神様の御座す処【モブ俺視点wdtm坂伴ss】俺は漁港のある小さな町に生まれた。
うちは神職の家系で、家の真裏にある神社の宮司を代々務めている。神社は町と海を一望出来る見晴らしのいい高台にあり、俺はそこから見える景色が昔から大好きだった。晴れた朝は特に綺麗で、神社の鳥居を潜った先にある長い大階段を走り降りたものである。階段には等間隔で鳥居が連なり並んでおり、鳥居は階段の先に広がる海にまで繋がっているのだ。ーーそれが、どういう意味かも知らず。
「明朝、“ご挨拶”に行くからお前も一緒に来なさい」
「え……」
父さんにそう言われたのは、五歳の誕生日を迎えた夜のことだった。口の周りを餡子でべたべたにしながらお婆ちゃん特製のおはぎに齧り付いていた時、先程まで笑っていたのが嘘のように静かな声でそう言った。
「お母さん、そういうことだから」
「分かりました。じゃあ、今日は早く寝ないとね」
何が嬉しくて朝四時に起きねばならんのか。
俺は子供ながらに絶望した。
父と母が毎朝早起きなのは知っていた。父が朝のお務めをしに海岸に行っているのも知っていたが、まさか幼稚園児にそれを強要してくるとは思ってもみなかったのだ。
「お姉ちゃん達はしてないのに!?」
「お姉ちゃんやお母さんは駄目なんだ」
「なんで!? なんで僕だけ?」
「成人したら教えてやる。ついでにプレゼントのゲームはまだやっちゃ駄目だ」
「えぇえええーーっ! やだよっ!!」
「こら、わがまま言わないの」
本当に意味が分からなかった。年上の姉二人は免除されていることを自分だけ、プレゼントに貰ったゲームもお預けで何が楽しくて朝の海に行かなければならないのか。朝から散髪屋で毬栗坊主にされた意味も、肉っ気の一切ないご馳走と誕生日ケーキの代わりの特大おはぎの理由も。俺は翌朝知ることになる。
***
朝四時、日の出前の薄暗さに目覚まし時計のアラームが鳴り響く。純白色の斎服に身を包んだ父さんに揺すり起こされ、俺は神社の境内に連れて行かれた。そこにはお爺ちゃんが既にスタンバイしており、隣にはでっかい樽が置いている。
「な、何これ」
「神社の湧水を汲んでおいた。ほらここに入るんだ」
「お父さんは!?」
「私はもう終わった」
あれよこれよとパジャマとパンツを脱がされ、素っ裸にされると俺は頭から水をぶっかけられた。水を何度もかけられ、樽の中に無理やり肩まで浸からされる。
立春を迎えたとはいえ、朝はまだ肌寒い。境内から湧き出た山の湧水は刺さるような冷たさで、全身の毛穴を容赦なく突き刺した。思わず涙が出た。そんなこと、お爺ちゃんと父さんはお構いなしなのか。上がってきた俺の肩を水面に深く沈め、何やら唱えながらひたすら水を頭からかけ続けた。それが物凄く怖かった。
「ひっ、ひぅ……うぅっ、うぅっ。冷たい」
「我慢我慢」
唇が紫色になるまでそれを続けた後、ようやく俺は樽から出された。ガタガタと歯を震わせていると、お爺ちゃんがバスタオルで身体を拭いてくれた。慣れた手つきであっという間に白衣と揃いの差袴を着せられる。寒い。
「ほら、爺ちゃんの膝に足のせろ」
俺が泣きべそをかきながらそれに従うと、お爺ちゃんは入念に俺の足をタオルで拭って白足袋を履かせた。父さんと揃いの白木の桐右近下駄を履いて、着替えは終了。片付けをするお爺ちゃんに見送られ、俺は父さんと大階段を降りて行った。いつもと変わらぬ穏やかな海は、どこか仄暗い青をしていて。薄暗い空の下、大階段から海岸まで並んだ朱色の鳥居がやけに目についた。
「何しに、……行くんだよ、海なんか行って」
「我が家に生まれた男児は五歳になったらご挨拶に行く。そういう決まりなんだよ」
「挨拶? 誰に?」
「会えたら否が応でも分かる。気に入られれば、父さんみたいに毎日朝と夜ご挨拶に行く」
「毎朝!? ずっと!?」
「ずっと。精進潔斎と水垢離をして、身体を清めてから挨拶に行くんだ」
「だ、だから誰に挨拶するの?」
「私達がお仕えする、海神様達にだ」
「ワダ……ツミ、様?」
「昔からこの海に御座す神様だよ」
この国には八百万の神々がいるとされているが、まさかそんなオカルトじみた話を五歳児にして信じなくてはならないとは。神妙な顔でそう話す父の端正な横顔を見上げながら、俺はしみじみ自分の生まれた家の“おかしさ”を理解した。
大階段を降り、道路を渡った先。
砂浜に繋がる短い階段を降りて、俺と父さんは岩場に向かった。海岸から突起した岩場の奥、真っ白な鳥居が寂しげに立っていた。ここは普段から町の人達も足を踏み入れることを許されていない特別な場所で、俺はその日初めてこの鳥居を潜った。
「い、いいの?」
「私とお前はいい。お母さん達は駄目なんだ」
「お爺ちゃんは?」
「お爺ちゃんは俺がお前ぐらいの頃から祭事の日以外は殆ど来ていない。……海神様に嫌われててな。『来るな』と言われたらしい」
「僕も嫌われたら、行かなくて済む?」
「まぁ……多分。だが、どうだろうな。お前は……好かれるかもしれない。俺の跡を継ぐのはお前だし、お前は俺によく似てるから」
歩きにくい凸凹とした岩場に波が絶えずして打ち寄せる音を聞きながら、困ったように微笑む父に手を引かれ、鳥居の先にある小さな祠の前に立たされた。祠には日本酒が二本と、榊や果物が供えられている。父さんは先程からガサガサとさせていただたビニール袋から煙草の小箱とマッチを取り出した。
「た、煙草?」
「海神様が好きなんだ。銘柄はこれ、二丁目の煙草屋さんから取り寄せてる。これしか吸ってくれないんだ。言われたらこうやってお供えするんだぞ」
ーーどんな神様だ。
俺が内心ツッコんでいると、「続けなさい」と言われ、父さんが祠に向かってニ拝二拍手一拝を行う。
背中を平らに折り、腰を九十度の角度まで折ると深いお辞儀を二回。続いて俺も同じく父さんの真似をした。胸の高さで両手を重ねると、右の指先を少し下げるよう言われた。言われた通りにすると、肩幅程度に両手を開いて二回拍手を打ち鳴らした。ずらした右の指先を正し、最後に一回深いお辞儀をして終わりである。
「手を合わせて目を瞑りなさい。俺が良いと言うまで話しちゃいけない。目を開けてもいけない。いいな?」
父さんはどこからともなく手桶と柄杓を取り出すと、海から水を汲んだ。それを辺りに撒き始める。
「な、なにしてるの」
「海神様が陸に上がる準備をしている。今の時期は良いが、夏場はすぐ乾くから沢山撒くんだ」
「僕が!?」
「お前が成人するまでは私がする。お前が大学卒業後はお前が一人でするんだ」
「う……うん」
どうやら俺の人生はこの段階で既に大学卒業後まで決まっており、その拒否権はないらしい。
「始めるぞ。ーー……」
父さんの祝詞が始まると、俺は再び手を合わせた。きつく目を瞑り、早くこのよく分からない儀式が終わることを願った。何が朝のご挨拶だ、何が海神だ。煙草を吸う神様なんているわけない。父さんもお爺ちゃんも皆でドッキリでも仕掛けているんだ。そうに決まっている。
そう思った矢先、今まで聞こえていた潮騒が一瞬にして遠のいた気がした。ただ、父さんのよく通る声が難しい日本語を紡ぎ続けている。それは心地良くも、背筋に粟立つものを感じた。
程なくして、祝詞を終えたのか。父の声が聞こえなくなった。辺りが怖いぐらい静かになると、チャプッ、チャプッと水面が跳ねる音が聞こえた。岩場の両サイドから次に聞こえたのは、海から誰かが上がってくる音。豪快に水飛沫が上がったのか。右側から水飛沫が飛んできて、俺の頬に海水がかかる。
「……海神様、朝の御挨拶に参りました」
父さんの声が確かにそう言った。思わず眉間に皺が寄る。一体誰と話しているのか。目を開けたい、だが同時に決して目を開けてはならないとも思った。
「いつもご苦労。今日は……二人か」
「はい。私の息子が昨日五歳の誕生日を無事迎えましたので、連れて参りました。名前はーー」
聞こえてきた見知らぬ男の声が父さんと言葉を交わし合う。
「確かにお前の小さい頃によく似てるな」
父さんよりも低い声は穏やかながらにも芯がしっかりとあり、最近駐在所にやって来た警官の話口調に少し似ていた。
「伴、どうだ。次の宮司だそうだ。気に入ったか?」
ばん。ーーばんって、誰だ?
俺が眉間に皺を寄せ、かたかたと震えていると誰かが俺のすぐ側に歩み寄ってきた。見ていないので分からないが、静かな足音と共に俺に影を落とした確かな気配。父さんでも、今話している男でもない。第三者が今俺の目の前にいて、あろうことか俺の匂いを嗅いでいる。小さく鼻を鳴らす様は、近所に住み着いている野良猫のみーちゃんに既視感を覚えた。これがみーちゃんであれば、どれだけよかったか。
「……」
「娘が三人生まれたと聞いた時はもう駄目かと思ったが、繋がってよかったな」
「はい。これも海神様のお恵みのお陰でございます」
「だそうだ。ば……伴、少し近いぞ。もう少し離れなさい」
どうやら今俺の首筋の匂いを嗅いでいるのは“ばん”というらしい。
ばんは首筋から移動させた耳の裏に鼻先を埋め、すぅっと深く鼻で深呼吸をした。すると父と話していた男が声を荒げながら、こちらに近づいて来る。
「伴、近い近いっ!」
「小便臭いガキ相手に妬かないでくださいよ。ただ匂いを嗅いでただけでしょ」
「だからって距離が近過ぎる! 今口先が触れたぞ!!」
「へぇへぇ、そりゃすいませんね。なにぶん目が悪いもんで、間隔が掴めんのですよ」
ばんは目と口が悪いらしい。
お世辞にも思っていた神様像からかけ離れた二人の男の声を頭上に聞きながら、俺は早く目が開けたくて仕方なかった。だが、まだ父さんからの許しはない。歯痒い。
「伴、“火遊び”は煙草だけにしてくれ。頼む」
「あ……煙草。煙草はあるのか?」
「はい、お持ちしております」
「おーい、伴。聞いてるのか?」
「聞いてますって、火遊びは程々にしろって話でしょうが」
ばんはそう言うと、俺の頭を乱雑に撫でまわした。男の悲鳴があたりに響き渡る。
「このガキは夜も来るのか?」
「お気に召さなければ成人まで決して来させません」
「……」
ばんは父さんの問いに答えなかった。答えない代わりに、抱き締められた。父ではない。きっと叫んでいる男でもない。俺を包み込むように抱きしめるこの人物はーーばんだった。
ばんは無言で俺の後頭部に背中に回した手の力を強めた。苦しかった。でも嫌ではなかった。馴染み深い潮の香りに混じって香る煙草の匂いが酷く騒ついた胸の内を落ち着けてくれる。これが神様の匂いなのだと思った。
「あーー……どうやら気に入ったらしい」
「!?」
「くそっ。夜の挨拶に連れてこい。この……くぅっ。あぁっ、もう! 子供だけでいい。お前は町民達と祭りの準備を進めておけ。滞りなくな」
「承知しました」
「目隠しは必ず持ってくるように。伴、いつまで抱き締めてる! 人間臭いのが移るから離れなさい。さっさと帰るぞ」
男は嵐の如く早口でそう言うと、俺からばんが離れていった。名残を惜しむように背から頭を冷たい指先が這い、刈られたばかりの毬栗頭を何度か撫でられる。擽ったいような、気持ちがいいような。不思議な心地よさを感じた。
ーー“またな”。
その言葉を最後に、辺りは静寂に包まれた。穏やかな潮騒が戻ってくると、ようやく父さんからの許しが出た。じんわりと濡れた白衣を触りながら、俺は深呼吸を繰り返し、恐々と唇を開いた。
「お、お父さん……今の」
「お前が海神様に気に入られてよかったよ。さぁ、家に帰ろう」
「今のが神様!?」
「あぁ。私も初めて会った時同じことを思ったよ」
夜明けと共に俺は父さんと家に帰った。
大階段を上がりながら、振り返るとそこには二人の神様が暮らす海が瑠璃色に光始めていた。橙色の地平線が走る夜明けの海は美しい。だが用心することだ。その水面の下、深い深い海底に御座す神々に魅入られぬように。