男は女を愛していた。
何故なら、女の存在が深く己を満たすものであったからだ。男よりよっぽど小さく柔い体は、少し触れるだけで大袈裟に傷つき男を楽しませたし、喉奥で押し殺そうと努力した悲鳴はうるさくなくて、どこまでも都合がよかった。
男の所業に決して反抗せず、耐えるばかりの姿は少しつまらなくもあったが、許しを請うような甘えた目で見上げられるのは、なかなか気分の悪いものではない。
そして何より、男――ニェンの振る舞いを見ても、主人であるルーサーが女の味方をしなかったこと。これが取り分けニェンを満足させることとなった。普段、残酷なほどに平等で公平なご主人様が、この女と天秤にかけたうえで、明確に自分を贔屓した。ニェンはそう感じていた。主人にとって、自分は特別扱いに値するペットだと。言葉はなくとも伝わってきた気がした。
◆
食事の席で、顔を青々とさせる女がいた。
家族全員で囲む愛ある食卓で、女一人が孤独に震えている。ニェンはそれを哀れに思う。腹が減っているだろうに、食事が下手なせいで一人では食べることが出来ないのだ。
ニェンは席を立ち女の傍に立つと、代わりに皿の中身をスプーンで掬う。頑なに結ばれた口まで運んでやると、女は懇願するように首を振った。珍しく抵抗をみせる様子に、ニェンの口角が愉し気に持ち上がる。ほんの少しの時間、抵抗を満喫したあと、お構いなしに唇を指で割って、その隙間から料理を流し込んだ。嘔吐く女の耳元で「飲み込め」と低く囁いてやると、涙をこぼしながら頑張って嚥下する。その姿がいじらしく可愛いので、ニェンはよくやったと頭を撫でてやった。
「わたしのペットたちは仲がいいね」と主人が喜ぶので、ニェンはますます女のことが好きになった。
◆
女が逃げた。
偶然か意図したことかは知らないが、月のない夜だった。明かりもなく薄ぼんやりとした廊下は、女にはさぞ暗かろう。ニェンは、もたつく足で必死に自分から逃れようとしている女の背中を見て、かわいそうにと口の中でぼやいた。
誰も彼も、お前を逃がすつもりなどないのに。
女に対して、ニェン以外の家族は静観しているように見えた。生きていくうえで必要なものは与えるが、その環境をどう扱うかは女の意思に任せる。彼らは、彼女がアイボリー家に適応するのを、一歩引いたところで常に見守っていた。仔猫を迎えたばかりの家族のように。人外の考えなどわからない女からしてみれば、ただただ不気味でしかなかったのだけれど。
ニェンから見て、女は落ちこぼれだった。ネズミのようにおどおどしているくせに、追い詰められたって噛みつかない。食事も下手くそ。少しいじめてやっただけでドラマチックに痛がってみせるが、ニェンからすれば通りすがりにちくっと爪を立てた程度のものだ。勘も鈍くて、一人ではバスルームにさえ辿り着けないのに、そんな弱っちい小さな体で、一体どこへ逃げられるというのだろう……。
女の懸命な足音と呼吸の音に混ざって、ニェンの喉元から漏れる低音が、静かに空気を揺らした。
この家は望む者の想いに合わせて形を変える特性を持つ。気まぐれなので、常に何時もというわけではないが、今日に限ってはニェンの気持ちに応えるかのようだった。出口どころか逃げ込める部屋さえ現れない廊下を、女は逃れるために、ニェンは追うためにひたすら駆けた。
永遠とは、世間一般でもてはやされるよりもずっと恐ろしいものだ。それに薄々気づいたのか、やがて女の足が止まり、その場に崩れ落ちる。自分を守るように、頭を抱えてうずくまるその姿にニェンは庇護欲をそそられ、女の傍に片膝を立てて寄り添った。荒い女の呼吸が嗚咽に変わっていく。
「――悲しいか? 恐ろしいか? 可哀想になあ……」
罪びとの懺悔に心を砕く神父のように、心からの慈悲をもって語りかける。
女がどんな表情で自分を見るのか、知りたくなったニェンは、その頭を抱え込む腕をやさしく解いてやった。硬く閉ざされたまぶたは、全てを拒むように寂しく震えている。涙で濡れた頬を指の背で撫でてやると、女は身を震わせて息をしゃくりあげた。
女のことが、哀れで、かわいそうで、かわいくて、愛おしかった。何も出来ない女のことを、ニェンはずっと自分だけが憐れんで、かわいがって、慈しんで、愛してやりたくなった。
小さく震える耳にそっと唇を寄せ、口づけるように言葉をそそいでやる。
「いま、お前を救ってやれるのは俺だけだな?」
女は指を組み、目を閉じたまま何度もうなずいてみせる。その姿はまるで、神に祈る敬虔な信者のようだった。
救いうるは愛なり