お掃除大作戦「…まったく、ボクの許容範囲をはるかに超えているよ、アドラー。」
ウルリッヒの義体が部屋の入り口で立ち尽くしていた。白いぴっちりとしたツナギに、銀色の短い上着が妙に映えて見える。しかし、浮かぶ磁性流体の本体は明らかに機嫌を損ねていた。磁性流体は波打つように形を変え、細かく震えながら不満を吐き出している。まるで怒りの感情そのものが視覚化されているかのようだった。
「…まさか、ここまでとはねぇ。」
ウルリッヒは溜息混じりに呟きながら、少し義体の手を伸ばした。途端に視界に飛び込んでくるのは、散乱した書類の山、空になったコーヒーカップが積み上げられたデスク、床には不吉なまでに無造作に投げ捨てられた資料と雑誌の束。アドラーの部屋は、もはや「研究室」という名のゴミ捨て場に等しかった。
「これで暗号解読班の班員が務まっているのが奇跡だね、アドラー。」
「…俺の部屋に土足で上がり込んで文句垂れるなよ。」
部屋の隅、半ば崩れかけたソファーにもたれかかる男が、ウルフヘアーをだらしなく結んだまま、黒いロングコートに包まれながら面倒くさそうに呟いた。いつものように皮肉っぽい目を向けるが、その下には明らかに寝不足の影が滲んでいる。
「ねぇ、これ…さすがに酷くない?」
その時、部屋の隅で雑誌の山をつま先で押していたのは、同僚のドーラだった。黒いボブヘアーが揺れながら、あきれたように目を細めている。彼女の手には埃まみれのコーヒーマグが一つ。
「ドーラ、ボクたちは暗号解読班であって、ごみ処理班じゃないんだがね?」
ウルリッヒの磁性流体はため息をつくかのように緩やかに波打った。
「でも放っておいたら、ここから新しい生命体が誕生しちゃうよ。」
ドーラが眉をひそめながら、もう一つのマグを拾い上げる。カップの底には乾燥したコーヒーの跡がこびりついていた。
「だから触るなって言ったろ。」
アドラーが投げやりに呟いた。
「掃除するだけだよ、アドラー。キミはそこに座って、せいぜい頭の中で次の暗号でも解いているといい。」
ウルリッヒはすでに決意を固めていた。義体の手は小さなゴミ袋を広げ、片付けに取り掛かろうとしている。
「やめろ。俺のシステムが狂う…。」
アドラーはソファーから身を起こそうとしたが、ドーラが容赦なく片手で押し戻した。
「ねぇアドラー。男の人ってなんでこうも部屋を汚くするの?」
「俺は研究者だ。掃除なんて優先事項じゃない。」
「優先事項じゃないなら、ボクたちがやるしかないだろう?」
ウルリッヒの磁性流体が、冷ややかな球状に収束しながら、床の上の散乱したデータパッドを拾い上げた。次の瞬間、その球体はまるで小さな手のように形を変え、次々と物を整理していく。
「不要物は全部排除させてもらうよ。」
「あんたの美学は過剰すぎるんだよ。」
アドラーはまた皮肉っぽく呟いたが、その声にはどこか諦めの色が滲んでいた。
「んもー何個コーヒーカップ溜めてるのよ?」
ドーラが呆れたように床に積み上げられたマグカップを数えながら、眉をひそめる。
「数えるな。」
アドラーは顔をしかめながら視線を逸らした。
「13個…いや、14個? もう一つあったよ。」
ドーラは次々とカップを拾い上げ、流しに持っていく。
「キミ、コーヒーを入れるのは上手いんだけど、片付ける気はないんだね?」
ウルリッヒの磁性流体は再び波打ち、床に散らばった紙束を巻き込むようにまとめていた。
「…あんたの入れるコーヒーはマズいからな。」
アドラーは投げやりに呟きながらも、ウルリッヒがコーヒーメーカーに手を伸ばすのを目で追っていた。
「へぇ? なら今度はボクのコーヒーでキミの舌を鍛え直すべきだね。」
ウルリッヒは義体の指先でカップを拭きながら、磁性流体を小さく振動させる。その動きは、どこか皮肉交じりの微笑みのようでもあった。
「勘弁してくれ。」
アドラーは再びソファーに身を沈めながら、白いタートルネックの襟元を引っ張った。
「今更だろう?」
「煽るな、ウルリッヒ。」
アドラーの声は、相変わらずのひねくれたトーンだが、どこか力が抜けていた。
「これ床が見えてきたんじゃない?」
ドーラがコーヒーの染みを拭きながら振り返った。
「まるで文明の遺跡を発掘した気分だよ。」
ウルリッヒの磁性流体は穏やかに波打ち、満足げにその場に収束した。
「…俺の研究資料、勝手に触るなよ。」
アドラーがふてくされながら呟いたが、どこか安堵したようにも見える。
「触れてないさ、キミの“大切なゴミ”にはね。」
ウルリッヒの言葉には、いつもの皮肉とほんの少しの優しさが混ざっていた。
「でもこれて、少しは頭も冴えるんじゃない?」
ドーラは手を拭きながら笑みを浮かべ、コーヒーメーカーに新しい豆をセットする。
「じゃあ、せめてマシなコーヒーを頼む。」
アドラーはようやく折れたように呟いた。
「ボクのコーヒーは、キミの鈍った舌には刺激が強いかもしれないよ?」
ウルリッヒは静かにカップを手に取り、義体の手で丁寧に注ぎ始めた。
部屋にはようやく、コーヒーの香ばしい香りが漂い始めていた。
§
「……ふむ。」
ウルリッヒの磁性流体は静かに波打ちながら、“それ”を見下ろしていた。
白くて柔らかそうな紙——明らかに“使用済み”のティッシュが、アドラーのベッド脇の床に数枚、無造作に散らばっている。
「……アドラー、これは何かな?」
ウルリッヒの義体は屈み込み、器用に義手の指先でティッシュの端を摘んだ。
「見たところ、キミが最近使用したもののようだが……。」
磁性流体が柔らかく渦を巻きながら、思考を巡らせている。
ラプラス製の義体の目は、アドラーの反応を一切逃さず見つめていた。
「まさか……風邪でも引いていたのかい? それにしては随分と量が多いようだが……。」
ウルリッヒは首を傾げた。
「……ん?」
その瞬間——
「――うわああああああ!!!」
アドラーは、血相を変えてウルリッヒの手元を見た。
「てめぇ!!! それ置け!! 置けって!!!」
彼は慌てて駆け寄り、ウルリッヒの義手からティッシュを叩き落とそうとしたが、磁性流体の精密なコントロールによって、その動きは軽くかわされた。
「……?」
ウルリッヒは不審げに眉を上げ、わざとティッシュを高く掲げてみせる。
「どうしたんだい、アドラー?」
「いいから置け!! それはっ……!」
「それは?」
ウルリッヒの磁性流体は、あえて柔らかく問いかける。
しかし、その柔らかさは同時に“逃げ場を許さない圧力”でもあった。
「あ……いや……それは……。」
アドラーは目を逸らし、明らかに動揺していた。
「……ん? キミがここまで狼狽えるとは珍しいじゃないか?」
ウルリッヒの磁性流体はゆるやかに揺らぎながら、アドラーの顔をじっと見つめていた。
彼は、目の前の学者が何かを隠していることを即座に察知した。
「……何か、説明したくないことでも?」
「いや、違う、違う……。」
アドラーはぎこちなく笑いながら、顔をこすった。
「別に大したもんじゃねぇよ……ほら、単なるゴミだ。そう、ゴミだ。掃除するんだろ? なら早く捨てろ、な?」
「……ふむ。」
ウルリッヒはその言葉を一度、静かに反芻した。
「ゴミ……?」
彼の磁性流体はごくわずかに硬質化し、ティッシュの表面に付着した微細な成分を解析していた。
——タンパク質、微量の塩分、その他有機成分。
「……ふぅん?」
ウルリッヒの磁性流体は、わずかに波打った。
「この組成は……生理的分泌物か?」
「は?」
アドラーの顔色が一気に青ざめる。
「キミ、風邪じゃないのかい?」
ウルリッヒは再び尋ねたが、今度はまったく違う意味を孕んでいた。
「風邪でこれほどの分泌物が出るというのは、随分と特殊な病状だな。」
「あ、あのな、ウルリッヒ……。」
アドラーは額に手を当て、なんとか言い訳をひねり出そうとしていた。
「ええと、つまりだ……その……。」
「その?」
「……まあ、何だ。」
アドラーは目を逸らし、口元をわずかに歪めた。
「男にはな……いろいろあるんだよ……。」
「……ほう?」
ウルリッヒの磁性流体は再び細かく波打ち、その言葉の“意味”を解釈しようと試みていた。
「いろいろ、とは?」
「あああああ、もういい!!」
アドラーは頭を抱え、荒々しく叫んだ。
「察しろ!! 頼むから、それ以上聞くな……!」
「察する?」
ウルリッヒはあくまで冷静だったが、明らかに“察する”べき情報に辿り着いていなかった。
「ボクは解析したデータを基に推論を立てるが……。」
磁性流体は静かにティッシュを見つめる。
「現状の情報だけでは、キミの“いろいろ”が何を指しているのか、理解できないのだが?」
「もうやめろ!!!」
アドラーはついに叫んだ。
「クソが……!! なんで……よりによってテメェなんかに……!!」
彼は壁に頭をぶつけるようにして、深いため息をついた。
「……生理現象だよ。」
それは、かすれた声だった。
ウルリッヒの磁性流体は、一瞬だけ静止した。
「……なるほど。」
そして、再びゆるやかに波打つ。
「つまり、これは……自己の“生理的処理”の結果というわけか?」
「ああ、そうだよ!! それ以上言わせるな!!!」
アドラーはうなだれ、悶絶したように呻いた。
ウルリッヒの磁性流体は、静かに収縮していた。
「……ふむ。」
ガラス製の思考は、あくまで無機質なままだったが——
その内側で、ウルリッヒは“完全な理解”に至った。
「そういうことか。」
そして——
「しかし、アドラー。」
その次の言葉は、あまりにも“理不尽”だった。
「キミのプライベート空間とはいえ、ラプラス施設内で“生物の遺伝情報”を無造作に放置するのはいかがなものかと思うが?」
「————!!?」
アドラーの顔は、瞬時に真っ赤になった。
「バカかお前はァァァァ!!!」
「え? 何? 何の話?」
ドーラは耳を傾けながら、遠巻きに掃除を続けていた。
当然ながら、彼女はこのやり取りの“本質”にまったく気づいていない。
「ウルリッヒ……てめぇ……。」
アドラーの目は、殺意に満ちていた。
「あんた、今すぐ消えろ。」
「それは困るな。」
ウルリッヒは、わずかに肩をすくめてみせる。
「ボクはまだ、掃除を完遂していないのでね。」
「クソが……!!!」
アドラーは顔を真っ赤にして、再び壁に頭をぶつけた。
「……死にてぇ。」
その呟きは、これまでで一番、本気だった。
ウルリッヒの義体は、まるで研究者が新たなサンプルを発見したかのように、次々とアドラーの“収集物”を拾い上げていた。
アドラーの部屋の隅、引き出しの奥から——
「これは……?」
ウルリッヒの磁性流体が、ごくわずかに硬質化しながら“それ”の形状をなぞっていた。
「弾力性のあるシリコン製……内部構造は複雑な波状……空洞があるが、これは……?」
アドラーの目が一瞬で見開かれる。
「てめぇええええええ!!!!」
しかし、その言葉より早く――
「……これは、何かな?」
ウルリッヒの義体の義手が、器用に“オナホール”を摘み上げていた。
柔らかいピンク色のシリコンが、彼の義手の指にむにゅりと押し潰されていた。
「形状的には……人工器官の一部か?」
ウルリッヒの磁性流体は興味深げに渦を巻きながら、その表面を丹念に解析していた。
「だが、これはどう見ても……消化器系ではないな。では、何の目的で――」
「違う違う違う!! それは置けえええええええ!!!」
アドラーは、顔を真っ赤にして飛びかかるようにウルリッヒの義手を押さえ込もうとした。
「な、何でそんなモンを引っ張り出してんだよ!!! それ以上触るな、頼む!!」
「む?」
ウルリッヒは冷静にアドラーを見つめた。
「アドラー、キミの挙動はますます不可解だな。」
磁性流体が微かに収縮しながら、まるで“思考”するかのように波打っている。
「この人工器官、あるいは疑似臓器が――」
「違うッッッ!!! それはそういうモンじゃねぇえええええ!!!」
アドラーの叫び声が部屋に響き渡った。
ドーラはというと、遠くのキッチンでコップを集めて洗っており、相変わらず何も気づいていない。
「え? 何かあったのー?」
ドーラの声が、遠くから届いたが、ウルリッヒは答えなかった。
「……ふむ。」
ウルリッヒの義体は“それ”をじっと観察していた。
「では、これは……一体、何だ?」
ウルリッヒの磁性流体が再び動き、解析を続ける。
「キミの反応を見る限り、これは非常に個人的かつ重要なモノのようだが……。」
アドラーは顔を覆い、全身を震わせていた。
「……ウルリッヒ、頼むから、これ以上……。」
声はかすれていたが、明らかに限界だった。
しかし——ウルリッヒは止まらない。
「……ボクが解析した情報によれば、これは“男性の自己処理用デバイス”という分類が適当か?」
「違う……いや、違わねぇけど!!」
アドラーの叫びは半ば自暴自棄だった。
「……ふむ。」
ウルリッヒの義体は、まったくの無機質な表情で再び床を見つめる。
今度は引き出しの奥に、さらに別の“アイテム”を発見した。
「これは?」
アドラーが反応する暇もなく、ウルリッヒの義手が“成人向け雑誌”を取り出していた。
表紙には、明らかに刺激的すぎるポーズを取った女性が微笑んでいる。
分厚いページには——間違いなく“そういう”内容が詰まっていた。
「この冊子は……?」
磁性流体が微かに波打ち、文字情報を読み取っていく。
「……ああ、なるほど。」
ウルリッヒの磁性流体は、まるでパズルが解けたかのように柔らかく収縮した。
「これは“性的欲求を満たすための視覚資料”だな?」
「お前……。」
アドラーはすでに顔が真っ赤を通り越し、耳まで真っ赤に染まっていた。
「やめろ、頼む……。」
しかし、ウルリッヒの解析は止まらない。
「ページの状態を見るに、かなり使用頻度が高いようだ。」
「ウルリッヒいいいい!!!」
アドラーの叫び声が部屋に響き渡る。
だが——ウルリッヒはすでに、次の“発見”に目を向けていた。
「……む?」
今度は——
「これは……?」
義手の先で摘み上げたのは、細長いローションのボトルだった。
「高粘度の液体……用途は?」
アドラーはもう何も言えなかった。
顔を真っ赤にしたまま、ただ壁に頭を預け、遠くを見つめていた。
「あああ……俺はもう……終わった……。」
その声は、まるで魂の抜け殻のようだった。
「ウルリッヒ……。」
声すらもかすれていた。
「頼む……もう、やめてくれ……。」
しかし——
「……?」
ウルリッヒは、まだ理解しきれていなかった。
「キミは“個人的なコレクション”をかなり大切にしているようだが——」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!」
アドラーはついに爆発した。
「もう触るな!!! 俺の部屋から出てけ!!! いや、俺が出ていく!!!」
その瞬間、アドラーはドアの方へと突進した。
「どこへ行くんだい、アドラー?」
ウルリッヒの磁性流体が冷静に揺れながら、後ろから呼びかけた。
「この状況で逃げても、部屋はまだ片付いていないぞ。」
「……死ぬ!! 今すぐ俺は転落自殺する!!!」
アドラーは叫びながら廊下へ飛び出した。
「……ふむ。」
ウルリッヒの磁性流体はゆるやかに波打ち、分析結果をまとめながら——
「理解し難いな。」
小さく呟いた。
そして——
「あれ? アドラーはどこ行ったの?」
ドーラが、コップを洗い終わって戻ってきた頃には、アドラーはすでに“消え去った”後だった。
ドーラが部屋に戻ってきたのは、アドラーが転落自殺を叫びながら飛び出してから、ほんの数分後のことだった。
彼女は、ピカピカになったコップを両手に抱えながら、満足げに頬を緩めていた。
「はぁ〜、やっと終わった!」
ウルリッヒとアドラーが片付けている間、彼女はキッチンでせっせとコップやマグカップを磨いていたのだ。
「ねぇ アドラーは?」
部屋を見渡して首を傾げた。
アドラーの姿はどこにもない。
その代わり、部屋の床には“見なかったことにした方が良い”物体が静かに鎮座していた。
雑誌、ローション、そして――
「ん?」
ドーラの視線が、ウルリッヒの義手に目を向ける。
だが、幸いなことにウルリッヒはすでに“問題のブツ”を引き出しに押し戻していた後だった。
磁性流体がわずかに波打ちながら、まるで何事もなかったかのように落ち着いている。
「さぁね?」
ウルリッヒは、冷静に答えた。
その声は、まるで“ボクには関係のない話”とでも言うように、淡々としていた。
彼の義体の表情も変わらず、磁性流体の動きも静かだった。
「アドラーなら、少し気分を変えに外へ出たんじゃないかな?」
ウルリッヒは軽く肩をすくめながら、何気ない風を装って答えた。
もちろん——
(さすがに、キミには話せないね。)
磁性流体の内側で、ウルリッヒは静かに呟いていた。
今、ここで“何が起きたか”をドーラに伝えることは——
決して“得策”ではなかった。
「ふーん? 変なのー。」
ドーラは、小さく首を傾げながら、ウルリッヒの反応に軽く唇を尖らせた。
「アドラーはあんまり外に出るタイプじゃないのにねー。」
彼女は、無邪気にそう言いながらテーブルの上にコップを並べていく。
「最近はずっと引きこもってたのに……何かあったのかな?」
その言葉に、ウルリッヒの磁性流体がごくわずかに揺らめいた。
「……さぁね?」
ウルリッヒは心の中で、そう呟きながら、静かにアドラーの“失態の痕跡”が完全に片付いたことを確認した。
「まぁ、すぐに戻るんじゃないか?」
そう付け加えながら、ウルリッヒの義体は部屋の片隅に移動し、床の細かいホコリをスキャンしていた。
「あ、そういえばね。」
ドーラが唐突に思い出したように声を上げた。
「私、さっきコップ洗ってた時にね、なんかすごく甘ったるい匂いがしてさ〜。」
「甘ったるい匂い?」
ウルリッヒの磁性流体が、微かに反応した。
「うん。なんだろう……バニラみたいな、いや、ちょっと違うかなぁ?」
ドーラは首を傾げながら、匂いの記憶を辿っていた。
ウルリッヒは、ほんの一瞬だけ磁性流体を硬質化させた。
(……ああ、あれか。)
彼の義体の記憶データには、“その匂い”の正体がしっかりと記録されていた。
——アドラーの“コレクション”の一部に付着していた、“ローション”の香りだ。
「ふむ……それは、何かの洗剤の香りだろう。」
ウルリッヒは、何気ない口調で答えた。
「ラプラスの施設では、時々違う洗剤が使われるからな。」
「あ〜、そっか!」
ドーラはすっかり納得した様子で、手をポンと叩いた。
「それにしても、アドラー……本当にどこ行ったんだろう?」
彼女はもう一度部屋を見渡したが、当然アドラーの姿はどこにもなかった。
「あんなに慌てて出ていくなんて、何か……よっぽどのことがあったのかなぁ?」
「……ふふ、どうだろうね。」
磁性流体は、どこか満足げに小さく波打っていた。
「きっと、すぐに戻るさ。」
ウルリッヒは、そう言いながら、静かに“何も知らない”フリを続けていた。
「あ、そっか! じゃあ、待ってよーっと。」
ドーラはソファに腰を下ろし、のんびりとくつろぎ始めた。
その無邪気な笑顔の裏で、ウルリッヒは——
(アドラー、次に会う時、キミはボクをどんな目で見るのかな?)
そう静かに思いを巡らせていた。
部屋は静かだったが、ウルリッヒの磁性流体だけが、わずかに波打っていた。
まるで——
“興味深い実験結果”を噛み締めているかのように。