銀愛世界の境界線を歩いていた。
歩くたびに近付く故郷の香りに誘われながら、ただただ歩を進める。歩きすぎたせいだろうか、傷は完全に治った筈なのに全身がじくじく痛い。
でも、もう戻れない。戻らない。
トールさんに肩を押してもらった。マキアの覚悟を見た。私は私のやるべき事を。私は世界の救世主ではなかったし、なれもしなかったけど、愛する人を救えるような人間でありたい。
歩いている時たまに不安になってイスタルテの様子を伺う。彼女は相も変わらず眠っているようで、私の背中で規則正しい呼吸をしていた。まるで親子のようだ。いや、私の方が娘だけど。
「イスタルテも、マキア達も……皆、強いけど、普通の女の子男の子だったわね」
歩いた拍子にぱしゃん、と水面が跳ねた。マキアがはしゃぎそうよね、スカートに水滴が思いっきり跳ねてトールさんが焦りそう。そう自然に思った自分にびっくりした。
ああ、駄目だわ。
一度思い出してしまったら、もう止まらない。トールさんに恋したことも、マキアと恋のお話をしたことも、シャトマ姫に教えてもらったお香の香りも。エスカさんは乱暴な振る舞いをしていたけどシャトマ姫にタジタジなのが面白い。私もユリシス殿下とペルセリスさんの夫婦漫才を見てみたかったな。
全部全部が鮮明に思い出されて、堪らず立ち止まってしまった。
メイデーアは私達の居るべき場所ではない。そんなことは分かっていたけれど、あの日々がどうしようもなく楽しくて苦しくて懐かしい。
気づけばボタボタと流れ落ちた涙が透明な水面に波紋を作っていた。
「う、うぅ。うわああああああん」
肩を震わせてわんわんと子供のように泣く。寂しさと安堵と後悔と郷愁と、全部がごちゃごちゃになってしまって私の器に収まらない。
水面がボチャボチャと大粒の涙で波打つ。肩や髪の毛は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったから、さぞかし酷い顔をしていただろう。
「……泣いて……いるの?」
「……っ!イスタルテ!!」
大泣きしていたせいかもしれない。
イスタルテがぼんやりとが目覚めた。
「イスタルテ、私は……私は大丈夫。イスタルテこそ──」
「転けてしまったのかな……。どこか、痛いところがあるのかい?」
そこで気付いた。イスタルテは目覚めていない。まだ意識が混濁している。私の涙を拭おうとした手は髪の毛を撫でた後に空を切った。
「ヘレネイアもよく……外で転んで泣いていたから……」
「…………」
懐かしむような声に何も返せなかった。何か込み上げてくるものを振り払うように歩を進める。
それに気付いたイスタルテが、一瞬声を大きくした。
「レナ、どこかへ行くんだね……。なら、これを」
肩をイスタルテの小さな手が確かめるように撫でる。かつて私、ヘレネイアに出ていかれたイスタルテ。彼女は今、どんな思いでこの言葉を言ったのだろう。
「大丈夫、大丈夫よイスタルテ。あなたも連れて行く。あなたも一緒に──」
「創造王の盾、レナを守れ」
囁くような声がした瞬間、私の体を銀色の何かが覆う。私はこれを何も知らない、何も分からない。だけど、記憶の奥の誰かが「これを覚えている」と主張していた。
ああ、そうだ。私、これに守られていた。ずっと昔も、そして今も。この人に守られていた。
「さぁ、これでいいよ。どこまでもお行き。これで怪我することもないだろう」
ただでさえボロボロの体なのに、こんな場所で魔法を使ったせいだろう。そう言ったっきりまたイスタルテは眠りについた。
歩き続けていたら、明らかに空間が歪んだ感じがした。きっと地球が近いのだ。メイデーアでは聞かなかった日本語や、車の音、湿気のある日本の空気が一段と濃くなる。
それと同時に波のような衝撃が私を襲った。
「ぐ……っ」
世界を越えるのだから何かしらの試練はあると覚悟はしていた。だけど思った以上に空間の歪みによる衝撃が大きくて、足摺りするように歩くしかない。
そうやってしばらく耐えていたら小さい波ばかりが続いたので、このチャンスを逃してはならないと光の先へ急ぐ。背中のイスタルテの呼吸も荒い。もう時間はなかった。
「はぁ、はぁ────あ」
一瞬立ち止まって呼吸を整えていた時、あまりの圧力に顔を上げる。実体はないはずなのに、私を覆うように迫りくる何かがある。今までで一番大きい、波が来る。
もう少しなのに。耐えきれるのかしら。
ドンッ。
痛い。体の奥から抉るような衝撃。四肢が砕けたっておかしくないと恐る恐る目を開いたとき、自身の状態に驚いた。無傷だった。そして、その代わりに私を覆っていた銀色の光がボロボロと取れて、地平線に消えていく。
「あっ、待って、イスタルテ!!」
イスタルテは自身に魔法をかけなかった。
嫌な予感はしていた。
「レナ……?」
彼女がもぎ取った右腕の痕を起点にして、イスタルテの体は銀の粒子となり消えつつあった。
驚愕も悲鳴も喉の奥に詰まる。声も出ないまま必死で肩を揺らす私に向かって微笑む彼女はなんだか綺麗だった。
「いいよ、行くといい。行って、レナ」
どこにそんな力が残っていたのだろう?
イスタルテは私の背中からするりと手を離し、落ちるように地面に座り込んだ。ボロボロと溢れる私の涙を左手で掬い、駆け寄る私を押し退ける。その優しい顔には覚えがあった。朝学校へ行く私を見送るお母さんも、そして神話時代のあなたも、そうやって私を見送った。
背負われるあなたを娘のようだとか言ってごめんなさい。
私はどこまでもあなたの娘。あなたの愛と優しさに包まれてきた、あなたの子供。
「待って、お願い、一緒に行きましょう……お父様!!」
ぐん、と押された私の体は光の中に放り込まれた。嫌だ、と泣いて喚いても、彼女の手はあまりにも小さくてもう届かない。
本当に?
「そんなの!いいわけがないでしょう!!」
流れに抗って、下ろされかけたイスタルテの腕を掴み、全体重で自分の体に引き寄せる。本当に軽い体。こんな体で世界を背負っていたのか、と考えるとまた涙が出てくる。
前も見えないくらい眩しい光の中、驚いた顔をしているイスタルテに向かって、私は叫んだ。
「絶対離さない!!絶対離さないわ、イスタルテ!あなたを見捨てたりしない──あなたを見失ったら、今度は私から迎えにいくから!」
「……」
私はこの時のイスタルテの顔を一生忘れないだろう。
「じゃあ、待ってみるよ。君を信じよう」
イスタルテは笑って、私の手を自分から掴んだ。