世が知ったら、怒りはしないだろうが強めの説教はするだろう。特に使徒としての働きに関しては、二世は揺るがない信条を持つ。三世は覚悟しているのだろうが、真吾は二人を叱る気にはなれなかった。
親しい者を失う怖さを知ったばかりの一郎。一郎が撃てなかった理由を理解し、無理にやらせる事も、自分が代わる事も出来なかった三世。
優しさから出づる躊躇いを否定したくはない。
「それでいいかな、一郎。」
「わかった。」
一郎は偶人の前に立ち解呪の呪文を唱える。椅子の四足の下から魔法陣がスッと消えた。
突然解放されキョトンとしている偶人に、真吾は、僕と一緒においで、と両手を差し出す。素直に乗せられた手を握ると、ゆっくり立ち上がらせる。目線の高さが全く同じで、真吾は思わず苦笑した。
「一郎、傷付けることはしないから安心しなさい。」
一郎が小さく、クソ親父と呟くのが聞こえた。
❈❈❈
寝室の扉を開くと、ベッドの上で本を読んでいた偶人は、顔を上げ微笑んだ。元々警戒心が薄い性質のようだが、すっかり懐いて真吾を見ると嬉しそうにする。
真吾は疲れ切って重たい体をベッドに座らせると、偶人の太腿の上に開かれた絵本に目を遣り、肩を竦めた。
「体の調子は悪くないかい?お腹は空いていないかい?」
「何も問題はないよ。本を貸してくれるお陰で退屈もしていない。何か聞きたいことでもあるのかい?」
「うん、また君の事を教えてくれないかな。」
偶人は構わないよ、と本を閉じる。
この一ヶ月対話を続け聞き出した結果、人形にできる事はとても限定的だと云う事が判った。
まず僅かな魔力はあるが術を持たない。設定された思考パターンをなぞるだけで自ら思考する事はできない。作られた目的以上のことはできない。命令が情報や物を持ち帰る事なら、達成後自動的に帰還する魔術が発動する。任務遂行の制限時間は基本的に無いが、任務の内容によっては設定される場合もある。その場合、期限内に任務が遂行できなければ自然消滅する。
真吾型人形の場合ソロモンの笛を持ち帰ることが目的で、制限時間は設定されていないそうだ。つまり、このままではずっと魔界へ帰れないということだ。
(できなければ帰って来るな、殺されても構わないと云うわけか。)
そしてそれを理不尽と怒る事も、悲しむ事もこの子には出来ない。
真吾はそっと偶人の頭を撫でてみた。偶人は目を丸くし、そして照れくさそうにフフッと笑う。
「なんだか、君は僕を幼い子供のように扱うね。」
姿や思考回路は確かに自分と同じように見える。
(でも、僕と全く似ていないじゃないか。)
紛い物の器に放り込まれた魂。意思を持たないがゆえに、何にも染まらない無垢な姿は、強欲な自分とは似ても似つかない。
一郎は一目で偽物と見破ったそうだ。きっと一郎は自分の本質を見抜いているのだろう。
何もわからないまま、己の在り方に疑いを持たぬまま、消えて無くなるのも幸福なのかもしれない。
だけど。
真吾は口を引き結び偶人に向き合うと、その冷たい両手を握り、静かに語りかける。
「僕に教えてくれないか。君の願いは何だい?」
偶人は君も知ってるじゃないかと、誇らしげに答える。
「千年王国を実現する事だよ。悪魔も人間も、生きとし生ける者みんなが幸福に暮らせる世界を創りたいんだ。悪魔くんは一郎に託したけれど、ファウスト博士がそうしたように、僕も、役割が変わっても力を尽くすんだ。千年王国は僕自身の夢だもの。」
うん、うんそうだねと真吾は頷くと、堪らなくなって偶人を抱き寄せた。されるがままに真吾に体重を任せるも、偶人は心配そうに真吾の背中を撫でる。
「大丈夫かい?」
「そうだねその通りだよ、僕もきっとそう答える。それが僕の夢だもの。」
そう、これは僕の夢なのに何故こんなにも悲しくなるのだろうか。閉じられた赤い翼に指先が触れる。
「でもね、君は僕をプログラムされただけ。君は僕ではない。僕とは違う魂なんだ。魂とは心だよ。君は僕と違う心を持っているはずだ。」
「僕は君だよ。」
「君の意思は封じられているんだ。ストロファイアの祝福であり呪いだよ。でも君は解放されていい。もう魔界へ戻る必要はないのだから。」
赤い翼が僅かに震えた。偶人は咄嗟に真吾から身を離す。その顔は恐れに歪み青白くなっていた。
「僕はそれを望まない。」
やはり、と真吾は確信した。
人形に人格や意思は存在する。人形自身もその存在を認識できている。そして人格・思考の封印には、破られた場合のペナルティが存在する。この子は今それを本能で感知し拒否した。
ならば呪いをすり抜けるための魔法を使おう。呪いは術者にしか解けないがルールを追加することは出来る。
魔術は必要ない。言葉があればいい。
真吾は偶人の瞳を覗き込み、低く囁く。
「君は今、君は僕自身だと言ったね。それなら、きっと今から僕が君に問う君の願いは、僕が気付いていなかった僕の願いなのだろう。」
大丈夫だよ、と真吾は冷たい頰を両手で包み込んだ。激しい動揺で瞳が揺れている。偶人の内で何かが書き換えられようとしているのだ。
真吾は、白い額に自分の額をコツンと合わせる。
「僕の、埋れ木真吾の願いを教えてくれないかい。」
真吾は、怖がる偶人を落ち着かせようと再び抱き締め、トントンと背中を叩き目を閉じた。
長い沈黙が降りる。
震える偶人の頭を撫で、真吾は辛抱強く待った。呪縛に触れるのは非常に危険だと分かっていても、それでも突破して貰わなくてはならなかった。
真吾が考え付く限りの手段を考察し、これしかないと結論付けたこの子を救う方法。それを実現させるために必要不可欠な事だった。
何より、この子にとってこの魔術が本当に必要な物なのか、その確証が欲しかった。こんなのはエゴだと分かっているが、実行する勇気も棄てる勇気もない。どうしても本当の心が知りたかった。
どれくらいそうしていたか、偶人の肩からゆっくり緊張が解れていく。ルールの追加に問題なしと結論が出たのだろうか、偶人は意を決したようにぎゅっと真吾を抱き締め返すと、耳元でそっと呟いた。
「僕の、埋れ木真吾の願いはーーー」
告白を聞き届けると、真吾は一瞬目を大きく開き、そして黙って頷いた。
何故かふと、幼い頃大好きだった木馬を思い出す。
込み上げるものを喉元でぐっと堪えるが、その一欠片が瞳から零れ落ちる。
ありがとう。そうだったね、それが僕の願いだ。
❈❈❈
遠慮がちに扉をノックする音が聞こえた。真吾が部屋を閉ざしてから一ヶ月間、毎日繰り返されたノックだ。
偶人の存在を隠すため、そして研究内容を知られないようにするためには仕方のないことだったが、毎日通ってくれた百目には申し訳ない気持ちだった。
「悪魔くん、元気かモン…?」
精一杯気遣う声に真吾は微笑む。この問いかけも、もう今日で最後だ。
真吾はピクシーに依頼する魔術の材料をリストにしたメモを片手に、書斎の鍵を開けた。
扉を引くと、全身の目玉をまん丸にした百目が真吾を見上げた。途端に全部の目が潤み始める。
「やぁ百目。」
「悪魔くん!やっと会えたモン!」
泣きべそをかいて真吾に飛びつく百目をヨロヨロと受け止め、その頭を撫でた。本当に優しい子だ。
「心配かけて悪かったよ。」
メモを渡して百目にお遣いを頼むと、百目は快く引き受けてくれた。百目の人の良さに頼ってばかりだ。
元気よく廊下を走っていく百目を見送る。
百目はきっとお遣いのついでに、一郎とメフィスト二世に自分が部屋から出てきたことを伝えるだろう。
のんびりとはしていられない。
資料に使った本をまとめて抱え、本棚に戻す。机の上や床に散らばっている考察の跡が残る紙は、一つ一つ丸めながら暖炉に放り込む。どうしてこんなにも散らかっているのか、自分に文句を言いながら慌ただしくしていると、寝室から偶人が様子を見に来た。
「大変そうだけど手伝おうか?」
「大丈夫、程々に片付いていればいいんだ。」
「メフィスト二世か。」
「さすが僕だね、察しがよくて助かるよ。」
「本は僕に任せて。」
偶人は張り切って、積み上げられる所ならどこでも積み上げた本の塔を、片端から崩していく。苦笑いしながら真吾は火掻き棒で火種をほじくった。
二人で廊下の足音を気にしながら、だらしの無さに文句を言い合い、言い訳し合い、最後には笑い声を堪らえながら手を動かしていた。
平常時の散らかり具合にまで状態を戻すと、真吾は杖をふるい、秘密の通路を開いた。
偶人は羽を落としていないか部屋の隅々を確認すると、真吾に促されて部屋を出る。
「君には不便を強いて申し訳ないと思っているよ。」
「全ては僕と子供達の為だって分かっているから大丈夫だよ。」
通路の先は小さな部屋に繋がっていた。
天井がガラス張りで、窓も大きく取っているのでとても明るい。見上げると、綿雲が散らばる青空が鮮やかで、まるでフレスコ画のようだ。
真吾のお気に入りの部屋のひとつだった。
「今日もとても綺麗だね。」
偶人は真吾の記憶でそう言うと真吾を振り返った。
「君は翼を持っているから、空を飛べるんだろう?こんな空を飛んだことはあるのかい?」
偶人はフフッと笑って首を横に振る。真吾はそう、と応えるとそのまま窓枠へ腰掛け、外へ目を向けて口を閉じた。
真吾に倣って偶人も向き合うように座ると、同じ顔を持つ人間を眺めた。
暫く二人で景色を眺めながらポツリポツリと話をして過ごすと、真吾は偶人を一人部屋に残し、書斎へ戻った。
応接テーブルの上に弁当がポツンと置かれていた。
ソファヘ座り、弁当を手元に引き寄せる。まだ温かい。蓋を開くと、そこに何種類ものおかずが詰められており、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。
エプロン姿のメフィスト二世を思い浮かべる。
(今の君には、タキシードよりもエプロンの方が似合うと思うよ。)
真吾はそっと蓋を閉じると、それを手に立ち上がり、再び秘密の通路への扉を作る。真吾がマントを翻しその向こうへ抜けると、扉は閉じるのと同時にフッと姿を消した。
❈❈❈
ガラス張りの天井から降り注ぐ月の光を受け、床いっぱいに書いた白い魔法陣が闇に浮き上がった。細かく魔法文字が書き込まれ精確な図形が重なるそれは、繊細に編み込まれたレースのように美しい。
真吾は緊張を腹の底に押し込みながら、間違いがないか何度も確認する。
魔法陣を読み、用意された道具を見た偶人は、真吾の考えを理解した。
「成程、だから僕が読んでいた絵本を見た時に微妙な顔をしたんだね。今となっては信じるしかないけれど、正直なところ相談して欲しかったよ。」
「そうだね、今更だけどごめんよ。」
禁術に少し触れているね、と偶人が真吾を振り返ると、真吾は魔法陣に目を落としたたままうんと頷いた。
だからどうしても一郎に知られるわけにはいかないのだ。
「相手が僕だとやり難いな。」
全部分かってしまうんだもの、と愚痴を言う真吾に、偶人がははっと笑う。
「今日でお別れなんだね。」
「その方が良いんだ。」
「うん、そうだね。それでもやっぱり淋しいよ。」
今の言葉はコピーだろうか、それとも彼自身の言葉なのだろうか。
真吾はピクシーから受け取った材料を黙々と準備していく。偶人は雲一つ無い星空を眺め、静かに真吾を待った。
「もし仮に成功したとして、この記憶は残るのかな。」
仮にだなんてとんでもない、と最後の薬草を魔法陣に配置し終えた真吾は、かがめていた体を起こす。準備は整った。
「記憶は魂に宿るのか肉体に宿るのか、その謎が解明されるかもしれないね。」
「君と過ごしたこの記憶は持って行きたいんだ。」
「そうだね、きっと僕も君だったらそう思うだろうね。」
「ねぇその言い方はもうやめよう、僕を解放したのは君じゃないか。」
もう一人の自分が目の前で笑う。本当にそうだといい。真吾は少し涙目で頷いた。
「ごめん言い直すよ。僕も同じ気持ちだ。」
ふと、もし双子の兄弟がいたとしたら、こんな感じなのだろうかと考える。誰にも明かせない胸の内を、明かせない意地を解り合える存在が居たらと。
真吾はそれを今手に入れ、もう間もなく失うのだ。
「君はこれで僕の願いを叶えようとしてくれるんだね。」
「全てを、とはいかなかったけどね…」
「君の願いは誰が叶えてくれるんだい?」
真吾はにっこり笑う。
「僕の願いはこれから君が叶えてくれるじゃないか。君は僕だもの。」
偶人は真吾を見詰めると、そっと手を伸ばし、真吾を抱き寄せた。
満月はきっと惜しみなくその力を貸してくれるだろう。
偶人は自分の手で翼から一本羽を選び抜き取ると、真吾に差し出した。目の醒めるような赤い羽根を、真吾はそっと撫でた。白磁の皿に乗せると赤が映えて美しかった。
真吾はナイフを床から拾い上げ刃のカバーを外す。ゴムチューブで自分の太腿を縛ると、その場に座り、羽根の乗った皿を近くに寄せた。強い痛みの予感に体が反応し、落ち着いた心に反して手が自然に震える。
口にタオルを咥えると、固唾を呑んで見守るもう一人の自分に、目で大丈夫だよと伝え、ふっと息を吐きながらナイフを太腿に突き立てた。
❈❈❈
ピクシーの鎮痛剤がよく効いている。効果が弱まる前に動かないといけない。
真吾は熱と貧血と残り少ない魔力とで朦朧とする意識を気力で支えながら、魔術の痕跡を丁寧に消していく。
この部屋に誰かが立ち入ることは先ず考えられないが、自分が不在の間、一郎に何か気付かれて探られる可能性もある。
一晩かかって漸く部屋を綺麗な状態に戻すと、真吾は額に浮き出る汗を掌で拭い、目を窓に向けた。
清々しい朝の光が部屋に満ちていた。
世界が祝福しているようだった。
片付けを待っていた赤い小鳥を手の甲に乗せ、マントの下へ隠す。思っていた通り、相性が良かったのだろう、新しい器と魂は無事適合した。
意思を取り返した魂は、古い器を棄てストロファイアの呪縛から解放された。真吾が用意した新しい器は生きた器だから寿命もある。
(もう君はどの空も自由に飛べるよ。)
真吾は脚を引きずりながら隠し通路を通り、書斎へ戻った。
テーブルの上に用意した金色の鳥籠に触れる。これが最後に入る鳥籠になるのだから、できるだけ美しい物にしてあげたかった。
百目に部屋まで来てくれるように頼むと、真吾の頼み事を待っていたかのように直ぐに駆け付けて来てくれた。
暫く留守にする事を伝えると、百目は連絡係を何を疑う事もなく引き受けてくれた。
本当の事を話せない事に良心が痛んだ。百目を信じていないわけではない。でも事情を知らない百目は、訊かれれば何でも話すだろうし、そもそもこの事を知る人はいない方がいいのだ。
真吾はマントの下に鳥籠を抱えた。肉をえぐった太股に当たり、息を止めて辛うじて声を堪える。
マントの内側で赤い鳥は籠の中に移動してくれた。真吾はホッとして微笑み、百目に後を任せ部屋を出た。
行く先は妖精界。本当は人間界に放ってやりたかったが、万が一ストロファイアに気付かれ彼の気に障った場合、守ることができない。妖精界ならばストロファイアの視界の外である可能性が高いし、迂闊に手を出すこともできないだろうと踏んだのだ。ストロファイアが傀儡一つに拘る理由など無いが、僅かでも懸念があるなら対策は立てておきたかった。
それに人間界よりも妖精界の方が穏やかで美しい。恐ろしい物、悲しい事から少しでも遠ざける事ができる。もう一人の自分の願いに少しでも近付ける事もできる。
もはや悪魔くんでもない自分が突然行ったところで、ティタニアが話を聞いてくれるかどうかは分からないが、やってみるしかない。
マントの下の鳥籠の中で、赤い鳥が小さく囀った。
❈❈❈
部屋に足を踏み入れた途端強く匂う。真吾の血の匂いだ。メフィスト二世は蠱惑的な匂いに図らずも脈が昂り、眉を顰めた。
(誤魔化せると思っているのか悪魔くん、俺は第一使徒だぞ。)
子供達と二世の間に立てば、真吾は子供達の側に付く。三人で何かおいたをしている様だが、どうせまた真吾が丸ごと引き受けたのだろうと、二世は怒る気にもならなかった。嘘の吐けない真人間が健気にも悪魔相手に嘘を吐こうと云うだから、二世は付き合ってやる事にしたのだ。
呆れた顔で、メフィスト二世はベッド傍の椅子に腰掛けた。布団に埋まる小さな瞳に話し掛ける。
「一ヶ月間思う存分無茶した後に外出して、見事感染症にかかるとはね。真吾くん、自分が人間だと云う事を忘れてないか?」
「ごめんよメフィスト二世、自分でも驚いているところだよ…」
「それで、新しく開発した魔術は成功したのか?」
「なかなか計算通りにはいかないものだね。」
二世は真吾の額に手を当てると、深い溜息を吐いた。手作りの野菜ゼリーが入ったガラス製タッパーの蓋を開ける。
「真吾くん、体を起こせるか?これくらいなら食べられるだろう?」
「努力してみよう。」
太腿の痛みと熱で気を抜くと意識が飛ぶ。真吾は何とか起き上がると、二世が背中に置いてくれたクッションに体重を預ける。
下手に動くとやっと止まった血がまた滲み出てしまう。
「食べさせてやろうか?」
「そう云うのはいいよ、メフィスト二世…」
一匙掬って口に入れてみる。冷たくて気持ちいいが味は分からない。
「美味しいよ、ありがとう。そう云えば、この間もお弁当作って来てくれたね。美味しかったよ。」
「どういたしまして。それで、薬草に鳥籠?真吾くんは何しようとしたんだ。」
やっぱりそれ位の情報は持っているか。二世を見ると、真吾の目をじっと見詰めていた。
(ああそうか、もう気付いているんだ。)
真吾は不思議と安心した。何をしたかまでは分かっていなくても、何かをした事は分かってくれている。
(僕が嘘を吐いていることも分かっているんだね、メフィスト二世。)
真実と嘘とを混ぜ合わせて、物語を作るのだ。
妖精王は真吾と対面するなり眉を潜めた。無理もない、マントの下に隠しても包帯に滲む血の匂いは誤魔化せない。鳥籠を見せ正直に事情を話すと、ティタニアは静かに耳を傾けてくれた。
「簡単に説明すると、召喚魔法とメフィスト家の魔術、物質変化の融合なんだ。召喚した魔物を小さく無害化して捕まえる事ができるかと思ってね。」
「ふむ。それで鳥籠。」
鳥籠の中の小さな赤い鳥が無邪気に歌う姿に、ティタニアは目を細めた。元は天使の造った人形だったが、魂は無垢である事、生きた器には何の術も施していない事、新しい体には寿命がある事、ひとつひとつ丁寧に説明していく。
「入れ物は何でもよかったけど、たまたま綺麗な鳥籠を見付けてね。どうせなら美しい物がいいかなと思って。」
「百目が嬉しそうに教えてくれたよ。俺も見たかったな。」
真吾は二世の言葉に頰を緩める。
ストロファイアの懸念も全て話してしまうと、真吾は少し気持ちが楽になった気がした。ティタニアは真吾を観察し、小鳥を観察すると、暫く思案し、頷いた。
確かに、真吾が説明する通り、小鳥に陰りが感じられない事、妖精界に託す理由も納得できるものである事、小鳥の寿命が尽きるまでの間の事であること。そして、何よりも、とティタニアは告げた。
「ま、悪魔くんのやる事だからどんな魔術かは心配していないけどね。」
せっせとゼリーを崩していた真吾はその手を止める。
「悪魔くんは魔術の悪用はしないし、私利私欲で使わない。無茶はするけど。」
「もう僕は悪魔くんを引退したんだからさ」
「それはそうだけどやっぱり俺たち十二使徒にしたら悪魔くんは真吾くんなんだよ。」
一郎を一郎悪魔くんと呼ぶ百目を思い出す。確かにそうだね、と真吾は微笑んで頷く。
ティタニアは、真吾を信じると言った。真吾が悪魔くんであった頃の志を持ち続ける限り、妖精界の真吾への信頼は揺るがないと。
「一郎くんには悪いけど、悪魔くんは俺たちの戦友で誇りなんだよ。簡単には切り替えられないね。」
「そうか…そうかもね。確かに僕にとっても悪魔くんを担った事は誇りだし、肩書は変わっても目指す場所は悪魔くんと同じなんだ。」
埋れ木真吾と悪魔くん。誰もが埋れ木真吾を見ると悪魔くんと呼ぶ。もうどちらが本名なのか判らなくなるくらいに。
ファウスト博士にその名を貰ったあの日。
それまでの埋れ木真吾は今どこにいるのか。
(悪魔くんであったがゆえの、僕に対する許しや信用。ならば何者でもない埋れ木真吾は何を持っているだろう。)
高く澄んだ空に飛び立った赤い鳥。小さくか弱い体でもその羽音は力強かった。影が空に融けて見えなくなっても暫くその行く先を見送った。
ずっと見送っていた。
(もう一人の僕。君はもう僕を忘れて、僕を知る以前の姿でどんな空でも行けるよ。そしていつかきっと君の願いを叶えるんだ。その為になら僕はどこまでも力を尽くすよ。)
スプーンを置くと、真吾は第一使徒に嬉しそうに笑いかけた。
「ねぇメフィスト二世、召喚した魔物は鳥籠に収まらなかったんだ。翼を持っていたから、僕は追いかけられなかった。生命の色をした美しい翼だったよ。」
二〇二四年四月二十九日 かがみのせなか
参考 マザーグース「What are little boys made of」