掌体温 連邦に連れていかれて少し経った頃。窓から外をじっと見るのが好きだった。
脱出の方法を模索したかったというのもあるけれど、暇を紛らわせるため、という理由が一番大きい。ここは仮にも敵陣。おあつらえ向きに置かれた本になんか手は伸びない。そもそも、革張りの表紙に所狭しと刺繍がついた本はとてもじゃないけど触れなかった。
だからといって何もしなかったら、頭の中を嫌なことがグルグル付きまとう。駄目よ、私。そうやって思い詰めて、勝手に行動するから迷惑をかけるのよ──
「あ……また……」
頬を叩いて思考を止めれば、ドロドロとした気持ちは鎮まっていった。
己の不甲斐なさを呪いつつ、気分転換にでもと窓枠に手をかけてみる。ちょっと高い位置にある窓はベッドに乗れば十分足りる距離だ。
「わあ……っ」
今日は風が弱いみたいだった。時には嵐の如く建物や木々にぶつかる風の音が聞こえるけど、全くそれがない。耳を澄ませても暖炉の火が弾ける音ばかりで、まるで全てのものが眠ってしまったよう。
しんしんと積もり続けている雪を眺めた。日本で──少なくとも私が住んでいた地域では、こんなに積もることはないだろう。こんな雪、地理の教科書でしか見たことがない。
更に手をガラスに押し付けると、骨の奥までジンジンと寒さが伝わってきた。当然手はかじかんでしまうけど、ただ興味のままに、そして気を紛らわせるように景色にのめり込んだ。
そうやってして、一体何時間が過ぎた頃だったか。
どこか遠くに行ってしまった意識は、ドアが軋む音で引き戻された。
「誰!?」
反射で叫んだけれど、ここに入れる人、それも堂々と入ってくる人なんて一人しかいない。
予想通り、もう見慣れた銀色が姿を現した。イスタルテだ。何故だろうか、いつもぴっちり整えている軍服が少し乱れている気がしないでもない。
「一体何時間そうしていたんだい?こっちにおいで」
イスタルテは暖炉の方に立ち、私を手招きする。一方の私といえば警戒してベッドから足が下りない。体は窓に、顔だけイスタルテに向けた状態だ。
「来なさい」
そんな私にイスタルテが命令する。いや、命令というよりは窘めるといった感じである、ちょうど私のお母さんが幼い私にしたように。
気圧され、臆病者の足がそろそろと動き出した。ようやく踏み出した絨毯は足が沈むくらいふかふかで温かい。この貧しい雪国において、こんな贅を実現するために何が犠牲になったのだろう、そう考えるだけでも恐ろしかった。
「そんな風にしていたら温まらないだろう」
暖炉の前でガチガチに硬直していた私をイスタルテの手が導く。私より一回り小さい手が指先に触れ、
「冷たっ!?」
あまりもの冷たさに指先を引っ込めてしまった。彼女の手は冷えきった私の手よりももっともっと冷たかったから。
乾燥してがさがさになり、あかぎれにでもなってしまいそうな手は傷一つなく真っ白で、彼女の『体質』を思わせた。
「あなた、私よりも冷たいじゃない……!駄目よ、いくらあなたの頭は大人だって言ったって、体は子供なんだから!」
イスタルテの手を掴み、暖炉の側に連れて行く。当の本人であるイスタルテは心底意味が分からない、と言ったふうに眉をひそめていた。
手を並べ一緒に暖炉にあたる。時折イスタルテの手が温まったかどうか確かめるが、全くもって温まる気配もない。最後ら辺には、自分の体温をも分け与えるように、必死になってイスタルテの手を擦った。
あれだけ震えていた体だったのに、いつの間にか汗までかいていた。
「ぜ、全然温まらない……」
「何故ヘレネイアがそんなに必死になっているんだい、逆じゃないか」
イスタルテは呆れたように言うと、暖炉から離れた。一寸手を眺めた後、すぐに興味を失って視線を私に向ける。その目には、その顔にはなんの起伏もない。
その顔を見てやっと、私がとんでもないことをしでかしたことに気付いた。仮にも敵の大将の手を握りあまつさえ擦るなんて!!
「もうずっとこのままなんだよ、だがこれで僕の魔法が衰える訳でもないだろう?」
「そ、そう、だけど」
狼狽した私を見て、相手は微笑んだ。
「僕の体質か、それとも何かの弊害か。そんなことをしてもらっても、もう意味がないんだ」
悲しい顔でもない、拒絶でもない。ただただそれが当然だというように、彼女は平然と言い放つ。動けなくなってしまった私を一瞥して、イスタルテは踵を返した。
「ああ、でも君の優しさは受け取ったよ、ありがとう」
私がこの時のイスタルテの行動の真意を知ったのはずっと後のことである。
ナタンからの「ヘレネイア様が思い詰めた顔で窓へ身を乗り出していた」というたった一つの報告。それだけで、仕事終わりの体のまま私の部屋に飛び込んできていた、という事実を。
私は、何も知らなかったのだ。
「さ、さむーい!!」
地球の冬は今日も極寒だ。洗濯物を干そうと窓を開けただけで痺れるような寒さを感じる。
こんもり積もった洗濯物の山を見て、覚悟を決めてベランダに出る。ゴウッと襲う寒風に敗北する。部屋に戻る──の繰り返しであった。やっぱりエアコンって人類最高の叡智だと思う。
「それに、歳をとればとるほど手が温まりにくくなってる気がするのよね……」
一人呟いてゾッとする。時の流れってこんなにも速いのね……。窓に映る自分がなんだか老けたように見えたけど、見間違えたことにした。
「ええ、ええ、あの人は綺麗だって言ってくれるし……まだ……」
メイデーアで物憂げに窓を見ていた私の事が自分でも不思議だった。何故あんな寒くなるようなことをわざわざしていたんだか。
そんな風にドタバタしていたら、一階の方から足音がした。ぺたぺたと控えめに床を鳴らしているのは、子供用のあったか室内スリッパの音だ。この音を鳴らすのは勿論、
「あら、伊織?」
「大きな音がしていたから来たんだ」
イスタルテの転生した姿にして、私の最愛の娘、伊織だ。今年で八歳になる。
小学校の登校までにはまだ三十分くらいあるのに、制服をぴっちり着込み、後は髪を結うだけというほぼほぼ完璧な状態だった。前世の記憶の影響もあるだろうけど、生来キッチリした性格なんだろう。両親よりもしっかりしている時もあるくらいだ。
そういえば、寝坊したお父さんが伊織にジトっとした目で見られ、急かされと、尻を叩かれていたのは面白かった。「なんかパパには厳しくない!?」と涙目で出社していったお父さんの後ろ姿は忘れられない。
「レナ?」
なんて回想していると、伊織がじっと私を見つめていた。慌ててなんでもない、と答え残りの洗濯物干しにかかる。
開く窓。
吹く寒風。
飛ぶ私の前髪。
「寒いわ……急に寒くなりすぎよ……」
今日何度めかになる敗北。
そもそも今年の気温の変化が急激なのが悪い、と言い訳をしておく。
「レナ、はい」
膝を折った私の前に、伊織がヌっと現れた。そして、なぜか手を私に差し出してくる。つるつるでふかふかの可愛い手。クリームパンか小さな紅葉みたいだ。
そんな手を差し伸べられた意図。大丈夫、私には分かる。
「お手伝い?ありがとう、じゃあこのタオルをたたんでいつもの場所においてきてくれる?」
「えっ」
「私は残りの洗濯物を干しちゃうから。あっ!!あんなところに上着が出っぱなしになってるわ、後で仕舞わないと」
「…………」
この時の伊織の顔は、表現しがたいものだった。
顔を顰めたり恥ずかしそうにしたり、苦々しい顔になっては少し怒ったような顔をする。最後には明らかに文句がある、という表情のまま、私に渡されたタオルを持って走り去っていった。
何か間違えちゃったわね、これ。
あの子が走り去ってから数十秒後。今度は控えめなんかじゃなく、勢いに任せたドタドタという足音が聞こえてきた。
小さな肩を上下して荒々しく呼吸をする伊織の姿が可哀想すぎて申し訳なくなる。
「ッハァ……ハァ、ち、違う……!」
「ご、ごめんね、伊織……」
そして突然、伊織は私の手を掴んだ。
子供のふくふくとした手が私の手を握る。ちょっと前よりは一回り小さかったのに、大きくなったわね、と成長を感じるよりも──
「あったかー……」
「だろう?認めるのは癪だけど、子供体温だから」
芯まで伝わる体温の心地よさと言ったら!
ふにゃふにゃに溶け、気持ちよさそうな私を見た伊織が自慢げな顔をした。手をちょっとお借りして頬を温めてみたり、耳を温めたりしてみる。
「これ、困るんだよ。本を読んでいてもすぐに手が温かくなってきて眠くなる。僕は早く先を読みたいのに」
「頭は大人だけど体が子供だからよ。あなたが読んでるのってマクロ経済とかでしょ?体が拒否しているんだわ」
と、色々話をしていたら、伊織が私の手をさすさすと擦っていることに気が付いた。不思議そうにしている私に気付いたのか、伊織は当然だという風に答える。
「君がかつて擦って僕の手を温めたじゃないか、こうするとよく温まるんだろう?」
ああ、そうだった。あの時、私はイスタルテの手があまりにも冷たいからって、必死で温めようとしたんだった。
それを当然のように覚えていてくれたことに胸が熱くなる。思わず奥歯を噛み締め、こらえきれなくなって伊織を抱き締めた。長時間私の手を温めた続けていたせいで、伊織の手はもう冷え始めている。
ねえ伊織、寒い時、自分の体温を躊躇いなく分け与えられる私達は。
「家族よ、私達。家族だわ……」
抱きしめられていた伊織は、泣きそうな顔をした私見てギョッとし、腕の中で暴れ始めた。
「ちょっとレナ!?何を当然のことを……!!ああもう泣きそうじゃないか」
私だって、普通なら何気ない出来事で泣きそうになっているのはおかしいと分かっている。だけど、愛が溢れて涙腺をはち切らさんとしていて、どうしようもない。
はらはらと泣きながら、なんとなく、あの時必死で手を擦る私を見て微笑んだイスタルテの顔を思い出す。
その間、伊織は情緒不安定にしか見えない私に寄り添ってくれていた。しっかりした子だった。
「ありがとう、伊織」
とりあえず涙を抑えなよ、と制服のポケットから差し出されたティッシュで鼻をかむ。いや、本当にしっかりしてるわ、この子。
連邦で何も知らずにいた私のことを思う。最後の最後になるまで、何も知らなかった私。
今は、あなたのことを何も知らない私じゃない。
さっき差し出された手の意図を思いっきり間違えたみたいに、知らないこともあるけれど。段々と知っていきましょう。
私達は家族。私達の物語はこれからなのだから。
「レナー、髪を結ってくれないかー?」
先に一階に降りていこうとする伊織が私を呼んでいる。
「はーい、今行くわ」
「上着を仕舞うのを忘れちゃ駄目だよ!」
「あっ!!私ったら……!」
私、意気込んだはいいけど思った以上にダメダメかも。まあ、逃げることでもないから焦らずにやっていこう。傍らにいる小さい影を見て、そう思った。