Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    かがみのせなか

    @kagaminosenaka

    主に悪魔くん(平成・令和)の文と絵を作っています。作るのは右真吾さんばかりですが、どんなカプも大好きです。よろしくお願いします。

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 29

    かがみのせなか

    ☆quiet follow

    令和悪魔くん。ちびろと🚥。
    海に遊びに行きます。
    なにもない時間を書きたかった。

    #令和悪魔くん

    人魚姫 靴の中に入った砂が不快で、手を使わずに脱ぎ捨てた。
     粒の荒い灰色の砂に素足で立つと、その熱さにびっくりして反射的にビョンと跳ねた。
     可笑しそうに笑う声に振り返る。
     優しい瞳と出会う。
     その大きな瞳を、麦わら帽子の広いツバが強い日差しから守っていた。
     父にとても似合っている。
     息子の小さな靴を拾うと、父親は靴底を合わせてポンポンと砂を払った。強い海風に乗って砂が散る。
     その行方を少し目で追ってから踵を返し、一郎は海へと歩き出した。
     それは昨日夕食を終えた後のことだった。
     父親は突然「海に行ってみるかい?」と一郎を誘った。
     何故急にと思ったが、昼寝の寝物語にアンデルセンの人魚姫を読み聞かせてもらった事を思い出した。
     父は、一郎が手に取らない物語の本を片端から読み聞かせる。拒む理由もないから父のする通りに従っているが、興味を持って聞いているかといえば、正直、退屈だった。
     だが人魚姫は、姫君が主人公の物語にしては珍しく幸福な結末ではなかったので、印象には残っていた。
     にこにことして返事を待つ父親は、きっと息子に断られる事を想定していない。
     一郎は、こくりと頷いた。
     行かない理由がなかったというのもあるが、少し前までは面倒なだけだった外出も、人間界を知っていく内にそんなに悪いものでもないと思うようになっていた。
     本で得た知識の答え合わせは面白かった。
     柔らかいようでいて固い砂を踏むと、足の裏がくすぐったい。うまく歩けないでよたよたとしていると、同じ様に靴を脱いだ父親によいしょと抱え上げられて、波打ち際まで連れて行かれた。
     揺れる肩越しに後ろを見ると、いつの間に置いてきたのか、大きく育ったサボテンの根元に、父のリュックサックと靴が二つ仲良く並べられていた。
     濃い影に庇われて涼しそうだ。
     波と砂との間に降ろされると、海水で湿った砂が生温かい。わざと足に波を当ててみると、冷たい波が足の甲をサラリと撫で、引き際に足裏の砂を攫って行った。
    「今日は少し波が高いね。」
     そうなのか、と父を見上げると、父親は麦わら帽子を手で押さえ、海の遠くを眺めていた。倣って一郎も地平線を探してみる。
     夏らしい背の高い雲が生まれるところ、青い空と海の境がスッと真横に一本伸びていて、しんとして静かだ。
     海はこんなに煌めくものなのか、と一郎は首を傾げた。
     その向こうには途方もなく広い世界がある。嫌になるくらい遠くを渡った先に別の陸があり、国があり、人があり、文化があり、それが途切れた所からまた海が広がる。
     父親は実際にどこまでもこの海を渡ったのだろうし、そこをまだ知らない自分もその風を感じる。
     見えもしないのに確かにそこにあるのだと分かる、この不思議な実感はなんだろう。
     一郎は膝まで海に浸かるとジャバジャバと大きく足を動かして歩き出した。
     父親が黙って後をついてくる。
     父親はそうやって一郎を観察していることがしばしばあった。
     何も言わず微笑んで、一郎の行動をじっと眺めているのだ。
     一郎にはそれが時に煩わしくて、わざと走り回ったり、飛び跳ねたり、よじ登ったりと、父が困るような事をして、場を壊そうと試みる。すると決まって父は顔を曇らせ、「ダメだよ一郎」とたしなめた。
     その困り顔を見ると何故かホッとするのだ。
     一郎は父親の目を逃れようと走り出した。
     「わぁ、待って。」
     背後の慌てる気配に愉快になる。のんびりした父親を振り回すのは楽しい。
     バチャバチャと水を跳ね上げ、ズボンはもうぐっしょりだ。そうなったらもう服への気遣いなど何処かへ行き、一郎は勢いよく胸まで海水に浸かり、足を伸ばして座った。
     焼け焦げそうだった体が一気に冷やされ、とても気持ちがいい。
     だが寄せては返す波に体を揺すられて、のんびり浸かってはいられなかった。
     一郎は突っ張った手足に力を込めて体を支えようとしたが、とうとう堪えきれず、仰向けにコロンとひっくり返った。
     父親が慌てて抱き起こし、息子の濡れた顔を手で拭った。貼り付いた砂と髪の毛を除ける。
     一郎の頭から外れた白い帽子が砂浜に打ち上げられ、今にも風で飛ばされそうだが、そちらには関心がないようだ。
    「大丈夫かい?」
     海水は、父が塩加減を間違えた野菜炒めみたいに塩辛かった。鼻に入ったようで奥の方がジンジンして痛い。
     一郎がフンフンと鼻を吹いていると、父は息子の手を引いて、波打ち際から離れた。
     サボテンまで戻ると父親はリュックサックのポケットからポケットティッシュを出し、その一枚を一郎の鼻に当てた。
     フンと勢いよく息を吐くと、父はそれに合わせて上手に拭き取っていく。阿吽の呼吸だ。
     スッキリした顔の息子に目を細め、少し赤くなった鼻の頭を人差し指で撫でた。
     ついでにと手渡された水筒で渇きを潤すと、蓋を開けたまま父に返す。受け取って自分も麦茶を飲む父の、汗ばんだ喉を眺めた。
     用が済むと一郎はサッと身を翻して、波へ向かって駆けていく。父親はそれを見送ると、帽子の行方を探し始めた。
     一郎は走る勢いのまま転ぶように波へ飛び込んだ。
     水中に潜り、沖へ行ってやろうと足をばたつかせるが、中々前へ進めない。力を抜き波に揺られるがままにして、水紋を映す水底を眺める。水の中は、絶えず波が走る外など知らぬように、ユラユラとした流れだけがあった。
     呼吸を次ぐために顔だけ水面から出したが、太陽の光が眩しくて、またすぐに淡い世界に引き返す。
     薄暗い海に住む人魚姫。隠れながら遠くに眺めた地上の世界は、彼女の瞳には明るく鮮やかに写ったのだろう。
     父に連れられて見えない学校へ来たが、一郎にとっては住む場所が変わっただけだった。人間界にも何の期待もない。
     父も人間なのに魔界に住んでいる。幼い頃からずっと憧れていたそうだ。父なら人魚姫の気持ちが分かるだろうか。
     もがく内に少しずつコツを掴んできて夢中で潜っていると、「一郎」と、姿が見えない息子を心配する声が聞こえてきた。わざと応えないでいると、不安そうな声が何度も自分の名前を呼んだ。
     一郎、一郎。
     静かな水の中、遠くに父の声だけが聞こえる。
     一郎は目を閉じた。
     名前を呼ぶ父の声は一郎を安心させた。でも何故そんな気持ちになるのか、一郎には分からなかった。
     赤い天使も、かつて違う名で何度も一郎を呼んでいた。名前を呼ぶこと自体が愉快であるかのようだった。
     その時も自分は安心していたのだろうか。覚えていない。あの頃はそんな事を考えることすらなかった。
     父の声をもう少し聞いていたかったが、なんだか可哀想に思えてきてやっと海から顔を出すと、息子を探して歩く父親の背中を呼んだ。
    「おとうさん」 
     父はすぐに振り返ると、足早に息子の元に来て、頬に不安を残しながら抱き寄せた。
    「あんまり深い所へは行っちゃダメだよ。」
    「行けなかった」
     そうか、と苦笑いすると、不満そうに見上げる一郎の絡んだ髪を解した。
    「そう簡単には沖へは行けないね。体は浮きやすいし、陸に打ち寄せる波の力は強いから。でも場所によるんだよ。」
    「知ってる。離岸流だ。」
     父親は頷くと一郎の手を引いて浅瀬を歩き出した。一郎は海水を蹴り上げながら大人しく連れられた。
     父は少し先の海面を指差す。
    「海をよく見ると色が違う帯が見つかる。海岸の砂を引いていくから色が濁るんだ。それが離岸流の道だよ。」
     父には見えているのだろうか。一郎には見つけられなかった。
     陸に当たった波は行き場を失い戻ろうとする。だが後ろから続く波に押され、しばし岸に並走した後、逃げ道を見つけて海に帰る。穏やかな海でも、一気に押し出される波の勢いは強く流れが速い。それに乗れば楽に沖へと出ることができる。
    「危ないからね、気を付けないと。」
     父はそう自分自身にも言い聞かせるように呟くと、息子の冷えた頬を手の甲で撫でた。父は一郎を沖へ行かせたくないようだ。
    「大丈夫なのに」
     息子が不満そうに膨らませた頬を両手で包んだ。
     少しくらい浜から離れても大丈夫だと一郎は言ったつもりだったが、父は逆の意味で受け取った。
    「分かっているよ。分かっているけど心配なんだ。」
     父はわざと口をへの字に曲げてお道化てみせるが、何を不安に思っているのか一郎にも分かっていた。
     一郎がいなくなることを心配しているのだ。
     今だけではない、父は常に警戒している。
     まだ一郎の中で過去になっていない赤い天使を。
     大丈夫なのに、と父親の腕に絡んで凭れながら歩いた。重いよと言いながらも父親は嬉しそうに笑った。
    「人魚姫はこの国にもいるの?」
     息子の唐突な質問に一瞬キョトンとし、うーんと唸る。
    「様々な形の伝説が遺っているからいないとも言い切れないな。似たような姿の悪魔には出会ったことがあるけど、彼を人魚と言えるのか…会ってみたいのかい?」
    「わかんない。」
    「そっか、わからないか…いるとしてもずっと遠くの、海の深い所に住んでいるだろうね。」
     ふぅん、と波を蹴り上げると、一郎はぶら下がっていた父親の腕をパッと離した。
    「海入る」
     波に突進して行く息子を見送る。
     背中に感じる眼差しがむず痒くて、一郎はすぐに海の中に隠れた。
     一郎は水底を手で伝って深くへと潜っていこうとするが、体が浮いてしまい、体を支えようと頼りを探しても、手に掴むのは流れる砂ばかりでどうしようもない。
     思い通りに進めないのが腹立たしい。
     一郎はすぐに息が苦しくなり、足を着けて立ち上がった。水の中では簡単に浮いてしまうのに、今は体がずっしりと重い。地球の重力はこんなにも重いものなのか。
     海の浮力が当たり前の世界で育った人魚姫にとって、痛む脚で初めて立った大地はさぞや辛かった事だろう。
     一郎は浜を振り返った。随分進んだつもりが、思っていたよりも浅い所に留まっていた事を知り酷くがっかりした。在る場所を無理に変えれば行動することもままならない。無理を通した人魚姫は相当な覚悟だ。
     父親を探すと、少し離れた砂浜にしゃがんで何かを熱心に探していた。
     父親と呼ぶには小さな背中。
     新しい名前と居場所をくれた人。その人は自分に思考と判断を求める人だった。
     答えなければならなかった。
     でも何一つ碌な答えを返せなかった。
     ずっと赤い天使に手を引かれるままに過ごして来た。それで何の不自由も無かった。疑問すら持たなかった。
     一郎は再び海中に潜ると、父親のいる方を目指して見つからない様に這って行った。父親の目の前まで辿り着くと、わざと勢いよく立ち上がった。
     探し物に夢中だった父はわぁっと尻餅をつくと、ほんのり得意げな息子に酷いなぁと笑った。
     一郎は、汗ばんだ父親の背中に負ぶさった。
    「貝殻を探していたんだよ。」
     聞きもしないのにそう教えてくれると、足元に置いていた貝殻を肩越しに渡した。
     背中から降りると、一郎は貝殻を掌に並べた。縞模様の巻貝、淡い色の大きな貝殻。裏返すと縁がピンク色の小さな白い貝殻。
    「これはツメタガイ。この紫ががったのはチョウセンハマグリかな。小さいのはクチベニガイ。綺麗だろう。」
     そうだねとも言わず、一郎は渡された貝殻をひっくり返しながら観察し、艷やかな表面を撫でスンスンと匂いを嗅いだ。
    「生臭い」
     生き物の匂い。
    「そりゃそうだよ︙。気に入ったものがあったら持って帰ろうか。ちゃんと洗ってあげようね。」
     一郎は父親の手を掴んでその匂いも嗅いだ。
    「同じ匂い」
    「手も洗うよ…」
     しつこく匂いを嗅ぐ息子に父親は苦笑いをした。
    「一郎も探してごらん」
     一郎は頷くと波打ち際に脚を浸して、適当に足元の砂を掻き混ぜ始めた。父親も再び貝殻探しに歩き出した。
     手に当たる物を片端から掴んでは投げる。木の枝やゴミや海藻ばかりで、なかなか貝殻が見つからない。目視できないから拾う物を選べないのだ。
     どうりで父は砂浜で探しているわけだと分かると、一郎は波を離れた。
     父の後を追い、砂を爪先で掻き回しながら歩いた。よく見ればあちこちに貝殻が転がっているが、父が見付けたような、きれいな形を保ったものがない。
     暑い砂浜が途方もなく広く感じて、一郎は溜め息を吐いた。
     離れた所の父は、探し疲れたのか軽く伸びをして、また海の遠くを眺めた。
     白いTシャツの背中に強い陽光が反射し、海風に裾が翻える。
     一郎はズボンをギュッと掴んだ。
     あんなふうに遠くを眺める父は怖い。 
     あっさり繋いだ手を離して遠くへ行ってしまう気がするのだ。
     父は離岸流の道を知っている人だから。
     少しでも離れれば心配するくせに。
     一郎は急に足元がぐらついた気がして、不安の衝動で駆け出した。
     重い砂が踏み込む足を滑らせ、一郎は足がもつれてバタリと転んだ。
     父が振り返った。
     駆け寄る父が来るより先に、一郎は自分で立ち上がろうと手を着いた。
     指に触れた物が気になって砂を払ってみると、小さな貝殻が現れた。
     薄紅色の貝殻。
    「大丈夫かい?一郎。」
     頷く息子の濡れた服は、砂がしっかりこびり付いてしまって、強く払っても落ちない。海で落とそうか、と背中に手を添えた時、砂だらけの手に乗っている貝殻に気が付いた。
    「可愛い貝を見つけたね。サクラガイ、だよ。」
     半透明の薄い二枚貝。桜の花びらのようだろう、と父は名前の由来を教えた。
    「小さくてとても綺麗な貝殻だから、たくさん集めてアクセサリーにしたりするんだ。」
     一郎はズボンのポケットに、貝殻をそっと仕舞った。
     たくさん集めて贈ったら喜ぶだろうか。
     父と一緒に海に入ると、一郎はその手を引っ張りもっと深くへと誘った。父親は諦めて、誘われるままに水に入った。
    「気持ちいいねぇ。次来る時は水着持って来ようね。」
     一郎は父にしがみつくと、柔らかい腹に顔を埋めた。
     フフと笑う声がして、温かい手が一郎の頭をそっと撫でた。
    「疲れちゃったかい?お家に帰ろうか。お風呂に入って少しお昼寝したらおやつにしようね。」
     うんと頷くと、父は頭をぎゅっと抱き締めてくれた。
     嵐の中波に漂う僕を探しに来てくれた人。
     僕の人魚姫。
     いつか広く果しない海に帰るなら、僕も一緒に行く。 

     
     
                  
                     
                二〇二五年八月三日  かがみのせなか
     
    Tap to full screen .Repost is prohibited

    related works

    recommended works